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劉沔伝
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沔、徐州彭城人で字は子汪。
父廷珍は左驍衛大將軍東陽郡王。
沔は父を早く失い振武軍に入る。
節度使范希朝は牙將とし、将来自分の後を継ぐ人材と評価した。
忠武李光顏の先鋒將となる。驍銳で騎射を善くする。
元和末,淮西吳元濟の強兵と接戦し勇名を轟かす。
淮蔡が平定すると、光顏に従い入朝し神策将となり、歷三將軍。
宝暦.鹽州刺史
天德軍防御使、邊防に功績があったという。
太和末に右神策大將軍。
太和九年六月.涇原節度使に進む。
九月.檢校右散騎常侍單于大都護御史大夫振武麟勝節度使に転じる。
開成三年/二年七月.突厥の侵攻を大破し、都護府の西北四壘を築く。
檢校戶部尚書.彭城郡開國公食邑二千戸。
武宗立,檢校尚書左/右僕射。
五年十月.回鶻帝国が崩壊し残党の天德軍侵攻を撃退。
八月/三月.又回鶻が侵攻し太原、振武を寇掠。
李拭が北邊を巡視し沔を推薦し、檢校尚書左/右僕射太原尹北京留守河東節度兼招撫回鶻使/回紇南面招討使となった。
會昌二年七月.嵐州人田滿川が據郡叛,沔が誅する。
回鶻の一部が歸附し太原に撫す。
九月.兼招換回鶻使
三年二月.雁門關に屯して雲州に回鶻を大破し、太和公主を奪回した。
檢校司空。進金紫光祿大夫,賜一子官。
また残党を逐い、滹沱河に殲滅した。
昭義劉稹が自立すると南討し榆社に屯した。
十月.しかし回鶻の戦功で幽州節度張仲武と対立していたため、
憂慮した唐朝は檢校司空兼滑州刺史御史大夫充義成軍節度鄭滑濮觀察等使に移した。
四年三月.征討使忠武王宰がはかばかしく進軍しなかったので、
宰相李德裕は沔に義成軍を率いて河陽節度使とし、萬善に進ませた。
[河東節度充潞府北面招討使になったという説もある]
稹が平定され、檢校司徒忠武節度使。
六年二月/五年.病により辞して太子少保/太保、太子太傅/太保致仕。
卒時、年六十五,贈司徒。
劉沔伝
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沔、徐州彭城人で字は子汪。
父廷珍は左驍衛大將軍東陽郡王。
沔は父を早く失い振武軍に入る。
節度使范希朝は牙將とし、将来自分の後を継ぐ人材と評価した。
忠武李光顏の先鋒將となる。驍銳で騎射を善くする。
元和末,淮西吳元濟の強兵と接戦し勇名を轟かす。
淮蔡が平定すると、光顏に従い入朝し神策将となり、歷三將軍。
宝暦.鹽州刺史
天德軍防御使、邊防に功績があったという。
太和末に右神策大將軍。
太和九年六月.涇原節度使に進む。
九月.檢校右散騎常侍單于大都護御史大夫振武麟勝節度使に転じる。
開成三年/二年七月.突厥の侵攻を大破し、都護府の西北四壘を築く。
檢校戶部尚書.彭城郡開國公食邑二千戸。
武宗立,檢校尚書左/右僕射。
五年十月.回鶻帝国が崩壊し残党の天德軍侵攻を撃退。
八月/三月.又回鶻が侵攻し太原、振武を寇掠。
李拭が北邊を巡視し沔を推薦し、檢校尚書左/右僕射太原尹北京留守河東節度兼招撫回鶻使/回紇南面招討使となった。
會昌二年七月.嵐州人田滿川が據郡叛,沔が誅する。
回鶻の一部が歸附し太原に撫す。
九月.兼招換回鶻使
三年二月.雁門關に屯して雲州に回鶻を大破し、太和公主を奪回した。
檢校司空。進金紫光祿大夫,賜一子官。
また残党を逐い、滹沱河に殲滅した。
昭義劉稹が自立すると南討し榆社に屯した。
十月.しかし回鶻の戦功で幽州節度張仲武と対立していたため、
憂慮した唐朝は檢校司空兼滑州刺史御史大夫充義成軍節度鄭滑濮觀察等使に移した。
四年三月.征討使忠武王宰がはかばかしく進軍しなかったので、
宰相李德裕は沔に義成軍を率いて河陽節度使とし、萬善に進ませた。
[河東節度充潞府北面招討使になったという説もある]
稹が平定され、檢校司徒忠武節度使。
六年二月/五年.病により辞して太子少保/太保、太子太傅/太保致仕。
卒時、年六十五,贈司徒。
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