唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐朝の皇太子 その①

2018-02-10 14:55:03 | Weblog
唐朝は鮮卑の末裔が建国した非漢民族国家であり、遊牧民族[父子相続ではなく力のあるものが継承する]としての色彩が強く残っている。しかし漢民族の国制も継承するため皇太子制度を敷いたが、他王朝と違ってきわめて不安定なものであった。歴代の皇太子を例に上げてみよう。

①初代高祖では兄皇太子が弟に殺害され。弟=太宗が簒奪した例から。

高祖 隠太子建成
建成は世民[太宗]、玄霸[贈衛王]、元吉[齊王]とともに高祖の正妻である竇皇后の子であり、22人の兄弟の長子である。
高祖の京師制圧・唐建国に際して世子・皇太子となり、高祖を助けて活躍した。
弟世民[秦王=太宗]が薛仁杲・劉武周・竇建徳征討に大功をあげ、破格の恩賞[天策上将・太尉・尚書令]を受け、強大な勢力を築いたため不安定な立場となった。
しかし性格は温和で、家臣達の信望は厚く、劉黒闥や突厥との戦いでみせたように能力も高く、弟元吉を始め弟達からもよく慕われていた。
建成は既に皇太子であり、唐が安定するほど活躍の場がなくなる世民を圧倒することは確実であった。
焦った世民は武德9年6月に玄武門で襲撃し、元吉共に殺害し、高祖を脅迫し自立した。
そのとき建成の5子はすべて元吉4子とともに殺害された。
正史には太宗の立場に立って建成の非がいろいろ記述されているが信じるに足りない。
高祖は兄弟の不和には悩んだが、太子を廃する意志はなかった。
世民[太宗]はさすがに寝覚めがわるかったのか、即位後贈息王、贈隠太子とし、自分の子趙王福に継承させた。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 正史の建前1 宦官魚朝恩誅殺 | トップ | 唐朝の皇太子 その2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事