本格的に日本でホステス行為に専念した期間は恐らくこ20年ほどかもしれない。
フィリピンダンサーの草分け当事は本当にショーをやっていた。むしろショーが出来ないフィリピン人は客に軽蔑されたようにも思えた。
少数であったせいもある。
客は拍手喝采。歌手が歌えば「本当にあのオネーチュン唄うまいな」等がピンパブ始めの客の声。そして1万円札も飛びかった。
この頃から日本のオヤジ殿・ジジィ殿は1万円チップが始まったようにも。当時は目を白黒して仰天していたおねーちゃん。慣れとは恐ろしい。
日本人を見れば1万円と思うようになり。1000円チップは手がなかなか出にくくなったようにも。
成田へ上陸するオネーチャン。やたら長い南洋の竹竿を担いだグループ。不思議なようにその中に見栄えするオネーチャンが2名ほどいた。
迎えに来ているオニーチャンもそれなりにきちんとした服装。結構オネーチャンへも礼儀が正しかったようにもおもえた。
この頃の客席から聞こえてきた話
「テレビ ナ ソニーガイイダッテ」
この頃の成田空港には15インチのカラーテレビの箱をカートに詰め込み、ダンボールがやたら多いオネーチャンが第一ターミナルで多く見受けられた。一人当たりの荷物の量も凄かった。オネーチャンを乗せた車プラスに持つ専用車随行が多く見られた。
上陸するオネーチャン達の洋服が多少変わってきた。
店へ行くと
「パパ イツデートスル。アコハ ソノーノウオークマン スキダカラ」
帰国する際のオネーチャン達、やたら重そうな機内持ち込みバック。しかもパイプ式キャディにバックを載せ耳にはイヤホーン。
バックの中身は明治やロッテのチョコレート。イヤホーンから流れる音楽に首振りながら音楽を聴く。どういうわけか46分くらいのブランクテープが非常に多く売れた時期とか。カセット式ウオークマンが全盛の頃でした。
この頃から、コンパクトなカメラを持つオネーチャンが多くなった。
第二ターミナルが開港したころから、何となく迎えに来るオニーさんのファッションが変わってきた。一見xxxルックみたいな格好と背広姿。
このあたりから、成田空港には「フィリピン大使館員」ダッテの連中と日本人の私的権限エクセス斡旋業が現れ始めた。
すなわち、エクセスパッケージのデスカウントと称した金稼ぎ。長きに渡ってフィリピン航空、日本航空、ノースウエスト航空は指摘権限者を優遇、金をもうけさせていたものだ。
日清カップヌードルの箱を3、4箱手押し車に乗っけてオネーチャンの姿が多く見受けられるようになってきた。
カレー味のカップ麺も混じり始めた頃、オネーチャンの帰国ルックはなんとも季節遅れのブランド物しかもはっきりと男物と分かる洋服を着た姿が目立ち始めてきた。ミッキーマウスの縫いぐるみもこの頃から持ち帰り始めてきた。
そして手に手にラジカセを持ったオネーチャン続々登場。
店内などで帰国間際のオネーチャンがオヤジ殿に
「ラジカセホシイディバ。デモ アイワ ハ ダメナ」この頃からブランド指定方になってきた。SONYなのだ。
首都圏はじめ近郊のピンパブで働いたオネーチャンルックは、ローレックスにブランドバック。しかも同伴帰国者随行の夜明けが始まった。
当初は、オネーチャンと一緒に帰るオヤジ殿殆どいなかった。
この頃には、空港まで送ってきたお客の間に伝わったニュース。
「オネーチャンを送っていくと空港で荷物代を払わされる。」などの異説も登場。
あれよあれよというまに、CDウオークマン、カップヌードルシーフード、ビデオカメラ、そろいも揃ってビトンのバック、アデダス3ラインのジャージ、ブランドTシャツ、そして最新日本流行ファッション帰国が多くなり、髪の毛も赤茶け、オヤジ殿まで頭が紅葉支恥じてきた。
当然、ブッとい金のネックレスにブレスレット、指は金の指輪だらけ。さようならキッスが随所で見られるようになった。
もちろんお腹ぽんぽん帰国やあれっというまの帰国者も増えてきた。
「アサワコ ドウハンスルカ」などの声が店内から聞こえてきた頃
「イツ ケッコンスル」本命客が来ると必ず控室へ戻って腕時計や貴金属を替えて店内へ出てくるおかしな現象もこの頃から。
店内には日本人のホステス等は見受けられず、猫の額程度のステージに、客席分捕ったオネーチャン20名が主流になり、客くれば全員起立で「イラッタイマセー!」
席へくれば「ハジメマシテ!ゲンキデスカ!オナマエナンデスカ!シゴトイソガシイデスカ!ジュースイイデスカ!」
そしてチップ上げたときに「アイ パパヤサシイナマン。マタアシタ」
店の外には「ニュータレント来店決定!」
飲み放題1時間3000円。
同伴、指名、ババドリなどの文字が捨て看に見受けられるようになった。
極めつけ「素敵な夜をピーナとお過ごしください。飲み放題1時間30分3000円。焼酎、ブランデー、ウイスキー」
台湾、韓国、マレーシア、タイの根強い売春軍団を尻目に、フィリピン軍団日本制覇。
田畑の真ん中からまで「ロンリーチャップリン」「二人の大阪」「居酒屋」「別れても好きな人」などのフィリピンデュエットソングが朝4時まで聞こえてきた。
店内では
「別れてもアヨコナサヨ」
「ハポン サカン スポット」
「別れたら次の人」
「チッチャルンブラックラ」
際付け「セーノ オミゴト!」
等の掛け声が聞こえてきた。
1970年代から、日本のオヤジ殿、ジジィ殿へ優しさを届けてきた「ピーナ」
ある日突然、目先が真っ暗になったのが2005年3月追い討ちかけて2006年6月1日の新省令。
多くのジャパユキ経験者はこのフィリピンで仕事にも就けず、一時の夢を再びと全く当てのない日本ドリームを目論んでいる様だ。
パパODA基金も薄れ始め、現地同伴もそこそこ。現地でカラオケへ勤めても、客足がおぼつかない。待てど暮らせど認定証も来ない。
「ウウイナ アコ」と帰省していった。
今このマニラでは、日本政府へ再度この業界を緩和していただくためのささやかな動き、襟を正したような規制を行い復帰をかけているグループもいる。
フィリピンダンサーの草分け当事は本当にショーをやっていた。むしろショーが出来ないフィリピン人は客に軽蔑されたようにも思えた。
少数であったせいもある。
客は拍手喝采。歌手が歌えば「本当にあのオネーチュン唄うまいな」等がピンパブ始めの客の声。そして1万円札も飛びかった。
この頃から日本のオヤジ殿・ジジィ殿は1万円チップが始まったようにも。当時は目を白黒して仰天していたおねーちゃん。慣れとは恐ろしい。
日本人を見れば1万円と思うようになり。1000円チップは手がなかなか出にくくなったようにも。
成田へ上陸するオネーチャン。やたら長い南洋の竹竿を担いだグループ。不思議なようにその中に見栄えするオネーチャンが2名ほどいた。
迎えに来ているオニーチャンもそれなりにきちんとした服装。結構オネーチャンへも礼儀が正しかったようにもおもえた。
この頃の客席から聞こえてきた話
「テレビ ナ ソニーガイイダッテ」
この頃の成田空港には15インチのカラーテレビの箱をカートに詰め込み、ダンボールがやたら多いオネーチャンが第一ターミナルで多く見受けられた。一人当たりの荷物の量も凄かった。オネーチャンを乗せた車プラスに持つ専用車随行が多く見られた。
上陸するオネーチャン達の洋服が多少変わってきた。
店へ行くと
「パパ イツデートスル。アコハ ソノーノウオークマン スキダカラ」
帰国する際のオネーチャン達、やたら重そうな機内持ち込みバック。しかもパイプ式キャディにバックを載せ耳にはイヤホーン。
バックの中身は明治やロッテのチョコレート。イヤホーンから流れる音楽に首振りながら音楽を聴く。どういうわけか46分くらいのブランクテープが非常に多く売れた時期とか。カセット式ウオークマンが全盛の頃でした。
この頃から、コンパクトなカメラを持つオネーチャンが多くなった。
第二ターミナルが開港したころから、何となく迎えに来るオニーさんのファッションが変わってきた。一見xxxルックみたいな格好と背広姿。
このあたりから、成田空港には「フィリピン大使館員」ダッテの連中と日本人の私的権限エクセス斡旋業が現れ始めた。
すなわち、エクセスパッケージのデスカウントと称した金稼ぎ。長きに渡ってフィリピン航空、日本航空、ノースウエスト航空は指摘権限者を優遇、金をもうけさせていたものだ。
日清カップヌードルの箱を3、4箱手押し車に乗っけてオネーチャンの姿が多く見受けられるようになってきた。
カレー味のカップ麺も混じり始めた頃、オネーチャンの帰国ルックはなんとも季節遅れのブランド物しかもはっきりと男物と分かる洋服を着た姿が目立ち始めてきた。ミッキーマウスの縫いぐるみもこの頃から持ち帰り始めてきた。
そして手に手にラジカセを持ったオネーチャン続々登場。
店内などで帰国間際のオネーチャンがオヤジ殿に
「ラジカセホシイディバ。デモ アイワ ハ ダメナ」この頃からブランド指定方になってきた。SONYなのだ。
首都圏はじめ近郊のピンパブで働いたオネーチャンルックは、ローレックスにブランドバック。しかも同伴帰国者随行の夜明けが始まった。
当初は、オネーチャンと一緒に帰るオヤジ殿殆どいなかった。
この頃には、空港まで送ってきたお客の間に伝わったニュース。
「オネーチャンを送っていくと空港で荷物代を払わされる。」などの異説も登場。
あれよあれよというまに、CDウオークマン、カップヌードルシーフード、ビデオカメラ、そろいも揃ってビトンのバック、アデダス3ラインのジャージ、ブランドTシャツ、そして最新日本流行ファッション帰国が多くなり、髪の毛も赤茶け、オヤジ殿まで頭が紅葉支恥じてきた。
当然、ブッとい金のネックレスにブレスレット、指は金の指輪だらけ。さようならキッスが随所で見られるようになった。
もちろんお腹ぽんぽん帰国やあれっというまの帰国者も増えてきた。
「アサワコ ドウハンスルカ」などの声が店内から聞こえてきた頃
「イツ ケッコンスル」本命客が来ると必ず控室へ戻って腕時計や貴金属を替えて店内へ出てくるおかしな現象もこの頃から。
店内には日本人のホステス等は見受けられず、猫の額程度のステージに、客席分捕ったオネーチャン20名が主流になり、客くれば全員起立で「イラッタイマセー!」
席へくれば「ハジメマシテ!ゲンキデスカ!オナマエナンデスカ!シゴトイソガシイデスカ!ジュースイイデスカ!」
そしてチップ上げたときに「アイ パパヤサシイナマン。マタアシタ」
店の外には「ニュータレント来店決定!」
飲み放題1時間3000円。
同伴、指名、ババドリなどの文字が捨て看に見受けられるようになった。
極めつけ「素敵な夜をピーナとお過ごしください。飲み放題1時間30分3000円。焼酎、ブランデー、ウイスキー」
台湾、韓国、マレーシア、タイの根強い売春軍団を尻目に、フィリピン軍団日本制覇。
田畑の真ん中からまで「ロンリーチャップリン」「二人の大阪」「居酒屋」「別れても好きな人」などのフィリピンデュエットソングが朝4時まで聞こえてきた。
店内では
「別れてもアヨコナサヨ」
「ハポン サカン スポット」
「別れたら次の人」
「チッチャルンブラックラ」
際付け「セーノ オミゴト!」
等の掛け声が聞こえてきた。
1970年代から、日本のオヤジ殿、ジジィ殿へ優しさを届けてきた「ピーナ」
ある日突然、目先が真っ暗になったのが2005年3月追い討ちかけて2006年6月1日の新省令。
多くのジャパユキ経験者はこのフィリピンで仕事にも就けず、一時の夢を再びと全く当てのない日本ドリームを目論んでいる様だ。
パパODA基金も薄れ始め、現地同伴もそこそこ。現地でカラオケへ勤めても、客足がおぼつかない。待てど暮らせど認定証も来ない。
「ウウイナ アコ」と帰省していった。
今このマニラでは、日本政府へ再度この業界を緩和していただくためのささやかな動き、襟を正したような規制を行い復帰をかけているグループもいる。
父の知人がPパブを創め、その方・父がダンサーを迎えに行き
それに付き添ったことがあります。
車中でダンサー達は私を可愛がってくれました。
その後店内に入り、バンブーダンスに目を丸くしたことを覚えています。
当時のダンサーは現地人そのものでありましたが
ショーが本業であり、接客は二の次でした。
来店された方々の目的もショーを見るためでした。
それを想えば今のジャパユキ・客層は笑い者です。
記憶だけの業界になるのもそう遠くはないでしょう。
コメント有難うございました。