凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも…番外編・天智百済朝と天武新羅朝

2005年05月11日 | 歴史「if」
 前回記事「もしも白村江で日本軍が勝っていたら」の続編。

 さて、日本は運がよかった。
 白村江の敗退という結果、日本は外圧の脅威を肌で感じることとなる。日本が生き残るためにはどうすればいいのか。その結果が「大化の改新」ではないか、と推察される。
 ちょっと待ってくれ、大化の改新は645年の乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)から始まったことであり、翌年に改新の詔が出ている。白村江は663年だ。約20年前の話をするんじゃない、という突っ込みも聞こえてきそうだ。
 書紀は確かにそう言う。しかし実際のところはどうだったのだろう。
 大化の改新は公地公民が目玉なのだが、この白村江をはじめとする朝鮮半島戦役には、国造が派兵を担っているという話がある。部曲かきべ田荘たどころの領有権を持つ国造くにのみやっこが登場するというのは、公地公民の世の中でありおかしい。他にも「評」と「郡」の表記問題などいろいろ問題は指摘されていて、大化の改新はまだまだ浸透していなかったという説が主流である。
 それどころか、改新の詔が実際に出たのは実はこの白村江以降ではないのか、とも僕は考えたりするのである。

 663年の白村江の敗戦の後、すぐに唐からの使者が日本に来ている。使者とはいえ兵力も携えてきており、一種の「脅し」であったかと思われる。もう手を出すなよ、ということか。高句麗と日本が結んだらまた厄介なことになるからだろうか。そして668年、高句麗滅亡。そのあと、唐は同盟国として戦った新羅を併呑しようとする。しかし新羅はこれに反抗し(当然だが)、逆に滅ぼした高句麗の残部隊を応援したりしてかき回し、676年、ついに唐は手を引く。こうして新羅の半島独立支配が成る。もっとも唐の冊封体制に取り込まれはしたが。
 つまり、唐と新羅は戦いで忙しかった。そのため日本に時間が生まれた。
 日本は急いで防御体勢をとる。水城を築き、城を造り烽火を整備し外敵に備えた。むろんそれだけでは足らず、国内が一致団結して外圧と対しないと滅ぼされる、というところにまで追い詰められたと言ってもいい。では、一致団結の方策とは。
 結局これが大化の改新なのだろう。
 確かに統一日本を作ろうという動きは以前よりあったとは思われる。だが日本は大和朝廷の下で決して一枚岩ではなかった。地方に豪族が跋扈し、その連合体の首長或いは盟主、という立場にすぎなかったのではないか。磐井の乱を見てもそのことがわかる。磐井の反乱と言うが、磐井は「筑紫の君」であり、対して「大和の君」として継体が存在したということではないか。
 江戸時代と重ね合わせてみる。あくまで徳川家は日本最大の大名であり、諸大名の盟主という立場でしかなかった。そのため黒船が来て外圧が加わると、挙国一致しないと立ち向かえないような状況となり、大名連合政権である徳川幕府を倒して中央政権政府を建てようとする明治維新が興った。これと状況が酷似、と言えば推測過ぎるけれど、このようにして日本は完全統一され最初の中央集権体制が生まれたのではと考えている。
 新羅が頑張ってくれてよかった、と言える。新羅が唐に併呑されていたら、確実に次は日本だっただろう。

 しかし、ここで一種のねじれ現象が日本にはおきている。それは、中央集権を目指し改新を行おうとする天智政権は、かなりの親百済政権だった可能性が高いと考えている。
 もともと日本には百済系渡来人がかなり入っている。歴史的にも、文化伝来の窓口は百済である場合が多かった。さらに、百済滅亡による亡命者も多く抱え、優秀な人材はどんどん政府に登用され、よって親百済色が強く反映される政権となる。
 あまり話がそれると収拾がつかなくなるので自粛しつつ話を進めるが、僕は天智という人自体が百済系の人物ではなかったかと思っている。乙巳の変の「韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し(古人大兄)」の韓人とは天智のことだ。ある種無謀ともとれる白村江の戦いに挑んだのも、天智が百済系だと考えれば納得がいく。自らのルーツの国を助けに行ったのだ。小林惠子氏のように、天智が百済王子「翹岐」であるという説、また翹岐=豊璋=天智という相当激しい説もあるようで、僕はそこまではとても考えられないが、百済系渡来人であった可能性、或いは百済の血がかなり濃く入った人物という可能性は強いのではないかと考えている。
 キーマンは舒明。僕は「百済大寺」を造営し百済川のほとりに「百済宮」を造りそこで死んだときに「百済の大殯おおもがり」と言われた天智の父「舒明天皇」という人物の出自はもっと考えてられてもいいのではないかと思うが。(九重の塔を誇った百済大寺は天武によって廃され、移転して高市大寺となり後に大官大寺となった。別記事)

 さて、半島では新羅が政権を持っている。高句麗を滅ぼして以降、新羅は唐と対することになる。その際、後ろに百済系政権が控えているとまずい。唐が百済回復を餌にして同盟を結ばないとも限らない。遠交近攻戦術。なので新羅は何度も日本に遣いを出すことになる。新羅は日本が新羅系政権になってくれるのが一番有難い。背後に憂いがなくなる。
 また、国内も百済系政権を望んではいない。ここ近年の百済戦役(白村江の役等)の負担と防衛戦略のための労役負担は民衆を苦しめている。近江遷都も一大事業だった。そして公地公民による中央集権化は豪族から土地を奪う。しかし政府に重用されるのは百済人で、入植地も次々と与えられ免税措置もとられたらしい。不満は鬱積していたと考えられる。

 大海人皇子という人物は、そうした豪族や民衆の不満を解消できる人物として映ったであろうことは想像に難くない。後醍醐政権に対する足利尊氏のように。
 地方豪族の支持が得られるということは、少なくとも百済系政権とは関係ない人物であっただろう。正史では天智天皇と大海人皇子は兄弟とされているが、これは近年疑問が呈されている。天智は大海人に兄弟なのに4人の娘を嫁がせている等の不自然さが挙げられているが、僕はそれより、大海人が正史に出てくるのは成年となってから、という点に不思議さを覚える。
 国際状況から察するに、大海人は新羅に近い人物であった可能性は高いと思う。まさか新羅渡来人とまでは考えていないが、渡来人でなくても親新羅系の人物であっただろう。唐と新羅が対峙する中、百済系政権を廃し新羅の背後を衝く心配を無くそうとしたのだから。

 当時の現状では、統一新羅との関係から政権は新羅色を濃く打ち出すべきだった。それは実は唐との関係にも繋がる。新羅は唐との同盟時代に思い切って唐化政策を打ち出し、政治体制から風俗まで唐にならった。つまり、新羅化=唐化であったと言える。そして唐から自己を守るためには、日本は朝貢国として唐風にせざるを得なかった事情もある。国際情勢から親百済政権は合致しなくなっていたのだ。早く唐の律令制を倣った国家建設が必要だった。そのためには天智百済政権では苦しい。百済系政権の継続では唐、そして新羅と良好な関係を築くのは難しい。
 また、それに加えて百済系政権に対する地方豪族の鬱積した不満、疲弊した民衆の声、そのようなものを一身に受けて大海人皇子は打倒近江政権(百済系政権)の旗揚げをした、それが「壬申の乱」の実情ではなかったか、と推測している。

 その結果、百済系政権は一旦潰える。百済渡来人の新政権での立場は微妙なものとなる。即位して天武となった大海人は、自分の身内で政権を固め、唐、そして新羅から吸収した律令制国家確立に向けて動き出す。新羅との関係も当然良好なものとなっただろう。壬申の乱は国際情勢の必然だったとも言えるか。
 この親新羅系政権は一応約100年、称徳天皇まで続く(一応、とは含みがあるが)。そして天武系の血が途絶え、天智系の白壁王が即位して光仁天皇となる。その結果、白村江以来続いた遣新羅使は中止され、新羅との国交が断絶される。これは天武系=新羅系であった証拠ではないか。そして光仁後、百済人の高野新笠を母とする桓武天皇が即位し、都も移されることとなる。これは先の話だが。

 外圧がもしもなかったら。日本の統一政権、中央集権化はもっと遅れていた可能性がある。だが侵略されることもなく済んだのは実に幸運だった。防波堤となった新羅は冊封体制に組み込まれたが、日本は朝貢国でおさまっている。もしも新羅が唐に併呑されていたら、日本も同様に併呑、或いは冊封体制に組み込まれ日本国王は唐から冠位をもらうという状況になり、天皇という存在も危うかった。
 日本はこの後国力を蓄え、遣唐使を派遣し文化は唐からめいいっぱい吸収して発展していく。そして、後に遣唐使さえ廃止する。
 しかし、今も昔も外圧がないと飛躍しないのは同じ。1200年後の明治維新と状況が酷似しているのには実に驚く。これは島国である日本のある意味特性なのかもしれない。


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5 コメント

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こんにちは (jasmintea)
2005-05-13 13:20:07
おっと、お昼休み(今日は遅れてとったので20分までなんです)に書き終わるか不安ながら足跡残していきます。

先日は中途半端になってしまいましたが、その本のことと凛太郎さんのおっしゃる半島事情をリンクさせて考えたたら持統は百済派だったのかな?と。

不比等を重用したのも親百済の要素から?って気がして。

そう考えると日本書紀にも夫天武より父天智の方が良く書いてあるのも合点がいく…。

以前から持統が不比等を重用してたのが謎だったのですが凛太郎さんのおっしゃる半島事情をまっさきに考えると納得するんですよね。

きっと彼女は蘇我の血を残したかったんじゃなくて天武系皇子に皇位を継がれるのがイヤだったんでは?と勝手に考えてます。



おっと、時計で測ったように20分ですね!

それでは午後も頑張りまーす

返信する
>jasminteaさん   (凛太郎)
2005-05-13 23:08:26
忙しいのにわざわざありがとうございます。m(_ _;)m



僕はまだ知識的に浅薄で自分の考えがまとまっていないところもあるのですが…。

持統天皇という人は、かなりバランス感覚が鋭い政治家であったのかもしれないと思っています。頼朝の後を継いだ政子に比してもいいかもしれません。

政権は、親新羅、親唐でないとこの時代はやっていけなかっただろうと思っています。しかし自分が天智の血を引いているということは忘れてはいない。だが日本の為に公私混同はしない、という立場だったのではないかと。

書紀で、蘇我氏を悪く書き、天智と藤原氏を悪く書かないのは天武政権の初期の方針とはどうしても合わないのです。天武が歴史書を書かせるなら天智は極悪人に書かれてもいい。武烈天皇のように。政権交代は明らかにあったのですから、天智が罪も無い入鹿を誅し悪政の限りを尽くしたと思わせるように書けば天武の正当性は高まるのです。しかしそうは書いていない。そこには持統の考えがあったと思います。不比等の登用も然り。

他にもいろいろ考えるところはありますが、まだ考えがまとまっていないところも多く、ちゃんと理論だてて書けません(汗)。



天武は何物か? ということは僕の中ではまだ結論が出ていないのです。蘇我氏→聖徳太子→山背大兄の系列か、それとも欽明→舒明→天智の百済か、或いはそれ以外か。新羅人とまではなかなか考えづらいのですがねぇ。

いつかまたボチボチと書ける機会を見つけて書こうかなと思いますが。

jasminteaさんの今後の説は楽しみにしています。

返信する
こんにちは (Mami)
2005-05-17 12:19:18
先日は暖かいコメントをありがとうございました。

あのお言葉を励みにしていきますので、

これからもどうぞ宜しくお願いいたします。



そしてそして、凛太郎さんて本当によく勉強されていらっしゃるのですね。

そんじゅうそこらにある文献より、こちらの方がよっぽどタメになります。



文章も上手だし、本を出されてはいかがですか? 真っ先に買っちゃいますよ。
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レス遅くなりました m(_ _;)m (凛太郎)
2005-05-20 23:00:08
いやぁこちらこそこれからもどうぞ宜しくです。(*- -)(*_ _)ペコリ



なんか過分なお褒めの言葉を頂いて誠に恐縮です(汗)。勉強なんぞ特にしておりませんで、これは趣味なので楽しんで書いているだけなのです。どちらかと言えば狭い範囲の知識しかありませんので、矛盾点なんかがあっても自分では気がついていないことがあったりしますから、またご指摘の程を。^^;



Mamiさんのようなわかりやすい文章が僕にも書ければいいんですけどねぇ。僕の文章の欠点は「長い」「クドい」でありまして(汗)、自分でもわかっているのですが修正出来ません。ましてや「本」などトンでもない事で(笑)。

でも、自分が書いた本なんか出来たら嬉しいだろうなぁ。←すぐ妄想が膨らむバカ(汗)
返信する
Unknown (Ken)
2019-10-23 20:58:10
貴兄の推論に全面的に賛成します。「新羅系」の正統が絶えたから百済系の母を持つ桓武天皇を持ってきたという流れは、かなり説得力を与えます。
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