1959年
「オールスターに選ばれてこんなうれしいことはない」素直に受け、手ばなしで喜ぶ開きっぱなしの快青年。飯尾とはこんな男である。「プロ野球に入ったとき(大映)ぼくは一番若いプロ野球選手で十六歳だった。当時の球団にはスタルヒン、飯島、伊賀上というベテランのお父ちゃんばかしやった。毎日毎日三十分間、夏でもフリー・バッティングのピッチャーをやらされてきた。シンドかったよ。それがいま東映ではぼくが一番トシヨリになってしまった」十年選手。しかしまだ二十六歳。十年たてば去ってゆく名選手の多いこの世界で、十年たってようやくエースの地位に近づきプロ野球選手のすべてが望むオールスターに選ばれた。変ったコースを歩む、本格派投手飯尾とはこんな男である。「大映では藤本さんや先輩が、コセコセ投げるな。速い球を投げろ!といわれて育った。十年たってまだ肩もこわさず、ますますコンディションが出そうなのは、この指導のお蔭だと思う。カーブや変化球を投げさせられていたなら、十年ですっかりメチャメチャになっていたでッしゃろな」自分を育ててくれた監督や先輩に、常にその感謝の念を忘れぬ男、飯尾とはこんな男である。「だからぼくはいまでも、多少スピードは全盛時代よりも落ちると思っとるけれど、ゴマカシの球は投げないつもりや、タマにゃあ打たれてもいい。豪速球をドカンと通したい。その球で三振を取ったときの気持は、真夏のサカリに、冷たい生ビールをグートやったときのような気持やな」飯尾とはこんな男である。「もう一人ぼくには尊敬すべき先輩がいる。もと大映のショートをやっていた山田潔という人、いま大毎の二軍のコーチをしているんだけど、十年間つき合って、最初から最後までボロの出ない誠実な人だ。地味で堅実でウソがない。ぼくはこんな人を手本に、ぼくの人生を歩いていきたい」飯尾とは、こんなことをいう男である。一・七六メートル、七〇キロ。昭和八年生まれ愛媛県の出身。新居浜高から大映、高橋東映とその恵まれた体格と剛球を武器に十年間。ようやく東映でその実力を発揮するキザシに立っている。五人兄弟のオトンボ(末っ子)。東京では姉美智子さんとの二人暮し。大田区上池上に立派な家を建ててヒッソリと住んでいる感じ。お嫁さんはまだらしい。「早ようもろうてもらわんと、わたしお嫁にいけません」とお姉さんがいう。「もうもらわなあきませんか」とは無責任な返事。「もうそろそろとは思うてますが、これというのが見つかりませんので・・」二十六歳だが十年選手の経験がそうさせたか、三十すぎた分別もある。「どうせもらうなら、ショートパンツぐらいハイて、やあ為さん!とくるような女房がいいね」ときた。飯尾とはこんな男である。「ぼくは子供が好きでね」と話を逃げる。「家の表で遊んでる近所の子供とソフトボールをして遊ぶんです。昼間ね。すると夜の試合のとき身体がやわらかくコンディションがいいんです。昼間、家の中でゴロゴロしてると身がナマっていけまへんな」飯尾とはこんな男である。「ピッチャーは大変ですよ」話は野球にもどる。「バッターを向こうに回して戦うのは当たり前の話ですが、審判との戦いもある」ヘエーと驚いてみせると、「くさい球をボールに、しかも大切な所でボールにとられると、たいてい頭にくる。しかし、カーッとなって審判に頭にくるような抗議をするとやっぱし損だ。次からのくさい球はみんなボールに取られちゃう」なるほど十年の経験だ。「また審判によっては現役時代にインコーナーに強かった人、または、高目に低目にとそれぞれ好き嫌いの好みがあるものや。あの審判はインコーナー好みやな、テナぐわいにその好き嫌いを心得てやらないと、大損になるときが多い。そんなときは取ってくれないとストライクゾーンはあきらめた方がよい」うーむ。審判との戦いとはこんなところをいうのだね。「だから、バッターの好みと、審判の好みも調べておかないとあかん。その上に自分との戦いがある。働くのは辛くともつねにベストコンディションを保ってなけちゃならんしな」関西なまりでさりげなくいうが、飯尾とはこんな男である。巨人藤田とは昔しの球敵よろしく藤田と振りあうべし。
「オールスターに選ばれてこんなうれしいことはない」素直に受け、手ばなしで喜ぶ開きっぱなしの快青年。飯尾とはこんな男である。「プロ野球に入ったとき(大映)ぼくは一番若いプロ野球選手で十六歳だった。当時の球団にはスタルヒン、飯島、伊賀上というベテランのお父ちゃんばかしやった。毎日毎日三十分間、夏でもフリー・バッティングのピッチャーをやらされてきた。シンドかったよ。それがいま東映ではぼくが一番トシヨリになってしまった」十年選手。しかしまだ二十六歳。十年たてば去ってゆく名選手の多いこの世界で、十年たってようやくエースの地位に近づきプロ野球選手のすべてが望むオールスターに選ばれた。変ったコースを歩む、本格派投手飯尾とはこんな男である。「大映では藤本さんや先輩が、コセコセ投げるな。速い球を投げろ!といわれて育った。十年たってまだ肩もこわさず、ますますコンディションが出そうなのは、この指導のお蔭だと思う。カーブや変化球を投げさせられていたなら、十年ですっかりメチャメチャになっていたでッしゃろな」自分を育ててくれた監督や先輩に、常にその感謝の念を忘れぬ男、飯尾とはこんな男である。「だからぼくはいまでも、多少スピードは全盛時代よりも落ちると思っとるけれど、ゴマカシの球は投げないつもりや、タマにゃあ打たれてもいい。豪速球をドカンと通したい。その球で三振を取ったときの気持は、真夏のサカリに、冷たい生ビールをグートやったときのような気持やな」飯尾とはこんな男である。「もう一人ぼくには尊敬すべき先輩がいる。もと大映のショートをやっていた山田潔という人、いま大毎の二軍のコーチをしているんだけど、十年間つき合って、最初から最後までボロの出ない誠実な人だ。地味で堅実でウソがない。ぼくはこんな人を手本に、ぼくの人生を歩いていきたい」飯尾とは、こんなことをいう男である。一・七六メートル、七〇キロ。昭和八年生まれ愛媛県の出身。新居浜高から大映、高橋東映とその恵まれた体格と剛球を武器に十年間。ようやく東映でその実力を発揮するキザシに立っている。五人兄弟のオトンボ(末っ子)。東京では姉美智子さんとの二人暮し。大田区上池上に立派な家を建ててヒッソリと住んでいる感じ。お嫁さんはまだらしい。「早ようもろうてもらわんと、わたしお嫁にいけません」とお姉さんがいう。「もうもらわなあきませんか」とは無責任な返事。「もうそろそろとは思うてますが、これというのが見つかりませんので・・」二十六歳だが十年選手の経験がそうさせたか、三十すぎた分別もある。「どうせもらうなら、ショートパンツぐらいハイて、やあ為さん!とくるような女房がいいね」ときた。飯尾とはこんな男である。「ぼくは子供が好きでね」と話を逃げる。「家の表で遊んでる近所の子供とソフトボールをして遊ぶんです。昼間ね。すると夜の試合のとき身体がやわらかくコンディションがいいんです。昼間、家の中でゴロゴロしてると身がナマっていけまへんな」飯尾とはこんな男である。「ピッチャーは大変ですよ」話は野球にもどる。「バッターを向こうに回して戦うのは当たり前の話ですが、審判との戦いもある」ヘエーと驚いてみせると、「くさい球をボールに、しかも大切な所でボールにとられると、たいてい頭にくる。しかし、カーッとなって審判に頭にくるような抗議をするとやっぱし損だ。次からのくさい球はみんなボールに取られちゃう」なるほど十年の経験だ。「また審判によっては現役時代にインコーナーに強かった人、または、高目に低目にとそれぞれ好き嫌いの好みがあるものや。あの審判はインコーナー好みやな、テナぐわいにその好き嫌いを心得てやらないと、大損になるときが多い。そんなときは取ってくれないとストライクゾーンはあきらめた方がよい」うーむ。審判との戦いとはこんなところをいうのだね。「だから、バッターの好みと、審判の好みも調べておかないとあかん。その上に自分との戦いがある。働くのは辛くともつねにベストコンディションを保ってなけちゃならんしな」関西なまりでさりげなくいうが、飯尾とはこんな男である。巨人藤田とは昔しの球敵よろしく藤田と振りあうべし。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます