pcfxは、とある廃墟サイトを運営している。していた、というべきかもしれない。
友人があるとき急に「廃墟廃墟」言うようになった。以前から心霊スポットに出かけた
ものだったが、ある時を境にそれが「廃墟」に変わった。
なにしろ、何度もあちこちの心霊スポットなる所に深夜に出かけていったが、一度も
幽霊らしきものを見たことがなかった。現場で出会うのはDQNか浮浪者か心霊マニア
だけだった。なので、pcfxと友人は「幽霊はいない」と結論付けた。
心霊スポットの中には廃墟もあった。そういうところを何度も訪れているうちに、幽霊は
どうでもよくなり、廃墟そのものの探索が面白くなってきた。
pcfxがインドから帰ってきたその日、その友人から電話が入った。これからすぐに廃墟へ
行こうとのこと。時差や常識がまだボケたままのpcfxは、そのまま友人の車に乗せられ、
一気に奥三河の山中に連れてこられた。
その日から、友人TELとの廃墟探索の日々が続いた。色々な情報を元に廃墟を見つけ出し、
その場所を車で探し回り、人目をはばかりながら建物に入り、そして写真をとりまくる。
まあ不法侵入なんだろうが、管理者が見捨てたような所だから文句も来ない。
数百件にのぼる廃墟、沖縄から東北まで、物凄いペースで探索した。廃墟サイトに掲載
したのはその一部だ。それでも百数十件になった。
pcfxは探索を続けていくうちに、「単なる捨てられた建物」に飽きた。興味はその先に
ある、「廃墟に残された物」にシフトした。かつてそこに暮らしていた人々の痕跡。
雑記帳や日記、アルバムや事務書類。生々しい生活の足跡だ。そこで、サイトの方針を
「廃墟サイト」から「廃墟残留物サイト」に切り替えて独自性を出すことにした。
廃墟というのは捨てられた建物だ。解体せずにほったらかしなわけだ。ということは、
大抵夜逃げして放置しているものだ。夜逃げというのは突然やるものだから、残して
行くものは多い。民家だと、子供時代や結婚式のアルバムですら置いていくケースが
多い。中には、明らかに荷物を詰める途中の旅行カバンが口をあけたまま置いてある
ことがある。よほど大慌てで逃げたのだろう。洗濯物も干したままの場合すらある。
放置されて何年も経っているのに、それを回収にすら来ていない。ほったらかしだ。
そのような人生劇場が、残留物から匂ってくる。夜逃げした事を笑うつもりはない。
誰でも明日は我が身だ。誰にでも失敗はある。しかし、そこに凝縮されたドラマは想像力
を掻き立て、激しい知的好奇心を煽る。廃墟はある意味遺跡であり、廃墟探索は遺跡調査
にも似ている。そして考古学よりもお手軽だ。
廃墟には自由がある。建物には通常、役目がある。建物の職業のようなものだ。しかし
廃墟は無職だ。役目はもうない。そして「取り壊す=葬儀」もないまま捨てられている。
もう機能していない建物の骸骨には、ある種の爽やかな風が吹き抜ける。虚ろだが清純
な空間だ。雑草に覆われて腐敗しているが、生物の生々しさはそこにはもうない。
死後の開放。そんな安堵感が、廃墟にはある。
現在、廃墟サイトは更新していない。一年以上放置している。廃墟探索もかなりペースを
落としている。サイトの更新はするかもしれないし、しないかもしれない。またやりたく
なったらやるだろう。
そんな我々は、今は「辺境ドライブ」という別の楽しみを満喫中だ。「車で行くことの
できる、全ての道を行き止まりまで走破する」という遠大な計画だ。西日本と違い、
愛知県や岐阜県の山中は人里が少ない。それでも、「なんでこんな山の中に」という所
に人が住んでいる。山の中のドン詰まり、一番近い雑貨屋まで車で1時間、最寄の町まで
2時間、冬になると山道が雪で覆われ除雪車も入れず、通行不能になるというような
立地にも、人は住んでいる。地図にない集落もある。もう人が住んでない集落もある。
我々が今目指しているのは、そんな集落を駆け巡ることだ。
友人があるとき急に「廃墟廃墟」言うようになった。以前から心霊スポットに出かけた
ものだったが、ある時を境にそれが「廃墟」に変わった。
なにしろ、何度もあちこちの心霊スポットなる所に深夜に出かけていったが、一度も
幽霊らしきものを見たことがなかった。現場で出会うのはDQNか浮浪者か心霊マニア
だけだった。なので、pcfxと友人は「幽霊はいない」と結論付けた。
心霊スポットの中には廃墟もあった。そういうところを何度も訪れているうちに、幽霊は
どうでもよくなり、廃墟そのものの探索が面白くなってきた。
pcfxがインドから帰ってきたその日、その友人から電話が入った。これからすぐに廃墟へ
行こうとのこと。時差や常識がまだボケたままのpcfxは、そのまま友人の車に乗せられ、
一気に奥三河の山中に連れてこられた。
その日から、友人TELとの廃墟探索の日々が続いた。色々な情報を元に廃墟を見つけ出し、
その場所を車で探し回り、人目をはばかりながら建物に入り、そして写真をとりまくる。
まあ不法侵入なんだろうが、管理者が見捨てたような所だから文句も来ない。
数百件にのぼる廃墟、沖縄から東北まで、物凄いペースで探索した。廃墟サイトに掲載
したのはその一部だ。それでも百数十件になった。
pcfxは探索を続けていくうちに、「単なる捨てられた建物」に飽きた。興味はその先に
ある、「廃墟に残された物」にシフトした。かつてそこに暮らしていた人々の痕跡。
雑記帳や日記、アルバムや事務書類。生々しい生活の足跡だ。そこで、サイトの方針を
「廃墟サイト」から「廃墟残留物サイト」に切り替えて独自性を出すことにした。
廃墟というのは捨てられた建物だ。解体せずにほったらかしなわけだ。ということは、
大抵夜逃げして放置しているものだ。夜逃げというのは突然やるものだから、残して
行くものは多い。民家だと、子供時代や結婚式のアルバムですら置いていくケースが
多い。中には、明らかに荷物を詰める途中の旅行カバンが口をあけたまま置いてある
ことがある。よほど大慌てで逃げたのだろう。洗濯物も干したままの場合すらある。
放置されて何年も経っているのに、それを回収にすら来ていない。ほったらかしだ。
そのような人生劇場が、残留物から匂ってくる。夜逃げした事を笑うつもりはない。
誰でも明日は我が身だ。誰にでも失敗はある。しかし、そこに凝縮されたドラマは想像力
を掻き立て、激しい知的好奇心を煽る。廃墟はある意味遺跡であり、廃墟探索は遺跡調査
にも似ている。そして考古学よりもお手軽だ。
廃墟には自由がある。建物には通常、役目がある。建物の職業のようなものだ。しかし
廃墟は無職だ。役目はもうない。そして「取り壊す=葬儀」もないまま捨てられている。
もう機能していない建物の骸骨には、ある種の爽やかな風が吹き抜ける。虚ろだが清純
な空間だ。雑草に覆われて腐敗しているが、生物の生々しさはそこにはもうない。
死後の開放。そんな安堵感が、廃墟にはある。
現在、廃墟サイトは更新していない。一年以上放置している。廃墟探索もかなりペースを
落としている。サイトの更新はするかもしれないし、しないかもしれない。またやりたく
なったらやるだろう。
そんな我々は、今は「辺境ドライブ」という別の楽しみを満喫中だ。「車で行くことの
できる、全ての道を行き止まりまで走破する」という遠大な計画だ。西日本と違い、
愛知県や岐阜県の山中は人里が少ない。それでも、「なんでこんな山の中に」という所
に人が住んでいる。山の中のドン詰まり、一番近い雑貨屋まで車で1時間、最寄の町まで
2時間、冬になると山道が雪で覆われ除雪車も入れず、通行不能になるというような
立地にも、人は住んでいる。地図にない集落もある。もう人が住んでない集落もある。
我々が今目指しているのは、そんな集落を駆け巡ることだ。