唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

玄宗前史

2020-07-17 10:00:17 | Weblog
玄宗前史
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隆基は睿宗の第三子で、則天に殺された竇氏が母です。六人兄弟[成人したのは五人]。

垂拱三年閏正月、傀儡皇帝睿宗の子として楚王となりましたが、長壽二年臘月、則天に母竇妃達が殺され兄弟達とともに降されて臨淄郡王になりました。

性英武で騎射に通じ、学問も一応できたそうです。

則天時代は衛尉少卿や潞州別駕[潞州時代の旧宅は飛龍宮になりました]などを体験しています。

神龍元年の復唐には関係していません。

その後、京師内外を巡遊し、豪傑や若手軍人との交遊を深めて、手なずけていったようです。

景龍四年[景雲元年]六月には叔母太平公主や劉幽求、鍾紹京などと萬騎兵を率いて韋后一族の討滅に大きな功績を上げています。

殿中監兼知内外閑廄檢校隴右群牧大使押左右萬騎となり、封平王,同中書門下三品。
[親王でありながら兵権を握り、宰相に連なっています。]

睿宗が即位すると、兄宋王成器[睿宗が傀儡皇帝であった時は皇太子]の譲りをうけて皇太子となりました。成器や他の兄弟との軋轢はなかったようです。

その後、先天元年八月まで、叔母太平公主との闘争が続きます。則天の娘である太平公主は果断有能で行政能力があり、英武ではあっても経験不足で遊び人の皇太子は圧迫されていました。

八月、いちいち面倒になった睿宗は嫌になり、皇太子[玄宗]に譲位します。しかし太平公主が巻き返し優柔不断な睿宗に実権を残し、玄宗は傀儡皇帝扱いになります。

その後、先天二年七月まで、太平公主の攻勢が続き、宰相・官僚の大半も公主側につきます。
しかし一部官僚と若手軍人達は玄宗派であり、七月軍事行動を起こして、太平公主、岑羲、蕭至忠、竇懷貞等を殺害し実権を握りました。

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