プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

石川緑

2016-10-08 16:57:41 | 日記
1966年

完全試合ーことしにはいってすでに大洋の佐々木と西鉄の田中勉がこの大記録をうち立てている、この夜の石川も完全試合男の仲間入りが濃厚だった。七回までピシャリと三人ずつ。八回も一死までとった。あと五人だ。マウンド上の石川の動作はきびきびしている。打席にはいる中日打線をにらみつける目つきは鋭い。記録達成も間近いーこんな気持だったろう。中日ベンチはヘビににらまれたカエル同様まったく声がない。しかし、勝負や記録は終わってみなければわからない。数分後だ。両チームの立場が逆転、こんどは石川が首をうなだれた。中日は八回二死後、一枝が三塁左を破り、大記録にストップをかけた。中日ベンチから笑い声と拍手が響き、石川はマウンドの土をたたきつけた、そして九回中日は中が右翼に本塁打しサヨナラ勝ちした。打たれたあと石川は打球をちらりと見ると、いそぎ足でベンチへ。グラウンドコートを肩にかけると逃げるようにしてバスに向かった。-中にはなにを打たれた?「・・・・」うつむいたままで声がない。あと五人で記録が出来たかもしれなかっただけに無念だったろう。言葉が出ないのは無理もない。ようやく「私などに完全試合が出来るわけはないと思っていた。中はもっとも警戒したのだが、真ん中にはいってしまった。一枝に打たれたあとは負けるような気がした」とポツリ。肩を落とし、声も小さい。カメラマンにかこまれてごきげんなのはサヨナラ本塁打の中だ。「阪神はなんどもチャンスをつぶしている。きょうは勝つような気がした。本塁打は直球だった。このときバットを軽いのに代えたが、低めにきたら打つつもりだった」という。高木守が負傷欠場、江藤も試合途中でベンチにはいった。こんな責任感がサヨナラの一発となったようだ。
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藤井弘

2016-10-08 15:50:46 | 日記
1957年

六回まで長谷川、後藤の息づまる投げ合いがつづいた。七回藤井が左翼席へホームランした。今シーズン五本目の本塁打である。開幕直後三月三十一日の対大洋戦に満塁ホームラン、四月七日から九日までの三試合に連続ホーマー、そしてこの日決勝の本塁打とどれもこれもいわくつき。藤井はこれで宮本とともにホームラン・ダービーのトップにならんだ。「後藤投手の球は落ちるからすくいぎみに振れといわれたのでそのつもりで振ったんです。いつもはあんな振り方はしません。内角低目のシュートだったようです」広島の勝利がきまった瞬間長谷川と抱き合い、全選手から握手をもとめられながらベンチにかえってきた藤井はつとめて冷静に語ろうとするが興奮をおさえきれず思わず息がはずむ。「一試合に一本ずつ安打が出れば上出来。きょうはそれがたまたまホームランになっただけのはなしですよ」白石監督は「選球眼のいいことが今シーズン彼の好調のもっとも大きな原因だ」と説明し「若いだけに巨人相手にしかも後楽園で打ったことは大きな自信をつけたでしょう」と目を細めていた。目下のところ広島三強入りの原動力は藤井の打棒だといったらいいすぎだろうか。盈進商出身、倉敷レーヨンから三十年入団。五尺九寸五分、二十貫、右投右打、二十二歳。
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宮本敏雄

2016-10-08 15:33:26 | 日記
1957年

巨人はこの日負けると四位に転落するところだった。六回宮本の逆転3ラン・ホーマーは四位転落をくいとめる値千金の一撃だった。試合が終わってグラウンドからとび降りたファンに十重二十重に取り囲まれた宮本は「阪神戦のとき(二十一日・甲子園一回戦七回の本塁打)よりもいい当りだ。スライダーだった。うれしい」とスライダーを打ったといううれしさを体全体であらわしていた。巨人はいいところで救いの神が出たものである。「ぼくは本塁打よりヒットを打ちたい。本塁打より三割を打つのがいいバッターだ。でもきょうはヒットだと三点入っていない。本塁打の方がいいときもある」ねらいは与那嶺につぐ外人の首位打者にあるという。これで七本目。ホームラン・ダービーのトップをつっ走るその本塁打へのうれしさはミジンにも出さない。試合に勝てたらうれしさを身ぶり手ぶりで表現するだけ。「体のコンディションはきょうは雨が降りそうで心配したこれからは打つよ」もちろんヒットを打って、首位打者の目標を達成するというのだ。
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島田光二

2016-10-08 15:06:45 | 日記
1957年

この夜は試合が始まる前から小雨。関係者はほとんど中止するつもりでいたがただひとり毎日別当監督の主張で試合が強行されたという。南海に首位を追われる毎日は最下位近鉄を相手にここが稼ぎどころと考えたのにちがいない。ところが結果は逆だった。近鉄が九回には最大大量5点をとり「もうかんにんしてヤロか」というヤジが出るほど、この夜まで四連敗の近鉄ベンチが大いばり。なかでも毎日のエース荒巻をノック・アウトした島田の活躍はすばらしかった。島田光二内野手(21)は五尺七寸五分、十九貫のプロ三年生。右投右打でメガネをかけている。三回は三塁線安打して一塁の鈴木を三塁へ進め同点のきっかけを作り、五回には左翼席へ勝越しの1号本塁打を打込んだ。そして九回にも三遊間へタイムリー安打しダメ押し点の口火を切っている。「雨でメガネが曇って困った」といいながらもニコニコする。「ホームランは内角低目の直球のようでした。まぐれですよ」東京のファンにはなじみがうすいが、三十年夏の甲子園大会で全国優勝し有名になった四日市高の出身。慶大の巽投手と同級生。卒業したつぎの年に彼の母校は高橋投手(現巨人)で全国優勝した。高校では遊撃を守り三番打者。卒業の年にテストで近鉄入り。いまは静養している芥田監督の仕込みで三塁、二塁、遊撃のどこでもやれる。目は右も左もともに0・6の軽い近視だから、普段はメガネをかけない。
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種田弘

2016-10-08 14:08:48 | 日記
1957年

今シーズンの種田は、この夜で二十七回目の登板。一番多く登板しているのが西鉄戦で七回。もっとも稼いでいるのが毎日と東映で各三勝ずつ(近鉄、大映には勝ち星なし)二十九回の登板中先発は九回。リリーフは一番多くて十一回。完投は今夜で六度目。そして南海から二つ目の勝星であった。「大体ぼくは南海、西鉄戦には先発することは少ない。だから出足のペースがわからなかった。二回穴吹選手に真ん中から内角に切れるシュートを本塁打されてから外角への落ちる球が効果があることを悟った。後半ではほとんど落ちるシュートを投げた。涼しかったので疲れは感じずとてもいいコンディションだった」彼のピッチングで真っすぐに入る速球は一本もない。沈んだり角度はわずかだが曲ったり全部変化する。南海の登板数はこれで四度目だが、大振りする弱点を彼のピッチングはうまくついた。「だいたいぼくは毎日、東映に強い。というのは昨年西村監督の当時は毎日、東映戦用の投手に割り当てられたのでこちらも毎日、東映だけに勝てれば役目完了になるので、そのようなピッチングにかえたためだった」しかしこの夜は南海にも強くなれることがはっきりした。要は投げにくいという気分的なものなのだろう。しかし昨年にくらべてやや勝ち星は少ない。「オールスター戦までは予定された登板がきまって雨で流されていた。順調な登板ペースになったのは七月からだ。この調子でいくと十勝か十二勝どまりだろう」彼のようなまとまったタイプの投手は、いつも使えそうで、また登板させる時間がむずかしいものだ。登板しないから調子が落ちる。だからときたま出ると不安が先に立って打たれる。そういうことのくり返しから、前半は芽が出なかったので昨年にくらべてあまりかせいでいない。チーム内ではどこにいるのかわからないほどのおとなしい選手。最後の土井垣捕手の「種田評」をきく。「この人には結果的におとなしい性質がわざわいしていますね。安定度においてはリーグのトップ・クラスなんですがね。精神的に鍛練すれば西鉄からも南海からももっと稼げる人です。そういう風になるかならないか、今年はその意味で彼には一つの転換期というか成長期というか、そんな年になるでしょう」鴨沂高ー大洋ー西京観光ー阪急。三年生。二十六歳。
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森下正夫

2016-10-08 13:01:09 | 日記
1957年

第二回戦の六回国鉄が一点をあげ試合は再び振出しにもどった宮地がよく投げ、押され気味の南海にとってはいたい同点である。だが七回二死後広瀬を二塁において森下が右前に快打したこれに勢いづいた南海は大沢、杉山の快打をうながし、この回二点をあげた。森下の一撃は劣勢から一挙に南海を立ち上がらせた起死回生の一打だった。「カーブがスッポ抜け、真ん中から少しスライドした球だった」という。外角球にはメッポウ強い・昨シーズンは外角球なら打ちこなしたが、内角にくいこむシュートだけは打てなかったそうだ。今年のキャンプではこれを打てるように、フリー・バッティングでは意識して投げてもらった。フリー・バッティングで打ててもレギュラー・バッティングとなるとうまくいかないそうだ。「現在ではどうやら打てるようになった。でもイザというときにどうしてもうまくバットが振りきれない」まだ八分どおりしかできていないという。打力に重点をおいた穴吹との三遊間コンビもうまくいっていない。今年はオープン戦が多く予定されているので、この間に内角シュートの打決を身につけ、穴吹とのコンビネーションをつくりあげるのが課題だ。それに「毎年出足の調子がよくないからこの間に十分調子が整えられるのでずい分楽だ」という。今年の一月に山本貴世子さん(20)=京都市中京区室町二条ル=と結婚する予定だったが、山本さんの都合で今年の暮にのびた。「このためにもウンとがん張らなければ・・・」といまから大いにハリ切っている。
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浅越桂一

2016-10-08 12:43:28 | 日記
1957年

この試合で毎日が負けると翌日決勝戦を打つことになっている試合前ネット裏で毎日の黒崎代表が試合後東京へ引揚げる予定で、すでに汽車の切符も買ってあるといっていたが、ところがこの黒崎代表の予想をみごとにひっくり返したのが、浅越だった。大崎が六回毎日の強打をあいて決定的と思える三点を奪われた。ところが七回一死から浅越の胸のすく中前安打をきっかけに阪神はこの二点差をはね返し、逆にリードを奪ってしまった。もっとも阪神の勝因は毎日山根投手の八回の暴投といえようが、この日の浅越は二回に初安打を放ち、五回は四球で出て阪神の先取点を記録、三打数二安打の快調ぶり。阪神の看板男吉田が現在ケガで休んでいるので三宅が遊撃にまわり、浅越が三塁に入っている。藤村監督は「あとは試合経験さえつけば今年は三宅と半々、あるいはそれ以上の出場チャンスは十分ある」という。試合後藤村監督の発表した決勝戦のスタート・メンバーはさっそく三宅にかわって七番から六番に打順が上がっていた。プロ入り三年生。関西高時代から主に遊撃をやり、いまでも遊撃の方が守りやすいという。前のゆるいゴロに弱いが、肩は阪神内野でも指折り。バッティングの穴は外角とスローカーブ。昨年は公式戦に一度も出るチャンスはなかったが、夏場前盲腸でじんましんの小山と一緒に入院する不運もあった。五尺七寸、十九貫。吉田を一まわり大きくしたようなみるからに温厚な感じのする選手だ。「あさごえ」と読む。
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