唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大暦二年 西暦767年

2020-04-10 10:00:40 | Weblog
正月丁巳,密詔郭子儀討周智光。甲子,華州牙將姚懷、李延俊殺智光,以其首來獻。
さすがに弱体の唐朝もがまんできず、しかし禁軍は弱いため河中郭子儀に征討を依頼した。智光の増長に辟易していた麾下の将達は、子儀が征討に来ると知って、あっさり智光を裏切り殺害して降った。

二月丙戌,郭子儀入朝。上命元載、王縉、魚朝恩等互置酒于其第
子儀の勢力は巨大になり、代宗はひたすらご機嫌取りをした。
この時点で子儀が簒奪を図れば阻止する者はいなかったであろう、李光弼・王思禮・來瑱・李輔國は死に、僕固懷恩は去り、河北の諸鎭は自分の勢力固めに専心しており、唯一力を持つ旧平盧軍系[李正己.田神功.李忠臣]はまだ小者で子儀にすり寄り、あとの諸将は子儀の手下である。劍南に逃避することも崔寧のためにできなかった。ただ子儀には皇帝となる野望はなかったようである。京師に常駐する危険[吐蕃と魚朝恩、そして代宗]は避けて、安全な河中府に大兵を擁して睨みをきかす策であった。当然子儀の身になにかあれば、河中軍が黙っていないという形である。

六月甲戌,杜鴻漸來自成都,廣為貢獻,薦崔寧;上亦務姑息,鴻漸復相。
七月丙寅,以崔寧為西川節度使,杜濟為東川節度使。
鴻漸は莫大な劍南からの貢物を持参しあちこちに撒き、崔寧を後任にと説いた。この時点の代宗には体面を保つ以外になにができただろう、せめてもの処置で劍南を東西に分割したのがせいいっぱいだった。

七月丁卯,魚朝恩奏以先所賜莊為章敬寺,費逾萬億。
代宗以下、朝恩、宰相元載、王縉、杜鴻漸などみんな仏教に傾倒し、貧困な財政を傾けて仏事に励んだ。現状に怯えて仏にすがったわけである。

九月吐蕃衆數萬圍靈州,游騎至潘原、宜祿
京師近郊まで侵入があったので、子儀が河中より奉天へ移動して備えた。この歳の侵攻は大事にはいたらなかった。