( 五 ) かく精神を集中して念ずる所の言葉は大体次の通りである―
「 吾が本体は、太陽よりも尚一そう光輝燦然(こうきさんぜん)として輝き、雪よりも尚一層清浄であり、
エーテルよりも尚一そう精妙であり、これがわが中(うち)に宿る霊であって、それが本当の自分である 」
セオソフィーのように斯(こ)う云うような意味を念ずると、一層自己が「 肉体 」ではなく
「 霊化されたもの 」と云う自覚を得るに便(ベン)であります。併(しか)し、此(こ)の通りの言葉と
云うように、そんな型に はまった念じ方でなければならぬと云うんじゃないのです。
これを参考に、また『 私はこうして祈る 』の本にある祈り方をするとか、兎(と)も角(かく)、
無意味な呪文を唱えるようなことにしないで、意識の中に意味がハッキリあれば良いのです。
符号的な形式的な思念に流れないで、本当に想念を起しての言葉が必要なのです。
「 如意宝珠観 」や「 観普賢菩薩行法 」などは『 詳説 神想観 』の本に詳しくやり方が説明してあります。
( 六 ) その次の言葉に精神を集中するのもよい―
「 神は今 吾を見つめてい給うのである 」
これも同様に、言葉を念ずる時 はっきりとその意味を思い浮べながら繰返すのであって、
その想念がふらふらしてはならないのです。
( 七 ) 最後に次の意味の言葉を繰返して精神統一するのである―
「 吾々は永遠の世界に住んでいる。吾が魂の中には言葉に言い表すことのできない、平和がみちみちて
いるのである。今ここにすべてのものを新たならしめる所の力がある。
今、自分は神と一体であるが故にその力は吾が中(うち)に生き動いているのである 」
以上はセオソフィーの行う精神統一の一端を紹介して、神想観を行うときの参考に供したので
ありますが、アメリカの帰一協会“ ユニティー ”に於いても それぞれ多少異なる所の神想観
(meditation)の思念があるのですが、それらは大体何(いず)れもその原理は同一であります。
そしてその根本は、この実相世界の完全さと実在する「 本当の自分 」の完全さを、いかにアリアリと
心に描いて、それに波長を合わせ現実界に実現するかと云うことで、それが神想観の根本でありまして、
応用や変化は無数にありますが、あまり色々やらないで、最初は基本的な神想観をミッチリ実修する
ことがよいのであります。
神想観を自分だけやると悪霊につかれるおそれがあると言って 恐れてやらぬ人がありますが
それは意識にハッキリと、神の霊の流れ入る有様を描き、念ずる言葉にハッキリ精神を集中しないで
意識を朦朧(もうろう)とさせたりするからであります。
又、神想観の始めに 「 招神歌(かみよびうた)」 をとなえて「 守護の天使 」を呼び出しておけば、
そんな恐れはありません。
また本部で允可(いんか)していない先生に、神想観を指導してもらうと馮霊(ひょうれい)に
つかれる危険があると云うのは、その指導者が往々にして人体磁気を修行者に送り
所謂(いわゆ)るマグネタイズして恰(あたか)も催眠状態にならしめることがあるからです。
こんな場合は、指導者につくよりも、『 詳説 神想観 』に説明してある通り、御自分だけで
実修なさるが宜(よろ)しい。
〈 了 〉
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