家庭に問題が起った場合には
家庭に於きましても、善くないことをした人に、 「 怪(け)しからん 」 と言って
叱(しか)りつけると、 “ あいつは叱りやがった、癪(しゃく)に触る! 誰が言うことを
諾(き)いてやるものか! ” という気持になりましょう ?
それはまあ “ 雲を払う ” つもりで雲をつかんで抛(な)げつけているということになるわけです。
即ち “ あいつが悪いことをした、悪いことをやめさせよう ” と言って
雲をつかんでいることになるんです。
ところが、そういう間違いがあっても決して咎(とが)めないで、
「 あの人はそういう間違いをするような人じゃないんだ、善(い)い人なんだ 」 と、「 本来善い
人なんだ 」 と、 「 あれは何かひょっとした都合で 雲が出て来ただけのことなんだ 」 というわけで、
雲を跳び越えて その奥にあるその人の 「 実相 」 を観るんですね。
そうするとその “ 実相の完全な相 ” が顕(あら)われてくるということになるわけなんです。
子供の教育も同じ調子に
そうなると、子供を教育するのでも何もむつかしいことはない。
いままでは、悪いところを掴まえて何とか善くしようと思う教育だから難しかった。
ところが、本来 「 善い子供 」 だということがわかれば、それを “ 言葉の力 ” で引き出せばよい。
そうすると忽(たちま)ちその人は善くなるわけなんです。
その実例は 『 生命の實相 』 の教育篇にたくさん書いてあります。 〈了〉
『 光の泉 』 昭和四十二年四月号 谷口雅春大聖師