凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも大阪遷都が実現していたら

2006年06月01日 | 歴史「if」
 旅のカテゴリで、「僕の旅 大阪府」を書いたので、表記のようなことについて考えてみたいと思う。もちろんこれは、明治維新による大阪遷都についての「if」のことである。
 その前に「首都」の定義について考えてみたい。辞書的には、「一国の中央政府のある都市。首府。(goo辞書)」となる。では中央政府とは「国家行政の中心機関。内閣の行政官庁や、連邦制国家における連邦政府をさす。(goo辞書)」となる。
 ということは、江戸時代には、日本の政治的中心である幕府があった江戸が首都であるということになる。事実、幕末期に諸外国は江戸を首都としてとらえ、開国を幕府に要求した。
 ここからは話がややこしくなってしまうのだが、結局日本が出した判断は「首都は京都」ということであった。これは幕府が開国に際し、対応を朝廷にお伺いをたてるということをしたということで表面化する。将軍の任命権は天皇が持ち、天皇が元首であると幕府が認めてしまったに等しい。ここから、江戸にある幕府は政治を仮託されているにすぎず、あくまで首都は元首のいる京都であるということになる。ややこしい二重構造だな。
 つまり日本においては、古来より「天皇のいる都市が首都」という定義になる。辞書や外国の認識と少しズレが生じる。ここの部分について話をしだすと先に進まなくなるので「京都は平安遷都以来首都であった」ということにしておく。「天皇のいる都市」が首都なのだ。これは日本にだけ通用する定義である。

 さて、大阪。そもそも日本の首都は古代、大阪にあった時代がある。河内王朝がもしも日本の単独王権だったとすれば、この時期の首都は大阪である。応神、仁徳天皇陵をはじめ巨大古墳が残るのは大阪だ。河内王朝はこのような巨大墳墓を作れるだけの土木力を持っていたのだ。当時の日本首都であった可能性は極めて高い。
また後代、孝徳天皇は難波宮を築いた。これはあくまで天皇の住居であって首都機能を持っていたかどうかは疑問視されるむきもあるが、天皇が居住した点においては首都であったともいえる。そして、奈良時代には聖武天皇が難波京遷都を実施した。これは僅かな時間であったが首都機能を持っていたとされる。
 その後、大阪は首都となる機会はなかった。正確にはチャンスはあったのだが(jasminteaさんの大坂遷都を夢見た人たち参照)、結局果たせずに幕末を迎える。

 前置きが長くなった。
 嵐を呼ぶ幕末から明治維新を迎えようとするその最終段階で、首都を京都から大阪へ移そうという計画が進行した。大阪遷都である。この大阪遷都を画策したのは大久保利通であった。
 主旨は、幕府崩壊による混乱(この当時鳥羽・伏見の戦いは終わっているものの旧幕勢力はまだまだ残っていて、新政府も基盤が出来ていなかった)に対して、旧弊を改めご一新とするには遷都が有用であるとの考え方による。
 そもそも幕末に大阪遷都論を主張したのは大久保が最初ではない。平野國臣や真木和泉が既に主張している。また薩摩の伊地知正治は大久保に先立ち大坂遷都論を主張している(伊地知は京都を狭隘などと言っていて京都人としてはちと腹が立ったりして)。
 さて、大久保は大阪遷都を建白する。内容は、政治の一新と朝廷改革。桓武天皇が平安遷都したように、全てを新体制としたかったのであろう。国内外へのアピールともなる。建白書は合理的なものだった。

 この遷都建白に対し、保守的はもちろん抵抗。計画は二転三転することになる。そもそも大久保の建白はまず「遷都ありき」であって、京都を離れることが重要であり大阪にする積極的な理由は少なかったと言ってもいいと思う。
 確かに地形は大阪がいい。水運にも優れ、地勢的には申し分ない。当時既に経済の中心地であり、因循とは無縁。だが、それだけであったとも言える。
 江戸城開城と上野戦争の終結。その頃から江戸(東京)遷都論が持ち上がってくる。結局、大阪遷都は見送られて東京遷都という結論に達する。

 この過程に、前島密の東京遷都建言があったことはよく知られている。前島密は幕臣であり、大久保につてが無い為「江戸寒士」という筆名で大久保宅に匿名投書したと言われる。
 内容は、
・大阪は日本の中心でないこと(旧来なら大阪が中心だが、北海道を入れると東京がほぼ真ん中になる。この時点で蝦夷地開拓のことは検討されているが、沖縄のことは考えられていないことがわかる)。
・港が小さい(堺は河川の砂で底が上がり、この頃は兵庫港が使われていた)。
・市街地の規模が小さい。江戸には役所や住居となるべき大きな建物が多いが大阪にはない(大阪城が戦火にあったが江戸城はそのまま残った、また大名屋敷その他も残されている)。
・大阪は既に経済の中心であり遷都がなくても衰えないが、江戸は政治をとられたら衰える(江戸の市民は幕府依存で生活していたとも言える)。
 以上のような内容であった。
 前島密の建言で大久保がそれまでの考えを突然翻したように言われることが多いが、そんな簡単なものではなかっただろう。様々な嘆願や圧力、そして十分に検討した結果東京遷都になったと思われる。しかし、この前島密の建言は的を得ているとも言える。実情はどうだったのだろうか。
 僕はやはり
・まだ戊辰戦争が終結しておらず、東進の意味合い。
・政庁その他の建物が既にあった。
 これが重要なポイントであったと考えている。特に建物というのは案外重要で、都道府県の県庁所在地も結局、県庁となるべき大きな建物があったからそこに決まった、という実例も多いのである。ましてや国の政庁ともなると、かなりのものを建造せねばならないが、新政府には金がなかったのである。出来れば既存のものを使いたい。当初の大阪遷都論には「大阪城の活用」が当然念頭にあっただろうが、鳥羽伏見の戦いで落城してしまった。一方江戸城は無血開城のためそのままである。大名屋敷その他の建物もそのまま残され、都市機能が充実している。結局修辞的に言えば、新政府は「金がなかった」ために、東京遷都を行ったとも言える(極端に穿って言えばだが)。

 ということは。もしも江戸無血開城、あの西郷と勝のとっつぁんの話し合いが決裂していたら、そして江戸が西郷の構想どおり焦土と化していたら、東京遷都はなかったのではないか。東京遷都を目標に新政府は動き出したとしても、東京に拠り所がなく皇居移転も出来ないではすぐには遷都できない。しばらく京都・大阪併用で政務が行われ、そのうち既得権も生まれてますます東京へは行きにくくなり、結局なし崩しに(日本人の得意なパターン)大阪で首都が営まれていた可能性もあるのではないだろうか。(面白いぞ)

 もしも日本の首都が大阪だったなら。このifは考えれば考えるほど面白い。ただ、大阪が首都でなくてよかったなぁと僕などは思う。当然大阪は1000万人都市となるわけだが、大阪平野はそんなに広くないのである。なので、生駒山は平らになり、六甲山は削られ、奈良はベッドタウンとなる。平城京址がそのまま残されているような贅沢な現在の状況など考えられないのである。宅地になりマンションが建つだろう。また、美味しい泉州の水ナスや聖護院かぶらなど消えているだろう。農地など残す余裕はないのである。関東平野は広いから、練馬大根も生き残れるのだ。そう考えると、東京遷都でよかったのかなと僕などは思う。勝のとっつぁんのおかげで美味い水ナスが食べられるのかもしれない。
 また、よく言われることだが、関西弁が共通語になっていたのではないか、という視点。そないなったらオモロイとワテなんかは思うたりもすんにゃけど、それはあるまい。共通語(標準語)の形成にはもっと様々なことがあって、これだけでひとつ記事を書きたいくらいなので詳述は出来ないが、結局今の言語は文部省が作ったのである。江戸の言葉は参考にはなっているが、造語と言ってもいいのではないだろうか。例えば「おとうさん・おかあさん」なんて言葉は文部省が作ったのである。
 しかしながら、アクセントは関西言葉が採用されていた可能性はある。もしもそうなっていれば、母音の発音が強い、なんとなしにもう少し柔らかい言語世界になっていたのではないかなぁ、と京都人である僕は思うのである。

 ※もちろんみんなお遊びで書いていることであります。ご承知とは思いますが。


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6 コメント

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関西人の血が・・・(笑) (ヒロリン)
2006-06-01 23:08:02
 またまた、騒ぐ話題ですね(笑)。



 もちろん大阪の人間にとって「首都:大阪」は夢なのでしょうが(実質首都でなくても、秀吉の頃は中心であったとはいえ・・・)、明治に大阪遷都~大正~昭和となっていたら、凜太郎さんのいわれるとおり、近隣の歴史的建造物の破壊は進んでいたでしょうね・・・。



 大阪は東京の次の、日本「NO.2」の位置にいて、東京への対抗意識をバネに、成長していくのが、やっぱり一番いいのかな・・・なんて思うんですよね・・・。
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大阪よ永遠なれ (凛太郎)
2006-06-01 23:20:22
ご意見ありがとうございます♪

僕は大阪の人間じゃないので少し斜めから見た印象かもしれませんが、やっぱり首都じゃなくてよかったなぁとも思いますね。首都であるプライドより水ナスの方が重要かと(笑)。



日本のなんでも一拠点化するやりかたに問題があるので(明治政府の極度の中央集権化政策がいかんのだ)、もう少し分散しておけばよかったのに、という怨みはありますが(それでも初期は造幣局とか置いたのに)。それでも、これだけなんでもかんでも東京が奪った状況にありながら、追従せず呑み込まれず独自の文化を築く大阪は立派だと思いますよ。対抗意識なんて必要ないと思いますね。それこそ「オンリーワン」の大阪であって欲しいです♪
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リンクありがとうございますo(^o^)o (jasmintea)
2006-06-04 12:08:19
以前この話を書いた時blogの中では「ニュースが関西弁だったら面白い」って話などで盛り上がりました!

大阪は歴史ある古い街ですよね~。

江戸はやはり最近の町って感じが否めません。



書かれた通り、もし、勝センセーと西郷どんの話し合いが決裂してたら東京遷都はなかったんですよね。

勝のとっちゃん、なかなかやりますよね♪

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関西アクセントは共通語になっていたかも (凛太郎)
2006-06-04 21:23:23
本来であれば、ブログのルールとしてリンク貼ったら当該記事にはTBしなくてはいけないところなのですが…楽天さんなんとかして欲しいですね(汗)。

「標準語が関西弁になったかも」と書き込んだのは僕だったかという記憶がありますが(笑)、ちょっと無責任に書きすぎだったかも。この「標準語(共通語)」の成り立ちには書きたいことが多いのですね。いかにしてこういう言語が出来上がったのか。最近の「日本語の乱れ」として言われている事柄も含め、いろいろ思うことがあります。明治政府が無理やり作った日本語などは歴史も浅く、便利であれば作り変え(ら)れる言語だと思いますし、全然OK(笑)じゃないかと僕などは最近思いますが。

(* ̄m ̄)プッ

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前島 密の糞っ垂れ! (迫田迫兵衛)
2011-12-31 04:37:20
あたいは今さぁー郵便局の駐車場整理のアルバイトをしてんのよだけど、従業員とトラブルを起こしてんのよ!だから、日本郵政の創業者の前島 密が憎いのよ!この糞馬鹿が東京奠都を提言したおかげで俺の人生はどうしようもねぇ糞なのよ!だから、何でネームバリューも遥かに上で明治維新の功労者の大久保利通の大坂遷都の提言が受け入れられなかったのは麿はどうしても許せぬのでおじゃる!
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>迫田迫兵衛さん (凛太郎)
2012-01-05 22:00:23
うーんそう言われましても…(汗)
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