唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

會昌四~六年 西暦843~45年

2020-04-30 10:00:13 | Weblog
會昌四年 西暦843年
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正月乙酉,河東將楊弁逐節度使李石。
有能な河東節度使劉沔が、幽州節度使張仲武と回鶻討伐の功績をめぐって対立し、仲武の非協力を懼れた唐朝は沔を義成節度に移した。後任として荊南から文官の元宰相李石を移した。しかし文官では軍人への統制がきかず、待遇に不満な将楊弁が反し石を逐った。唐朝は劉稹征討軍の崩壊を懼れて動揺したが、前線の河東派遣軍は同調せず、二月乱軍を鎮圧した。

閏七月,昭義管轄の邢州、洺州、磁州以城降。
昭義軍節度は山西の澤潞二州と河北の邢洺磁三州に別れる。河北部分が魏博・成德軍の攻撃を受け降った。

八月乙未,昭義軍將郭誼殺劉稹以降。
河北三州が降り、王宰や石雄が争って澤州を攻撃し、昭義将達は動揺し、郭誼等は稹を殺す事で歸順したが唐朝は赦さず残らず誅殺した。また宦官達の恨みを晴らすために亡命していた甘露の乱の親族をも殺した。

八月戊申,李德裕為太尉。
德裕は回鶻・昭義征討の功績により最高位の太尉となり専権を振るった。

會昌五年 西暦844年
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正月己酉,群臣上尊號曰仁聖文武章天成功神德明道大孝皇帝。
唐朝の皇帝の悪癖として道教に凝り、長寿を願って金丹[水銀等が入って有害]を服用する。憲宗・武宗・宣宗などが健康を害している。

八月壬午,大毀佛寺,復僧尼為民。
円仁の旅行記『入唐求法巡礼行記』でも有名な「會昌の廃仏」である。道教を信仰した武宗により仏教だけでなく景教・マニ教・ゾロアスター教も弾圧された。完全な廃仏ではなく、政府による大規模な整理という政策で、宰相李徳裕としては教団の持つ財産・農民を政府に回収し、僧尼を還俗させて労働力とするなど財政再建を図った。宦官の有力者仇士良は崇仏派であったので対立したが失脚した。当時の仏教は富裕で腐敗し、脱税の温床となり宗教としては堕落していた。
武宗が早世したので廃仏は不徹底であったが、腐敗した仏教は衰え、景教やゾロアスター教は姿を消した。

會昌六年 西暦845年
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三月甲子,皇帝崩于大明宮,年三十三。
武宗は薬物中毒[仏教信者の宦官の毒殺かもしれない]で急逝した。宦官中尉馬元贄等は武宗の子を立てず、愚鈍と思われていた憲宗の子[叔父にあたる]光王怡を擁立した。

武宗は有能果断であり、李徳裕に腕を振るわせ回鶻・昭義を征討し、廃仏による財政再建等唐朝の再興を図っていたが中途で終わった。