凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも藤原泰衡が義経を討たなかったら

2005年02月23日 | 歴史「if」
 巷が義経で盛り上がっているせいか、僕も最近義経のことを考えることが多い。大河ドラマのいい視聴者ではないのだけれど、子供の頃に児童用の「義経記」を読んで以来の判官びいきでもあり、なんとなしに想いがその時代へ傾く。

 衣川で自決したはずの義経が、実は生き延びていたと言う話は、数多く語られている。「義経北行伝説」の史跡は東北、北海道にもたくさん残っていて、僕もいくつかの場所はまわった。そしてまた、義経が大陸に渡って、あのジンギスカンに成ったという話も有名。むろん歴史学者によって完全否定されている話であるが、荒唐無稽とも言い切れないと僕は思っている。必死に研究している人の著作を読むと結構なるほどなぁと思わされてしまったりするのだ。まああの大量虐殺のジンギスカンと義経を僕は完全に結びつけてしまいたくはないけれども、白旗や騎馬戦術などを見ると「ひょっとしたら…」と思えるのは実に楽しい。

 それもこれも義経が衣川で悲壮な最期を遂げた事に対する判官びいきによって、義経を殺したくない民衆の間で興った話なのだろうけれども、どうしても歴史ファンなら考えてしまうことは、「もしも義経が奥州藤原氏の軍を率いて頼朝と決戦していたら」という空想である。
 藤原秀衡は奥州の覇者として長い間君臨してきたが、そのもとには蝦夷であった安倍氏の血が濃く流れている。以前このブログで前九年の役について書いたが、安倍氏の血を引きながら敵の清原氏の子供として育った初代清衡は、後三年の役で巧みに源義家を操り(思い切って操ると書いてしまおう)、奥州藤原氏の基盤を築いた。 
 この清衡、後三年の役で妻を殺されているのだが、その後伊勢平氏の女性と再婚し、「平清衡」となった時期がある。辛酸を舐めてきた清衡は驚く外交戦術を使う。その後名乗りを藤原経清の遺子であるというところから(母は安倍氏)藤原氏となる。
 二代基衡は、自らは藤原氏であり母が平家である。このことを利用し、中央政府との縁を強め外交を徹底し、奥羽での政治的実権を得る。さらに三代秀衡は「鎮守府将軍」「陸奥守」となり、東北をほぼ手中に収めたのだ。こうして三代で藤原氏は東北に君臨し、奥州平泉文化が花開いた。しかしそれは、かつて安倍頼時、貞任が源氏との戦いで敗れたことを踏まえてその子孫がとった、戦わない徹底した外交戦術の成果であった。

 しかし、ここに外交が通用しない男が台頭する。鎌倉の源頼朝である。安倍氏にとって恨むべき源頼義の子孫がまた東北に牙をむいてきたのである。歴史は因果なものだと本当に思う。
 初代清衡は多くの血を見てきた。しかし、その後は奥州藤原氏は外交戦略によって繁栄を築いた。秀衡に至るまで長きに渡り東北は戦いをしていない。関東武者は戦乱を勝ち抜いてきた猛者であり、まともに戦えば勝ち目はない。しかし、戦い慣れしていないとは言え奥州には17万騎と言われる潜在能力がある。ここに、稀代の戦術家義経が加わったら、なんとか持ちこたえられるのではないか? 秀衡はそう読んだのではないか。関東と互角に戦えれば、関東の体力を消耗させられれば、後白河法皇を間に立て和睦し、奥州を安堵する。こういう青写真だったのではないか。

 しかし、秀衡は死に、奥州は後継に託されることになる。
 カリスマ秀衡は、義経を全面に押したてて頼朝と決戦せよと遺言した。しかし、四代泰衡はそれに結果的に背くことになってしまう。
 泰衡は長子ではない。しかし、藤原基成の娘を母とし、血筋から家督を継いだ。
藤原基成という存在は、奥州藤原氏にとって大きい。藤原北家の出であるまだ若き頃の基成が鎮守府将軍に任じられて奥州に赴任するのはまだ二代基衡の頃。任期後も土着し、中央政府とのパイプ役となり、秀衡を鎮守府将軍そして陸奥守とした功労者である。この娘を秀衡が娶り、泰衡を生む。秀衡逝去の際も基成は健在で、孫の泰衡の後見として平泉に君臨していたのである。
 秀衡の長子に国衡という人物が居た。この国衡は、大変な武者だったと言われる。頼朝が攻めてきた時も堂々と渡り合った。この国衡が家督を継いでいればまた違った展開になったであろう。しかし秀衡は功労者基成を無視出来ずに泰衡を後継としたところが痛い。
 案の定、カリスマ秀衡亡き後は奥州は2派に分れる。基成・泰衡の「平和外交派」と国衡の「武闘派」とでも言えばいいのか。国衡は遺言遵守で義経を立てようとしたが、頼朝は基成・泰衡に揺さぶりをかける。「義経を討てば領地は安堵」。そんな訳はないのだが泰衡はそれに乗ってしまう。
 基成は、藤原北家で血筋はよく、自らが奥州藤原氏を発展させてきたと自負していたと思う。しかし、人脈はあっても政治力には疑問が残る。後白河法皇、平清盛・重盛、藤原秀衡、源頼朝といった凄腕政治家たちと比べれば、まだまだ二流であった。

 義経は討たれ、直ぐに泰衡も討たれ、頼朝は東北を支配下に入れる。それは頼義以来の宿願でもあった。そして、安倍一族から続いた蝦夷を始祖とする王国は終焉を迎えるのである。

 もしも秀衡がもう少し長生きしたら、或いは基成や泰衡に器量があったならば。
 奥州17万騎に平氏を滅ぼした戦術家義経。義経は平泉入りの際、既に対頼朝の青写真を携えていたと言われる。そして信夫郷の館などの軍事施設も整え始め、戦時体制を作ろうとしていた。この軍事的天才の義経を先頭に、武闘派国衡が騎馬を率い、巧妙な戦いを仕掛ければ。
 関東はまだ完全な一枚岩ではない。勝てない戦争を続ければ頼朝の立場も危うい。関東は疲弊し消耗する。そうなれば、後白河のタヌキが登場し和睦を進め、不可侵条約を結び、奥州の大地を安堵される可能性もないではなかった。どのみち攻められて滅びるなら、なんとか生き残りを賭けて戦えば道が開けた可能性があったのである。

 僕はどうも奥州の、安倍氏を頂点とする蝦夷の人々に肩入れする傾向がある。だから、この泰衡の弱さは残念で仕方がないのだ。せめて、義経が北行したという伝説に夢を託すくらいでなんとか溜飲を下げている。



  
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7 コメント

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こんばんは(^_-) (jasmimtea)
2005-02-24 22:39:33
私も奥州藤原氏大好きです!

泰衡はよくわからないんですよね。どなたの著書だったかか忘れましたが「泰衡はバカじゃなかった」ってな本がありましったっけ。ただ頼朝が奥州に侵攻してきた時の戦い方を見ると‥。義経がいなくても国衡と忠衡と手を携えていれば奥州は守れたと思います。

私的に勝手に解釈するとあれほど英明な秀衡も家族のことは考えられなかったって言うか、義経という源氏の血筋を利用しようとした(最初に奥州に呼び寄せた)ことが間違えだったんじゃないかと。あくまで独立性を保てば良かったのに、、と残念な気がします。でも時代の流れの中でそう考えても仕方なかったですよね。義経って私はそんなに好きじゃないけどいろいろな人に利用されてばかりでかわいそうな人ですよね

と、、長くなってしまいました。

ごめんなさい。
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長いコメント歓迎(笑) (凛太郎)
2005-02-26 00:27:41
奥州藤原氏は、最後に残った安倍氏の血筋ということで、滅び行くのに実に口惜しい思いはあるのです。なーんとなしに情が移ってしまいますねぇ。肩入れですね。

まあ安東氏、それから大浦(津軽)氏はこの蝦夷の系統だと言われていますが、「奥州の覇者」というわけにはいきませんし。



義経について「判官贔屓」と言いましたが、それは子供の頃からよく知っていたというだけで実はさほどの情は感じていないのです。むしろ、泰衡や宗盛にかなりの思いいれはあります。

おそらく「凡庸」と言われていることの憐れさからきているのでしょうか。凡庸なんてヒドいですねぇ。「普通」の人だっただけなのでしょうから。普通の人が、あんな歴史の大舞台に立ったら、もう何も出来ませんよ。バケモノ政治家やカミソリ軍人の間で。もし宗盛や泰衡の立場に自分が立ったら…と考えると、彼ら以上のことが僕に出来たか? いや、もっとヒドいことになっていたでしょう。まして「見るべき程のことは見つ」なんて多分言えませんて。

個人的には、宗盛や泰衡には限りないシンパシーを感じます。市井の人で居られたらもっと幸せだったろうに…。



おっとこちらも長くなってしまいました。

m(_ _;)m

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今頃ですが拝見しました。 (ふじゃがいも)
2013-06-23 01:31:51
藤原泰衡で検索したら貴殿のこのブログ〓が出てきたので拝見しました。実は修学旅行引率で東北は岩手の花泉と平泉に行った関係でこの時期に中3に「おくのほそ道」の平泉の章を教えたのです。以前までは高館でお馴染み義経に興味があったのですが(貴殿のブログにあるように私も大河ドラマのタッキー主演「義経」にはまっていましたから)、金色堂を調べ奥州藤原三代を調べると、俄然この四代目で「愚息」「不肖」とされている泰衡に興味が沸いてきた次第で。数々の「たられば」、面白く拝見しました。Wikipediaの藤原泰衡は、「吾妻鏡」にもあるようにクソミソに紹介されているのですが、ヌワンと「義経」より少し前の大河ドラマ「炎(ほむら)立つ」では、あの今や大スターの渡辺謙様が主役として泰衡を演じられていました貴殿はご覧になられましたか〓そのドラマでは勿論泰衡はヒーローでいい人。義経こそが怠け者の不勉強な奴として描かれているそうです。タッキーのドラマでは泰衡を誰が演じたか忘れましたし調べていませんが、もしもご興味がおありでしたら「炎立つ」第三部をDVDか何かでご覧下さい。以上中学国語科のふじゃがいも、でした。
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>ふじゃがいもさん (凛太郎)
2013-06-23 05:39:23
読んでくださってありがとうございます。
結局大河ドラマの「義経」は、一度か二度観ただけで終わってしまったように記憶しています。忙しかったのかな。「炎立つ」は残念ながら全く観ていません。すみません。
歴史の人物評価って難しいところがありますね。結果だけで性格まで判断されてしまう。歴史の多くは勝者が後世に発信するので、負けた側はかなり辛らつに書かれてしまいます。失敗した人全てが驕っていたり鼻毛を抜いていたわけではありますまい。
吾妻鏡はこれを書いて以降、新しい注釈本が出たこともあり原文に目を通す機会が増えましたが、かなり疑問の残る書き方をしている部分が多いと思います。
泰衡もそうですが、義経も昨今あまり評価がいいとは言えません。「炎立つ」ではそう書かれていたか。僕もドラマはともかく小説くらいは読もうと思っていましたが(高橋克彦氏は何作か読んでいますから)、まだ果たせずにいます。
義経については、こういうのを書いたこともあります。
http://blog.goo.ne.jp/p_lintaro2002/e/c0d23e3504c468bf72eb3e88e773aba7
泰衡も義経も、怠け者の不勉強な奴ではなんだか浮かばれないように思いましてね。
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Unknown (R2)
2015-12-13 18:29:12
確かに義経が平泉の大将軍に就いていたら、全く異なる歴史が展開された可能性はあったかもですね。それこそ真田幸村に匹敵する存在になった可能性は高いです。

なにより義経の戦上手は鎌倉武士が最も思い知らされているのだからそんな男と一戦交える怖さは鎌倉が最も知っているのだから心理的圧迫は大きいでしょう
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>R2さん (凛太郎)
2016-01-08 06:34:59
この記事、約11年前に書いた妄想話ではありますが、いま見返しまして、文章の稚拙さは措いても、骨子はそんなに外れていないようにも思いました。
ただ、義経が奥州軍を率いて一戦交えて後の、戦後処理ができる人物が平泉に居たか、を考えますと…どう歴史が変わったかはわかりませんね。秀衡没は大きい。泰衡が戦乱を潜り抜けて成長する可能性もありますが。
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Unknown (Unknown)
2017-01-26 14:59:24
正直言って歴史IFモノにありがちなIF要素によるマイナス面を考えていない空想ですね
当時の義経は謀反人として朝廷から指名手配されていましたし庇えば奥州藤原氏も逆賊認定食らって官位召し上げですよ
当時の奥州は藤原氏の国ではありませんし、藤原氏はあくまで朝廷から任命された代表に過ぎずこうなれば反乱だらけで迎え撃つどころではありませんよ。
義経自身も実は人望などなく周囲の武士たちから嫌われてましたし彼を統領にして独立など不可能、結局講和できる可能性があった義経排除が藤原氏的に一番成功率が高い行動だったと考えられます。
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