初のマウンドが最後
心臓病のためやむなく球界を去る戸口(阪神)
晩秋の紀州で心を打つドラマが演出された。紀三井寺での阪神-近鉄オープン戦でのことである。舞台は1-1で迎えた九回近鉄の攻撃も二死、あと一人アウトにすれば・・・という場面だった。阪神ベンチから村山監督が出てきて主審に投手交代を告げた。力投する谷村のあとをうけてマウンドに上がったのは見慣れぬ背番号61.左腕から力いっぱい投げたが、3球目を佐藤に左前へヒットされ、打者一人で上田にバトンを渡した。その若い投手がベンチへ引き上げ、帽子を取って村山監督以下ナインに一人一人ていねいにあいさつをしたとき期せずしてベンチから拍手が起こった。目を真っ赤にしたその投手は熱いものが胸の底からこみ上げてくるのを感じると、そのままうなだれてしまった。地元和歌山・笠田高出身の戸口実嗣(19)の故郷で、プロ入り初め、そして最後のマウンドを踏んだシーンだった。スタンドでは両親が万感を胸に、わが子のユニホーム姿に食い入るように見つめていたのが印象的だった。戸口は昨年十一月テストで阪神に入団した。この一年間、ほとんどバッティング投手だったが、希望に燃えていた。その戸口に今秋の健康診断で冷たい判決が下った。心臓肥大。このまま野球生活をつづけると生命にもかかわる。医者の宣告にさからうことはできなかった。「人生は長いんだ。お前はまだ若い。最後に地元で両親に晴れ姿を見てもらって再出発するようにー」村山監督の温情が若い戸口の身にしみた。「きようという日は一生忘れることができないでしょう」戸口はないんの温かい激励に何度も目頭を押えた。