悟りの行的把握について
併(しか)し、二十年も坐禅しとっても分からん者が、神想観をしたらはい分ったというような例もありますが、別に私は神想観と坐禅との優劣を言っているのではない、機を異(こと)にするに随(したが)って縁が異(ことな)るのであります。
とも角も、神想観でも坐禅でも覚(さと)れんこともない。どちらでも覚れるけれども、それで最後ということじゃないのであって、白隠(はくいん)禅師でも「大悟(だいご)十八回、小悟(しょうご)は数知れず」と言っておられます。
大悟徹底したと思っても、まだまだそれは、ひとつの段階であって、今度こそ大悟徹底したと思っても、まだそれもひとつの段階で十八回も大悟したと言われておりますがね、だからもうこれでお終(しま)いだと思ったら無限生長じゃないのであります。ですから、まだまだ吾々は修行をしなければならない。
知的にまず把握し、それから感情的にも把握し、それから今度は行(ぎょう)的に把握しなければならない。さっきおっしゃったところの愛行が真理の行的把握です。人に本当に愛を与えた時に本当に生き甲斐の自覚というものが感じられ、そして「我れ神の子である」というよろこびが実感として起って来るというのが、真理の行的把握ですね。
行動というものは、ただ単に感情というものでもなければ、知的に知るというだけでもない、もっと具体的に全体ですね。だから「行動化して悟る」ということになれば、尚(なお)一層高い程度に悟って来たということになるわけであります。
それでそのやっぱりその真理の書物を読んでそして同時に神想観をして、それによって全生命が感情的に情感的に悟って、その悟りから起(た)ち上って、そして人を救うという実際運動を行じてこそ、そこに本当に永続的な覚(さと)りのよろこびというようなものが得られて来るのです。
ただ坐禅とか神想観だけをして自分が悟っても、それはある意味からいうと、ひとつの利己主義であるとも言えます。自分だけ悟ってなかなかいい気持であっても、陶然(とうぜん)として坐禅に酔い、神想観を修して神(かん)ながらのよろこびの感情が湧く程度までなって来てもですね、それは、自分が楽しいのであって、人を救うという境地にはならないのでありますから、その境地でとどまったらいけないのであります。
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