・貞元元年[785年]7月都知兵馬使達奚抱暉鴆は乱を起こし張勸を殺した。やっと李懷光の乱が鎮定でき、
淮南からの漕運が回復できるようになってきた状況での反乱に唐朝は動揺した。
・宗皇帝は信頼する謀臣李泌を都防禦觀察陸運使に任じて事態の収拾を図った。泌は巧みに軍乱を鎮め抱暉鴆を
河北に逃がして最小限の動揺で事態を抑えた。
・京師では兵士への給養もままならず。再び動乱が起きる可能性が有り。泌は京師への漕運の回復に努めた。
・貞元3年[787年]泌は宰相となった。
・その後陝虢は財政に明るい文官の赴任地となった。牙軍の動きもなくなり漕運中心の安定した方鎭となっていった。
・太和3年[829年]には都防禦観察使より陝州防禦使に格下げになったが、開成元年[836年]には復された。
・咸通10年[860年]民乱により觀察使崔蕘が逐われた。
・乾符4年[877年]軍乱により観察使崔碣が逐われた。(咸通10年との記事混乱が見られる)
・廣明元年[880年]黃巢の侵攻により陝虢も一時崩壊し、中和元年[881年]に復し汾州刺史王重盈(河中重榮の兄)が赴任した。
淮南からの漕運が回復できるようになってきた状況での反乱に唐朝は動揺した。
・宗皇帝は信頼する謀臣李泌を都防禦觀察陸運使に任じて事態の収拾を図った。泌は巧みに軍乱を鎮め抱暉鴆を
河北に逃がして最小限の動揺で事態を抑えた。
・京師では兵士への給養もままならず。再び動乱が起きる可能性が有り。泌は京師への漕運の回復に努めた。
・貞元3年[787年]泌は宰相となった。
・その後陝虢は財政に明るい文官の赴任地となった。牙軍の動きもなくなり漕運中心の安定した方鎭となっていった。
・太和3年[829年]には都防禦観察使より陝州防禦使に格下げになったが、開成元年[836年]には復された。
・咸通10年[860年]民乱により觀察使崔蕘が逐われた。
・乾符4年[877年]軍乱により観察使崔碣が逐われた。(咸通10年との記事混乱が見られる)
・廣明元年[880年]黃巢の侵攻により陝虢も一時崩壊し、中和元年[881年]に復し汾州刺史王重盈(河中重榮の兄)が赴任した。
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