1964年
最後の打者藤本を投ゴロ併殺にとってかえってくる清に中西監督が真っ先にとびついた。頭をかかえこむようにしてゲンコツでポカポカ。乱暴な歓迎だった。初登板の阪急戦のとき(6月4日・平和台)はケロッとしていたが、この日はグッとクチビルをかみしめてうつむいたまま。「別に完投は意識しなかった。いままで三回しか投げたことがないのできょうはせめて五回まで投げられればと思っていたんです。ところがだんだん調子がついてきちゃって・・・。ストレートとカーブがよかったですね」人ごとのようにいってダッグアウトのイスにどっかり腰をおろした。とてもルーキーとは思えない態度だ。「いままでコントロールが悪かったからコントロールにだけ気をつけたんです」アゴに5㍉ほどの無精ヒゲ。これがいっそう十八歳の年よりふけてみせさせる。先発は十一日にいわれたそうで七の夜ナインよりひと足先に井上善と東京に着いた。「東京はこれで生れてから二度目なんです」といってテレくさそうに笑った。一度目は高校時代明大の練習に参加したときだが進学を目していた清がプロ入りにふみ切った理由は「おかあさんに楽をさせたかった」からだそうだ。母親の手一つで育てられた。「だから考え方もしっかりしているし、すべてに落ち着いている」というのは中西監督。若林コーチは「これまで手がけてきた若い投手のうちで清ほどのみこみの速いやつはいなかった。天性のカンというのだろうか」と感心する。「おどろいた。こんなにクソ度胸があるとは・・・」とは和田捕手。楽しみは練習が終わってからゆっくりフロにつかることだという。それも長フロで有名だ。五月三十一日香椎の二軍合宿からやっと福岡市百道の一軍合宿にはいることができたが、平和台球場のロッカーはまだ二軍のを使っている。「だれもいない二軍のフロでゆっくりフロにつかっていると練習の疲れも吹っ飛んでしまいます」。この日もまた旅館のフロで長湯を楽しむことだろう。1㍍72、67㌔、右投右打、宮崎県・高鍋高出。
最後の打者藤本を投ゴロ併殺にとってかえってくる清に中西監督が真っ先にとびついた。頭をかかえこむようにしてゲンコツでポカポカ。乱暴な歓迎だった。初登板の阪急戦のとき(6月4日・平和台)はケロッとしていたが、この日はグッとクチビルをかみしめてうつむいたまま。「別に完投は意識しなかった。いままで三回しか投げたことがないのできょうはせめて五回まで投げられればと思っていたんです。ところがだんだん調子がついてきちゃって・・・。ストレートとカーブがよかったですね」人ごとのようにいってダッグアウトのイスにどっかり腰をおろした。とてもルーキーとは思えない態度だ。「いままでコントロールが悪かったからコントロールにだけ気をつけたんです」アゴに5㍉ほどの無精ヒゲ。これがいっそう十八歳の年よりふけてみせさせる。先発は十一日にいわれたそうで七の夜ナインよりひと足先に井上善と東京に着いた。「東京はこれで生れてから二度目なんです」といってテレくさそうに笑った。一度目は高校時代明大の練習に参加したときだが進学を目していた清がプロ入りにふみ切った理由は「おかあさんに楽をさせたかった」からだそうだ。母親の手一つで育てられた。「だから考え方もしっかりしているし、すべてに落ち着いている」というのは中西監督。若林コーチは「これまで手がけてきた若い投手のうちで清ほどのみこみの速いやつはいなかった。天性のカンというのだろうか」と感心する。「おどろいた。こんなにクソ度胸があるとは・・・」とは和田捕手。楽しみは練習が終わってからゆっくりフロにつかることだという。それも長フロで有名だ。五月三十一日香椎の二軍合宿からやっと福岡市百道の一軍合宿にはいることができたが、平和台球場のロッカーはまだ二軍のを使っている。「だれもいない二軍のフロでゆっくりフロにつかっていると練習の疲れも吹っ飛んでしまいます」。この日もまた旅館のフロで長湯を楽しむことだろう。1㍍72、67㌔、右投右打、宮崎県・高鍋高出。
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