迷いの中に悩みながら、こちらが救けてあげたいと思うけれども、
宗教とか信仰とかというものに興味のない人がたくさんある。
このような人を救うにはどうしてあげたらよいのであろうか。
釈尊はこういう人の事を「 縁なき衆生は度(ど)し難し 」と仰せられた。
「 度す 」というのは「 済度(さいど)する 」ことである。
実相光明世界 ― 即ち「 彼岸 」に度(わた)してあげたいけれども、
「 縁 」 即ち触れ合う、機会が無いということである。
肉体は互いに触れ合い、目に触れてはいるけれども、
「 機 」即ち「 心のはたらき 」が互いに「 会う 」ことがないのである。
それは恰(あたか)も、ラジオの放送電波は現実に今此処に到達しているけれども、
放送電波と受信機との波長があわないので、
いくら「 善き助言 」を放送してあげても、彼らは波長の合わぬラジオ・セッとのようなものであって、
心の触れ合う機会がないのである。
『 生長の家 』 誌 昭和四十四年十二月号
「 実相を礼拝して 生活を光明化するには 」 八日の法語 谷口雅春先生
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