今年のメイン登山が終わった。南アルプス白峰三山縦走(広河原~北岳・間ノ岳・農鳥岳~大門沢~奈良田)だった。山から下りてしばらく考えていることをテーマとしたい。
それは農鳥小屋におけるある「事件」のことだ。「農鳥小屋のオヤジ」が主人公。ネット検索で多くの記事が出てくる名物オヤジだ。「名物」というとよい響きだが、あまり好印象で語られない記事も散見される。
オヤジは「がんこ」「偏屈」「横柄」…や、小屋については「不潔」といった感じである。私は、今回ここを訪れるまで小屋の評判やオヤジの存在は全く知らなかった。
農鳥小屋を訪れたのは行程中たまたま通りかかったからだ。しかし、私は農鳥小屋に入る前に重大な課題を抱えていた。それは、その前に登頂した間ノ岳(3,190m)山頂付近にカメラを置き忘れたことだった。
気づいたのは農鳥小屋に着く直前。戻ろうにも体力が残っておらず、次の行程を考えるとそれ(戻ること)は考えられなかった。一方で万が一無くしたとしてもある意味「仕方ない」という諦念もあった。
何人かの登山者に声をかけ、もし見つかれば北岳山荘に届けていただくようお願いした。一方、農鳥小屋に届くことも想定されるため農鳥小屋の人に伝えねばと考えていた。
そんな中で出会ったのが「農鳥小屋のオヤジ」だった。私が到着したときは、他の登山者と話していた。耳が遠いらしく大きな声で。親しみを感じる話しぶりだったが、明らかに「ただものではない」オーラを放っていた。
私は宿泊客でもなく通りすがりである。カメラのことを切り出すチャンスを伺っていた。考えた挙句、何かを購入しそのついでにカメラのことをお願いすることにした。
そこで、「Tシャツはありますか?」と聞いてみた。以後オヤジとのやり取りである。
オヤジ :「あー、Tシャツ…、何枚か残りがあったかなー」(ごそごそ)
私 :「…」
オヤジ :「あー、これならある。2色しか残ってないな。」
私 :「じゃあ、こっちの色にします。」
オヤジ :「そうか。じゃあ、3,000円。」
私 :「はい。わかりました。。(支払う) …あのー、実は間ノ岳でカメラを置き忘れたようでして。」
オヤジ :「ん?」
私 :「もしこちらに届けばご連絡いただきたいんですけど。
オヤジ :「なに!そんなもん、お前自分で取りに行けよ!」
私 :「いや、私体力的に無理なんで、なんとかご協力を。」
オヤジ :「まぁ、置いてくるってことはたいして大事なもんじゃないだよなー」
私 :「はい。まぁ、出てこなくても仕方ないと思ってます。」
オヤジ :「じゃあ、メモに書いておけ。」
と、このようなやり取りとなった。
その後もいろいろとやり取りがあって、名刺の余白にカメラの機種名などを記入し手渡した。
このような「事件」の経緯である。
文面ではすべてを表現できていないが、結構辛辣なことも言われた。しかし、私が感じたことは言葉通りではなかった。それは「がんこ」ではあっても、そこには「正しさ」や「暖かさ」があった。
オヤジ :「うちの若いのが今日登ってるから、持って帰ってくれば連絡してやるよ。」
私 :「そうですか。よろしくお願いします。」
となり、農鳥小屋を後にした。
「農鳥小屋のオヤジ」は、私がそこにとどまっている間、登山者に対し盛んに天候のことを言っていた。そして「早く発て!」と。すると案の定、私が大門沢小屋に着くや否や雨が降り出した。
山のことを深く知り、登山者の安全を願いながら声をかけ、そして山の掟を逸脱した登山者には厳しく接する。それが「農鳥小屋のオヤジ」だったのだ。
私は、「ただものではない」と感じた第一印象から、「農鳥小屋のオヤジ」に強い関心を持った。自分自身のニーズ(カメラの件)もあったが、対話できたことが嬉しかった。
しかし、中にはあの独特の雰囲気や厳しい言葉にたじろぎ、敬遠する人もいるのだろう。彼らは、一歩踏み込まなければ味わえない強烈な個性の奥に潜んだやさしさや暖かさを感じることができないことになる。
おそらく社会全般においてもこのようなことが頻繁に起こっているのだろう。表面的な接点では見えてこない奥深さがどんな人にもある。そのことを今回の「農鳥小屋事件」を通して味わっている。
ところでカメラのことだ。私は、農鳥小屋に届く確率は高くなく、どちらかというと北岳山荘に届く確率の方が高いと考えた。下山後山荘に連絡しようと思った。また、持って帰る人がいればそれは仕方ないとも考えた。
奈良田の里に下山すると一本の留守番電話が入っていた。道中は携帯電話が通じないのだ。
「農鳥小屋です。カメラが見つかりました。仙丈小屋を管理する伊那市の職員の方が来てカメラをもっていきました。近々山を下りる用があるから送ってくれることになりました。」
若い女性の声だった。私には奥でオヤジの笑う顔が見える気がした。
私の社会性のなさから始まった「事件」だが、改めて人間の素晴らしさを思うこととなった。一方、オヤジにたじろがず(?)対話を楽しんた自分のことも考えた。この話、まだまだ自己の内部で楽しめそうなテーマである。
それは農鳥小屋におけるある「事件」のことだ。「農鳥小屋のオヤジ」が主人公。ネット検索で多くの記事が出てくる名物オヤジだ。「名物」というとよい響きだが、あまり好印象で語られない記事も散見される。
オヤジは「がんこ」「偏屈」「横柄」…や、小屋については「不潔」といった感じである。私は、今回ここを訪れるまで小屋の評判やオヤジの存在は全く知らなかった。
農鳥小屋を訪れたのは行程中たまたま通りかかったからだ。しかし、私は農鳥小屋に入る前に重大な課題を抱えていた。それは、その前に登頂した間ノ岳(3,190m)山頂付近にカメラを置き忘れたことだった。
気づいたのは農鳥小屋に着く直前。戻ろうにも体力が残っておらず、次の行程を考えるとそれ(戻ること)は考えられなかった。一方で万が一無くしたとしてもある意味「仕方ない」という諦念もあった。
何人かの登山者に声をかけ、もし見つかれば北岳山荘に届けていただくようお願いした。一方、農鳥小屋に届くことも想定されるため農鳥小屋の人に伝えねばと考えていた。
そんな中で出会ったのが「農鳥小屋のオヤジ」だった。私が到着したときは、他の登山者と話していた。耳が遠いらしく大きな声で。親しみを感じる話しぶりだったが、明らかに「ただものではない」オーラを放っていた。
私は宿泊客でもなく通りすがりである。カメラのことを切り出すチャンスを伺っていた。考えた挙句、何かを購入しそのついでにカメラのことをお願いすることにした。
そこで、「Tシャツはありますか?」と聞いてみた。以後オヤジとのやり取りである。
オヤジ :「あー、Tシャツ…、何枚か残りがあったかなー」(ごそごそ)
私 :「…」
オヤジ :「あー、これならある。2色しか残ってないな。」
私 :「じゃあ、こっちの色にします。」
オヤジ :「そうか。じゃあ、3,000円。」
私 :「はい。わかりました。。(支払う) …あのー、実は間ノ岳でカメラを置き忘れたようでして。」
オヤジ :「ん?」
私 :「もしこちらに届けばご連絡いただきたいんですけど。
オヤジ :「なに!そんなもん、お前自分で取りに行けよ!」
私 :「いや、私体力的に無理なんで、なんとかご協力を。」
オヤジ :「まぁ、置いてくるってことはたいして大事なもんじゃないだよなー」
私 :「はい。まぁ、出てこなくても仕方ないと思ってます。」
オヤジ :「じゃあ、メモに書いておけ。」
と、このようなやり取りとなった。
その後もいろいろとやり取りがあって、名刺の余白にカメラの機種名などを記入し手渡した。
このような「事件」の経緯である。
文面ではすべてを表現できていないが、結構辛辣なことも言われた。しかし、私が感じたことは言葉通りではなかった。それは「がんこ」ではあっても、そこには「正しさ」や「暖かさ」があった。
オヤジ :「うちの若いのが今日登ってるから、持って帰ってくれば連絡してやるよ。」
私 :「そうですか。よろしくお願いします。」
となり、農鳥小屋を後にした。
「農鳥小屋のオヤジ」は、私がそこにとどまっている間、登山者に対し盛んに天候のことを言っていた。そして「早く発て!」と。すると案の定、私が大門沢小屋に着くや否や雨が降り出した。
山のことを深く知り、登山者の安全を願いながら声をかけ、そして山の掟を逸脱した登山者には厳しく接する。それが「農鳥小屋のオヤジ」だったのだ。
私は、「ただものではない」と感じた第一印象から、「農鳥小屋のオヤジ」に強い関心を持った。自分自身のニーズ(カメラの件)もあったが、対話できたことが嬉しかった。
しかし、中にはあの独特の雰囲気や厳しい言葉にたじろぎ、敬遠する人もいるのだろう。彼らは、一歩踏み込まなければ味わえない強烈な個性の奥に潜んだやさしさや暖かさを感じることができないことになる。
おそらく社会全般においてもこのようなことが頻繁に起こっているのだろう。表面的な接点では見えてこない奥深さがどんな人にもある。そのことを今回の「農鳥小屋事件」を通して味わっている。
ところでカメラのことだ。私は、農鳥小屋に届く確率は高くなく、どちらかというと北岳山荘に届く確率の方が高いと考えた。下山後山荘に連絡しようと思った。また、持って帰る人がいればそれは仕方ないとも考えた。
奈良田の里に下山すると一本の留守番電話が入っていた。道中は携帯電話が通じないのだ。
「農鳥小屋です。カメラが見つかりました。仙丈小屋を管理する伊那市の職員の方が来てカメラをもっていきました。近々山を下りる用があるから送ってくれることになりました。」
若い女性の声だった。私には奥でオヤジの笑う顔が見える気がした。
私の社会性のなさから始まった「事件」だが、改めて人間の素晴らしさを思うこととなった。一方、オヤジにたじろがず(?)対話を楽しんた自分のことも考えた。この話、まだまだ自己の内部で楽しめそうなテーマである。