当初、中日入りは難航した・・・・中日に1位で指名されながら難色を示している藤沢投手は契約金での不満が原因となっている。1位で指名されたのだから当然、規定最高の金額を提示されると考えていた藤沢家、これに対して中日は人気の点でもう一つ
、さらに即戦力としては期待薄のこの未完の大器に一千万円は、はずまなかった。藤沢自身は「1位に指名されたことでプロ入りのことを相当考えました。でも中日は、ボクのことをあまり必要ではないようですね。いまでは進学する気持ちです。中日の条件が変わったら周囲はどう変わるか分かりませんが、ボクはもう変えられないと思う」藤沢は条件の不満だけだはないという口ぶりだった。
ことし「1971年」5月に1塁から投手に転向した藤沢は背番号「3」をつけて甲子園のマウンドを踏んだ。一回戦で敗れたが
本格派の左腕として多くの球団からマークされた。スピードがあっても、まだ荒削りで制球力にも不安があったが、高校球界
ナンバー1・左腕として「2,3年先が楽しみな投手」として周囲の評価は一致している。
、さらに即戦力としては期待薄のこの未完の大器に一千万円は、はずまなかった。藤沢自身は「1位に指名されたことでプロ入りのことを相当考えました。でも中日は、ボクのことをあまり必要ではないようですね。いまでは進学する気持ちです。中日の条件が変わったら周囲はどう変わるか分かりませんが、ボクはもう変えられないと思う」藤沢は条件の不満だけだはないという口ぶりだった。
ことし「1971年」5月に1塁から投手に転向した藤沢は背番号「3」をつけて甲子園のマウンドを踏んだ。一回戦で敗れたが
本格派の左腕として多くの球団からマークされた。スピードがあっても、まだ荒削りで制球力にも不安があったが、高校球界
ナンバー1・左腕として「2,3年先が楽しみな投手」として周囲の評価は一致している。