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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

戸口美嗣

2013-03-23 20:21:19 | 日記

初のマウンドが最後

心臓病のためやむなく球界を去る戸口(阪神)

晩秋の紀州で心を打つドラマが演出された。紀三井寺での阪神-近鉄オープン戦でのことである。舞台は1-1で迎えた九回近鉄の攻撃も二死、あと一人アウトにすれば・・・という場面だった。阪神ベンチから村山監督が出てきて主審に投手交代を告げた。力投する谷村のあとをうけてマウンドに上がったのは見慣れぬ背番号61.左腕から力いっぱい投げたが、3球目を佐藤に左前へヒットされ、打者一人で上田にバトンを渡した。その若い投手がベンチへ引き上げ、帽子を取って村山監督以下ナインに一人一人ていねいにあいさつをしたとき期せずしてベンチから拍手が起こった。目を真っ赤にしたその投手は熱いものが胸の底からこみ上げてくるのを感じると、そのままうなだれてしまった。地元和歌山・笠田高出身の戸口実嗣(19)の故郷で、プロ入り初め、そして最後のマウンドを踏んだシーンだった。スタンドでは両親が万感を胸に、わが子のユニホーム姿に食い入るように見つめていたのが印象的だった。戸口は昨年十一月テストで阪神に入団した。この一年間、ほとんどバッティング投手だったが、希望に燃えていた。その戸口に今秋の健康診断で冷たい判決が下った。心臓肥大。このまま野球生活をつづけると生命にもかかわる。医者の宣告にさからうことはできなかった。「人生は長いんだ。お前はまだ若い。最後に地元で両親に晴れ姿を見てもらって再出発するようにー」村山監督の温情が若い戸口の身にしみた。「きようという日は一生忘れることができないでしょう」戸口はないんの温かい激励に何度も目頭を押えた。
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近藤義之

2013-03-23 20:06:28 | 日記
最後の三軍頑張れ

近鉄三軍の近藤投手、南海へトレード

トレード会議(十一月二十六日)で南海は四人の選手を指名した。そのなかに近鉄の近藤義之投手(左投げ左打ち)がいた。いまでこそすっかり忘れ去られた存在になったが、この近藤投手こそ近鉄が実験した第三軍のただ一人の生き残りである。四十二年夏、当時の芥田球団社長はかねてからの念願である第三軍を設立した野球の好きな少年を集め、そのなかから行く行くチームを背負って立つ選手を育て上げるのがねらいだった。三、四年先にメドを置き、十数人の第三軍は登録外とはいえ、芥田社長の情熱でバックアップされて意欲手に野球に取り組んだ。そのなかに中原中学三年生の近藤少年もいた。しかし第三軍構想はしょせん夢にすぎなかった。技術の伴わぬ彼らは一人抜け、二人去り四年目のことしまで残ったのは原野と近藤の二人だけ。その原野も八月には競輪選手に転向した。昼は練習、夜は定時制の高校に通学しながら、がんばったただ一人の近藤は来春卒業するが、卒業を待たずして南海へのトレードが決まったのである。最後の近藤が去って第三軍は完全に消滅した。しかし南海という新天地で生まれ変わった近藤がどんな働きをするか。「精神的にもろい欠点」(江田前コーチ)を克服するかどうかにかかっている。頑張れ最後の第三軍-。
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