反乱軍の黒幕でしたが、帰順すると一転唐朝に忠誠を
誓うという例です。他に李祐とかいますよね。
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董重質伝
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字、祖系は不明。
重質は淮西節度使の將であり、節度使吳少誠の子の婿であった。
勇悍で軍事的才能があり、用兵に優れていた。
元和九年.淮西呉少陽が卒し、子の元濟が自立した時の黒幕であった。
反乱軍の大半の指揮は重質がとり、唐朝の討伐軍を連破して怖れられていた。
十二年.宰相裴度が大軍を率いて遠征してきた時もこれと対峙して退かなかった。
元濟は戦局が悪化してきた事を悲観し降ろうともしていたが、重質は強気でそれを制止していた。
ところが十二月.唐隋鄧節度使李愬が予想もしなかった奇襲攻撃を本拠地の蔡州に加えて元濟を執えた。やむをえず重質も軍を解散し愬に降った。
愬は重質を高く評価し、憲宗皇帝に彼を用いる事を乞うた。
けじめとして春州司戸参軍として流されたが、
十三年.愬の請により太子少詹事/試太子詹事武寧軍驅使として淄青李師道討伐に活用され功績をあげた。
元和十五年.左神武軍將軍知軍事兼御史中丞となった。
その後鹽州刺史として対吐蕃防衛に。
太和三年.右領軍大将軍から左右神策及諸道劍南西川行營節度使檢校左散騎常侍として侵攻してきた南詔を撃退した。
四年.夏綏銀宥節度使として北辺を守り、兵を鍛え、羌戎を威圧して侵入させなかった。
五年.檢校工部尚書を加えられた。
八年八月.右龍武統軍として卒.贈尚書右僕射。
強兵・反唐で鳴る淮西軍の代表的な将軍であったが、
その軍才により唐軍の戦力に組み入れられた。
淮西軍自体も解体されたが、陳許蔡忠武軍節度使の中核として唐末まで強兵と稱された。
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