某国立大学の式辞において、学長が英語でスピーチをしたというニュースを読んだ。
「国際化」がキーワードのごとく語られる。もちろんそれは当然であり、今後ますます重要視されることなのだろう。
しかし、大学の入学式において果たして英語を用いる必然があったのか。
異論は承知で私は断固「否」と申し上げたい。
理由は、なんてことはない。「ここは日本だ!」ということだ。
世界に出たい人は英語のみならず多国語を理解し、ビジネスや研究の場において受け入れられることが必要な場面があるだろう。
大学としてそれを後押しする意図はあってしかるべきだ。しかし、日本人の独自性や日本文化のすばらしさ、日本語の美しさについて軽く見てはいないか。
また、失礼ながら新入生の英語力で学長の真意がどこまで伝わるのかが疑問。「すべて」のニュアンスが伝わらなければ、式辞としての意味をなさない。
私は長男の大学入学式における当時の学長の式辞を受け深く感銘した。その理由は、彼が用いる日本語の美しさに由来する。英語では絶対に伝わらないことだ。
母国語の放棄は即ち国力の放棄。国立大学であるのならば、最も重んずべきは「ここは日本だ!」ということではないか。
「国際化」がキーワードのごとく語られる。もちろんそれは当然であり、今後ますます重要視されることなのだろう。
しかし、大学の入学式において果たして英語を用いる必然があったのか。
異論は承知で私は断固「否」と申し上げたい。
理由は、なんてことはない。「ここは日本だ!」ということだ。
世界に出たい人は英語のみならず多国語を理解し、ビジネスや研究の場において受け入れられることが必要な場面があるだろう。
大学としてそれを後押しする意図はあってしかるべきだ。しかし、日本人の独自性や日本文化のすばらしさ、日本語の美しさについて軽く見てはいないか。
また、失礼ながら新入生の英語力で学長の真意がどこまで伝わるのかが疑問。「すべて」のニュアンスが伝わらなければ、式辞としての意味をなさない。
私は長男の大学入学式における当時の学長の式辞を受け深く感銘した。その理由は、彼が用いる日本語の美しさに由来する。英語では絶対に伝わらないことだ。
母国語の放棄は即ち国力の放棄。国立大学であるのならば、最も重んずべきは「ここは日本だ!」ということではないか。