唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

開成元~二年 西暦835~36年

2020-04-25 10:04:05 | Weblog
開成元年 西暦835年
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宦官達は無頼な神策軍を使い文宗・文官を圧迫し専制しようとした。宰相李石・鄭覃はそれを制することができなかった。ところが、

二月、昭義節度使劉從諫上表請王涯等罪名。
巻き添えで殺害された涯と親しかった從諫が「涯になんの罪があったのか、説明して欲しい」と上奏、さらに「説明を聞くために入朝したい」と、宦官達を脅してきた。当然単身で入朝するわけはなく軍を率いてくるわけであるし、他の藩鎭も同行するかもしれない。正当性もなく、雑軍である神策軍では対抗できない中尉仇士良や魚弘志は狼狽した。涯に文宗に対する罪状があるわけはなく、説明などは出来ない。圧迫していた文宗や宰相連に対処を頼むしかなく、専権を引っ込めるしかなくなった。しかし宦官連は深く從諫を恨んだ。
文宗は從諫を昇進させ、その使臣をわざわざ召見して慰撫した。宦官への牽制であり、宰相達も政策がうてるようになってきた。

四月甲午,李固言が復相。
李訓等に排斥されていた牛李党の官僚達が続々と復帰してきた。

八月鄜坊節度使蕭洪詐稱太后弟,事覺。流驩州。
文宗の母蕭氏は福建の貧家の出身で、実家は残っていなかった。弟がいるとのことで捜索し洪を見つけて登用したのだが密告により偽りであることが判明した。その後、数人弟と称する者が現れたがいずれも偽りであった。

開成二年 西暦836年
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六月河陽軍亂,逐節度使李泳。
泳は長安の商人で宦官に贈賄して神策軍に入り、節度使となり、聚斂でその投資を回収するという連中であった。京師の神策軍のほとんどはそういう類でパレードには使えても戦力はなかった。また唐朝麾下の節度使達のほとんどは宦官系であろうとなかろうと金儲けだけに熱心な腐敗官僚たちであった。

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