唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大和三~四年 西暦829~830年

2020-04-21 10:02:00 | Weblog
大和三年 西暦829年 2
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十一月、雲南蠻陷巂、邛二州。
十二月庚戌,雲南蠻寇成都,己未,雲南蠻寇梓州。壬戌,寇蜀州。
元宰相の西川節度使杜元穎は、再度の宰相任用だけが頭にある無能な官僚であり、対南詔の外交を忘れ、ひたすら進貢につとめた。そのため不満を抱いた南詔の侵攻を受けると、対処の方法を知らず大きな損害を受けることになった。
元淮西の降将董重質が派遣され防禦にあたることになった。唐朝の堕落した神策軍出身にはろくな将がいなかったためである。

十二月、武寧節度王智興、忠武軍節度使へ。
李同捷の平定では功績があった智興だが、牙軍横暴の武寧軍の統治[自分も乱を起こし自立した]に苦しみ武寧を返納して移転を求めた。後任の節度使は牙軍の対処に苦しんだ。


大和四年 西暦830年
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正月、財務官僚の宰相王播が卒し、牛僧孺が復任。
あまりに無頼無能な敬宗から避退した僧孺が、李宗閔や宦官勢力から推薦されて再び宰相となった。やる気満々だった李徳裕は義成節度に出された。牛李の党争[官僚派閥の勢力争い]の始まりである。

二月乙卯,山西節度使軍亂,殺節度使李絳。
西川への雲南蠻侵攻に対処するため急遽募兵した新軍を解散することになった。失業する兵士達に対して、監軍楊叔元は冷遇し、その原因が節度使絳にあるようにしたため軍乱がおこった。絳は憲宗時代の宰相である。

七月癸未,翰林院出身の宋申錫が宰相となった。
宦官に擁立されたのにもかかわらず、文宗皇帝も政務に慣れてくると、宦官[王守澄等]の専横が気に入らなくなってきた。そこで宦官と通ぜず、信頼できる申錫を登用した。

十月戊申,義成節度使李德裕為西川節度使。
前任の郭釗は杜元潁の失態時に、隣藩の東川節度使であったため急遽転任したが、もともと外戚[郭子儀の族]で誠実という以外は取り柄のない人物であり、病身でもあったのでひたすら交代を求めた。そこで宰相レースから外されたが有能な德裕が赴任し、要地である西川再建を務めることになった。