松山千春の「オホーツクの海」を最初に聴いたのはいつだったか。細かなことまでは記憶にないがラジオであることは間違いなく(チー様は昔TVには出なかった)、それがオールナイトニッポンだったかまでは定かではないが多分そうだったと思う。エアチェックのテープが残っているが、明らかにFMではなくAMのモノラル音だ。中学1~2年の頃だな。
LPは買っていない。松山千春は妹の担当だったから。でも、彼女が揃え始めたのが多分「起承転結II」くらいからで、そこから遡ったはずだから、僕としてはしばらくの間はエアチェックに完全に頼っていたのではなかったかなぁ。
オールナイトニッポンは月曜一部昇格時から京都でネットされるようになり、眠い目をこすりながら聴いた。チー様にはもうひとつ番組があったような気がするが(FMだったか…「空を飛ぶ鳥のように~」がタイトルバックだったような気が)、忘却の彼方だ。どこでも「よろしく哀愁!」だったのは間違いないが。
このとき、まだ僕は北海道を知らない。なので僕の知るオホーツク海は、多くはメディアからの由来である。
北海道の海の印象として、小さな頃に刷り込まれてしまった歌がある。それは北島三郎御大の「寒流」という歌で、紅白歌合戦で聴いた。「涙さえ凍る」「アザラシの群れが啼いて暮れる」というものすごく寒さを感じさせる歌で、北海道の海なんてのはとにかく寒く厳しく凍えて耐える世界である、というイメージが僕の中で出来上がった。おそらく僕がまだ10歳にならぬ頃であり、そのイメージは中学生となっても僕を支配していたように思う。そんなときに、松山千春の「オホーツクの海」がポンと僕の中に入ってきた。
静かな そして静かな オホーツクの海よ
なんと北海道の海はのどかなんだ。そう思った。
そう思うのもむべなるかな、である。素朴すぎるほど素朴なうた。衒いも何もない。
これは、デビューアルバムである「君のために作った歌」の中の1曲なのだが、このアルバム自体が、何ともシンプルでストレート。それはそうだろう。松山千春21歳のアルバムであり、北海道で純粋培養された才能をそのまま表現すれば充分に事足りた頃のはず。小細工など必要なし。松山千春の代名詞とも言える「大空と大地の中で」も入っているが、このようなうたは、齢を重ね透明感を失ってしまっては作れないうたではないかと思う。
デビューシングルの「旅立ち」、2nd「かざぐるま」、他にも名曲誉れ高い「銀の雨」など、いかにもフォークらしい(「かざぐるま」って小椋佳っぽいよね)曲もしっかりと収められているものの、「大空と~」に代表されるような、のびやかで広がりのあるうたも多い。「この道より道廻り道」「ためらい」「今日限り」そして「足寄より」、表題の「君のために作った歌」。
その中でも「オホーツクの海」は、いかにも素直だ。唱歌か、と言われればそうかもしれないとも思う。あのさぁあ、うたなんてさ、こねくりまわさないほうがいいのさ、なんて声が聞こえてきそうである。
そして、寒くない。
季節を明言しているわけではないが、オホーツクなんて春も秋も寒いだろう。なんせ流氷が接岸する海だ。そんな「涙さえ凍る」と言われた、厳しく荒涼とした印象を持っていたオホーツク海にも、花は咲く。そんな光景が見えるようなうた。
松山千春にはもちろん、北や冬を季語にしている歌がいくつもある。そりゃ北海道のひとだもの当然なのだが、そういう歌に、僕はあまり寒さを感じないのだ。最初は、それが不思議だった。
そのものズバリの「寒い夜」という歌がある。叶わぬ夢。想い伝わらぬ女に惚れて、ひとりきり。そして「黙り込めば心の底までしばれるような寒い冬」。最後は絶唱だ。辛いよね。でも、不思議と「寒い夜」の、その寒さが強く伝わってこない。これは想像だけれども、どこかに、暖炉の火があるんだ。そんな部屋の中で、俺の辛い話を聞いてくれている人がいる。だから、心が最後まで凍えてゆくことはない。
この人のうたは、そうなんだ。そんなことに、徐々に気がついてきた。
「北風の中」という歌がある。彼女と自分との意思の疎通がうまくいっていない歌。そしてタイトルどおり北風が吹いている。いかにも寒そうな歌なのだが、この歌、ちっとも寒くない。北風なんてただの比喩だぞ。この二人、別れなどするものか。
タイトルだけだと寒く感じる歌も、やさしいやわらかなメロディーとあわせて、なんとなく温かみのあるうたにしてしまう。「雪」とか「冬の星座」とか、最近では「白い雪」とか。
「雪化粧」という歌がある。この歌の出だしはマイナーキーで、冷静に聴けば結構寒い。けれども、凍えることはない。何ゆえ徹底的な寒さではないんだろうか。もうよくわからない。「冬の嵐」にも同様の印象を持つ。
もしかしたら、松山千春の歌声そのものが、温かいのかもしれない。そんなことまで最後には考えてしまう。たとえばこの歌をさだまさしが歌ったらどうだろうか。結構寒いのではないだろうか(まっさんに温かみがない、という話じゃないですよ分かってると思うけど)。
松山千春は春だろうが冬だろうが、朗々と歌う。
北海道は、寒いのが当たり前。冬は、晴れないのが日常。昔、よく泊まった北海道の民宿の親父がそう言っていた。寒いに決まってんだよ。だから、そんなこといちいち考えてられないの、と。
寒ければ、さむくないふうにすればいいだけのことじゃないか。こごえた両手に息を吹きかけて、しばれたからだをあたためて。そしてうたは、慈愛をこめて歌えばいい。風は冷たくとも、心さえあたたかければ。
そういう強い心で、うたったきた人なのだろう。
オホーツク海を最初に見たのは、21歳の夏だった(うは、チー様デビューと同じ年だな)。
初めての北海道ではない。19歳のときにすでに来ている。けれども、その時はオホーツク海をちゃんと見ていない。自転車の旅だったため、アプローチに時間がかかりすぎ、最北端宗谷岬に到達したところでUターンをせざるをえなかった。日本海沿いに帰った。
2年後にまた北海道にやってきた。今度は、フェリーで上陸したので時間もある。北上して稚内まで3日で到達した。利尻・礼文島を堪能したあと、僕は宗谷岬へと向かった。
宗谷岬にはダカーポの歌がエンドレスに流れている。このうたもまた、寒さを感じさせない。そのことが逆に、北海道に居ることを感じさせてくれた。北の果てだから寒い歌を、というのは、本州以南の発想なのだ。そして、宗谷岬を東へと回り込んだ。まだ見ぬ風景に思いを馳せながら。ここから先は、オホーツク海沿岸となる。
オホーツクは、晴れていた。
九月。季節は秋を迎えていた。海際には、木々が生えているわけではない。風が強いからだろう。無骨な海岸。けれども、植物がいないわけじゃない。ハマナスがあちこちに茂り、プチトマトのような実が生っていた。そして、リンドウやナデシコといった秋の紫色の花がささやかに咲いている。一見荒涼としながらも、力強い生の息吹はある。そして何より、広い。どこまでも広がっている。
僕は、この風景が好きになった。
静かに沈む夕日 オホーツクの海に 風は波をさそい 夕日におどるよ
実は、オホーツクに夕日はなかなか沈んでくれない。それは、地図を思い浮かべればわかるとおり、オホーツクの海は北東に位置するからである。浜頓別からは、クッチャロ湖の夕日。そして常呂栄浦からのサロマ湖への夕日。それ以外は、だいたい山へ沈んでしまう。
オホーツクへ沈む夕日が見られるのは、知床である。それ以外は、僕が知る限りではわずかに網走の能取岬しかない。あるいは、常呂東浜の漁港でも見られるだろうか。そこまではわからない。
ただ、能取岬というところは絶景の場所であり(ホントいいところ)流氷のビューポイントとしても高名だが、断崖絶壁であり「はるかな小舟に手を振れば」というのどやかな感じではないような気がする。私見だけれども「オホーツクの海」の舞台は知床に特定してもいいように思われる。
その、初めてオホーツクの海を見た旅では、沈み行く夕日までは見ることが叶わなかった。知床では、岩尾別というウトロよりまだ先にある場所の宿にいたのだが、そこは山中である。海に沈む夕日を見るには、岩尾別川を下ったところにあるサケマス孵化場から見るのが最も良いのだが、その年は熊が出没していて出入り禁止になっていた。
翌冬にも知床へ行ったが、あいにく晴れる日はなかった。以後も頻繁に北海道には訪れていたものの、オホーツクの夕日とは縁がなかった。
オホーツクに沈む夕日を初めて見たのは、それから7年も経ってからのことだった。
その年の夏、僕は知床国設野営場の一角にテントを張った。ウトロの町から少し高台に上がった丘陵地にある。キャンプ地は林の中だが、その海際にその名も「夕陽台」という展望台がしつらえてある。真下にはウトロの町、そして港とオロンコ岩。その向うにオホーツク海が広がっている。
黄昏時が近づくと、その展望台は人でいっぱいになった。快晴とはいかない空模様だったのだが、西には雲もなく、沈む夕日はしっかりとオホーツク海を朱に染めた。
海はきわめて静か。波打ち際から見たわけではなく、その部分情緒に欠けたきらいはあったが、夕日は十二分に美しく、堪能した。
その年は、いいことばかりじゃなかった。疲れていた。休暇で北海道に逃げ出しては来たものの、なかなか気分が晴れなかった。けれども、この夕日で何かひとつ昇華したような感じもした。
「こけたら立ち上がればいいんだから」
その言葉が、なんだか沁みた。
松山千春は、オールナイトの最終回で我々リスナーに向かってそう言ってくれた。ただ録音もせず記憶なので、正確な言葉がそうだったかは自信が無い。その最終回も、月曜一部のラストだったか、火曜のラストだったかの記憶も茫洋としている。
番組の最後に、松山千春は訥々と我々に話をした。後ろにかかっていた曲は「大空と大地の中で」だったか「生きがい」だったか。午前三時前だから、僕も朦朧としていた。ただ、千春が我々に送ったそのエールだけは、強く心に残っている。
そうなんだよ。転んだら立ち直ればいいだけ。こんな単純なことに何故いつも気がつかないでいるんだろう。
そうして、以来ことあるごとにこの言葉を思い出す。こけたら立ち上がればいいんだよ。
その旅では、知床のあとに足寄町にも立ち寄った。かつて自治体として日本最大の面積を誇り、高山市や静岡市が合併によって巨大化してもまだ日本一大きな「町」は譲っていない足寄町。
その広大な町域には、北海道三大秘湖のひとつである「オンネトー」をはじめ、自然豊かな風景を抱えるが、足寄の町にはとりたてての観光スポットはなく、人はみな「松山千春生誕地」として捉えている。似顔絵を大きく掲げた生家が今も建つ。記念撮影をする人でごったがえしている。ここで「野に育つ花ならば力の限り生きてやれ」とデビュー以来繰り返し続ける松山千春は生まれた。
北海道を愛した人なのだなと改めて思う。人生きれい事だけではすまないけれども、吹きすさぶ風も積もる雪も押し寄せる流氷も、みなあたりまえのように受け止めないと生きていくことが困難な地にあって、その大地にやさしさもあたたかさも見出していた。
はるかな汐さい 耳にすれば 忘れた何かを 思い出す
静かな そして静かな オホーツクの海よ
その旅では鬱屈した心も晴れ、莞爾として住む町に帰った。
こけても立ち上がれるかどうか最近は不安に思うことも多くなったが、力の限りやれば何とかなるような気もしている。チー様の効能は、まだ続いていると思いたい。
LPは買っていない。松山千春は妹の担当だったから。でも、彼女が揃え始めたのが多分「起承転結II」くらいからで、そこから遡ったはずだから、僕としてはしばらくの間はエアチェックに完全に頼っていたのではなかったかなぁ。
オールナイトニッポンは月曜一部昇格時から京都でネットされるようになり、眠い目をこすりながら聴いた。チー様にはもうひとつ番組があったような気がするが(FMだったか…「空を飛ぶ鳥のように~」がタイトルバックだったような気が)、忘却の彼方だ。どこでも「よろしく哀愁!」だったのは間違いないが。
このとき、まだ僕は北海道を知らない。なので僕の知るオホーツク海は、多くはメディアからの由来である。
北海道の海の印象として、小さな頃に刷り込まれてしまった歌がある。それは北島三郎御大の「寒流」という歌で、紅白歌合戦で聴いた。「涙さえ凍る」「アザラシの群れが啼いて暮れる」というものすごく寒さを感じさせる歌で、北海道の海なんてのはとにかく寒く厳しく凍えて耐える世界である、というイメージが僕の中で出来上がった。おそらく僕がまだ10歳にならぬ頃であり、そのイメージは中学生となっても僕を支配していたように思う。そんなときに、松山千春の「オホーツクの海」がポンと僕の中に入ってきた。
静かな そして静かな オホーツクの海よ
なんと北海道の海はのどかなんだ。そう思った。
そう思うのもむべなるかな、である。素朴すぎるほど素朴なうた。衒いも何もない。
これは、デビューアルバムである「君のために作った歌」の中の1曲なのだが、このアルバム自体が、何ともシンプルでストレート。それはそうだろう。松山千春21歳のアルバムであり、北海道で純粋培養された才能をそのまま表現すれば充分に事足りた頃のはず。小細工など必要なし。松山千春の代名詞とも言える「大空と大地の中で」も入っているが、このようなうたは、齢を重ね透明感を失ってしまっては作れないうたではないかと思う。
デビューシングルの「旅立ち」、2nd「かざぐるま」、他にも名曲誉れ高い「銀の雨」など、いかにもフォークらしい(「かざぐるま」って小椋佳っぽいよね)曲もしっかりと収められているものの、「大空と~」に代表されるような、のびやかで広がりのあるうたも多い。「この道より道廻り道」「ためらい」「今日限り」そして「足寄より」、表題の「君のために作った歌」。
その中でも「オホーツクの海」は、いかにも素直だ。唱歌か、と言われればそうかもしれないとも思う。あのさぁあ、うたなんてさ、こねくりまわさないほうがいいのさ、なんて声が聞こえてきそうである。
そして、寒くない。
季節を明言しているわけではないが、オホーツクなんて春も秋も寒いだろう。なんせ流氷が接岸する海だ。そんな「涙さえ凍る」と言われた、厳しく荒涼とした印象を持っていたオホーツク海にも、花は咲く。そんな光景が見えるようなうた。
松山千春にはもちろん、北や冬を季語にしている歌がいくつもある。そりゃ北海道のひとだもの当然なのだが、そういう歌に、僕はあまり寒さを感じないのだ。最初は、それが不思議だった。
そのものズバリの「寒い夜」という歌がある。叶わぬ夢。想い伝わらぬ女に惚れて、ひとりきり。そして「黙り込めば心の底までしばれるような寒い冬」。最後は絶唱だ。辛いよね。でも、不思議と「寒い夜」の、その寒さが強く伝わってこない。これは想像だけれども、どこかに、暖炉の火があるんだ。そんな部屋の中で、俺の辛い話を聞いてくれている人がいる。だから、心が最後まで凍えてゆくことはない。
この人のうたは、そうなんだ。そんなことに、徐々に気がついてきた。
「北風の中」という歌がある。彼女と自分との意思の疎通がうまくいっていない歌。そしてタイトルどおり北風が吹いている。いかにも寒そうな歌なのだが、この歌、ちっとも寒くない。北風なんてただの比喩だぞ。この二人、別れなどするものか。
タイトルだけだと寒く感じる歌も、やさしいやわらかなメロディーとあわせて、なんとなく温かみのあるうたにしてしまう。「雪」とか「冬の星座」とか、最近では「白い雪」とか。
「雪化粧」という歌がある。この歌の出だしはマイナーキーで、冷静に聴けば結構寒い。けれども、凍えることはない。何ゆえ徹底的な寒さではないんだろうか。もうよくわからない。「冬の嵐」にも同様の印象を持つ。
もしかしたら、松山千春の歌声そのものが、温かいのかもしれない。そんなことまで最後には考えてしまう。たとえばこの歌をさだまさしが歌ったらどうだろうか。結構寒いのではないだろうか(まっさんに温かみがない、という話じゃないですよ分かってると思うけど)。
松山千春は春だろうが冬だろうが、朗々と歌う。
北海道は、寒いのが当たり前。冬は、晴れないのが日常。昔、よく泊まった北海道の民宿の親父がそう言っていた。寒いに決まってんだよ。だから、そんなこといちいち考えてられないの、と。
寒ければ、さむくないふうにすればいいだけのことじゃないか。こごえた両手に息を吹きかけて、しばれたからだをあたためて。そしてうたは、慈愛をこめて歌えばいい。風は冷たくとも、心さえあたたかければ。
そういう強い心で、うたったきた人なのだろう。
オホーツク海を最初に見たのは、21歳の夏だった(うは、チー様デビューと同じ年だな)。
初めての北海道ではない。19歳のときにすでに来ている。けれども、その時はオホーツク海をちゃんと見ていない。自転車の旅だったため、アプローチに時間がかかりすぎ、最北端宗谷岬に到達したところでUターンをせざるをえなかった。日本海沿いに帰った。
2年後にまた北海道にやってきた。今度は、フェリーで上陸したので時間もある。北上して稚内まで3日で到達した。利尻・礼文島を堪能したあと、僕は宗谷岬へと向かった。
宗谷岬にはダカーポの歌がエンドレスに流れている。このうたもまた、寒さを感じさせない。そのことが逆に、北海道に居ることを感じさせてくれた。北の果てだから寒い歌を、というのは、本州以南の発想なのだ。そして、宗谷岬を東へと回り込んだ。まだ見ぬ風景に思いを馳せながら。ここから先は、オホーツク海沿岸となる。
オホーツクは、晴れていた。
九月。季節は秋を迎えていた。海際には、木々が生えているわけではない。風が強いからだろう。無骨な海岸。けれども、植物がいないわけじゃない。ハマナスがあちこちに茂り、プチトマトのような実が生っていた。そして、リンドウやナデシコといった秋の紫色の花がささやかに咲いている。一見荒涼としながらも、力強い生の息吹はある。そして何より、広い。どこまでも広がっている。
僕は、この風景が好きになった。
静かに沈む夕日 オホーツクの海に 風は波をさそい 夕日におどるよ
実は、オホーツクに夕日はなかなか沈んでくれない。それは、地図を思い浮かべればわかるとおり、オホーツクの海は北東に位置するからである。浜頓別からは、クッチャロ湖の夕日。そして常呂栄浦からのサロマ湖への夕日。それ以外は、だいたい山へ沈んでしまう。
オホーツクへ沈む夕日が見られるのは、知床である。それ以外は、僕が知る限りではわずかに網走の能取岬しかない。あるいは、常呂東浜の漁港でも見られるだろうか。そこまではわからない。
ただ、能取岬というところは絶景の場所であり(ホントいいところ)流氷のビューポイントとしても高名だが、断崖絶壁であり「はるかな小舟に手を振れば」というのどやかな感じではないような気がする。私見だけれども「オホーツクの海」の舞台は知床に特定してもいいように思われる。
その、初めてオホーツクの海を見た旅では、沈み行く夕日までは見ることが叶わなかった。知床では、岩尾別というウトロよりまだ先にある場所の宿にいたのだが、そこは山中である。海に沈む夕日を見るには、岩尾別川を下ったところにあるサケマス孵化場から見るのが最も良いのだが、その年は熊が出没していて出入り禁止になっていた。
翌冬にも知床へ行ったが、あいにく晴れる日はなかった。以後も頻繁に北海道には訪れていたものの、オホーツクの夕日とは縁がなかった。
オホーツクに沈む夕日を初めて見たのは、それから7年も経ってからのことだった。
その年の夏、僕は知床国設野営場の一角にテントを張った。ウトロの町から少し高台に上がった丘陵地にある。キャンプ地は林の中だが、その海際にその名も「夕陽台」という展望台がしつらえてある。真下にはウトロの町、そして港とオロンコ岩。その向うにオホーツク海が広がっている。
黄昏時が近づくと、その展望台は人でいっぱいになった。快晴とはいかない空模様だったのだが、西には雲もなく、沈む夕日はしっかりとオホーツク海を朱に染めた。
海はきわめて静か。波打ち際から見たわけではなく、その部分情緒に欠けたきらいはあったが、夕日は十二分に美しく、堪能した。
その年は、いいことばかりじゃなかった。疲れていた。休暇で北海道に逃げ出しては来たものの、なかなか気分が晴れなかった。けれども、この夕日で何かひとつ昇華したような感じもした。
「こけたら立ち上がればいいんだから」
その言葉が、なんだか沁みた。
松山千春は、オールナイトの最終回で我々リスナーに向かってそう言ってくれた。ただ録音もせず記憶なので、正確な言葉がそうだったかは自信が無い。その最終回も、月曜一部のラストだったか、火曜のラストだったかの記憶も茫洋としている。
番組の最後に、松山千春は訥々と我々に話をした。後ろにかかっていた曲は「大空と大地の中で」だったか「生きがい」だったか。午前三時前だから、僕も朦朧としていた。ただ、千春が我々に送ったそのエールだけは、強く心に残っている。
そうなんだよ。転んだら立ち直ればいいだけ。こんな単純なことに何故いつも気がつかないでいるんだろう。
そうして、以来ことあるごとにこの言葉を思い出す。こけたら立ち上がればいいんだよ。
その旅では、知床のあとに足寄町にも立ち寄った。かつて自治体として日本最大の面積を誇り、高山市や静岡市が合併によって巨大化してもまだ日本一大きな「町」は譲っていない足寄町。
その広大な町域には、北海道三大秘湖のひとつである「オンネトー」をはじめ、自然豊かな風景を抱えるが、足寄の町にはとりたてての観光スポットはなく、人はみな「松山千春生誕地」として捉えている。似顔絵を大きく掲げた生家が今も建つ。記念撮影をする人でごったがえしている。ここで「野に育つ花ならば力の限り生きてやれ」とデビュー以来繰り返し続ける松山千春は生まれた。
北海道を愛した人なのだなと改めて思う。人生きれい事だけではすまないけれども、吹きすさぶ風も積もる雪も押し寄せる流氷も、みなあたりまえのように受け止めないと生きていくことが困難な地にあって、その大地にやさしさもあたたかさも見出していた。
はるかな汐さい 耳にすれば 忘れた何かを 思い出す
静かな そして静かな オホーツクの海よ
その旅では鬱屈した心も晴れ、莞爾として住む町に帰った。
こけても立ち上がれるかどうか最近は不安に思うことも多くなったが、力の限りやれば何とかなるような気もしている。チー様の効能は、まだ続いていると思いたい。
北海道…
46年生きてきて、未だ未踏の地。
それも手伝ってか、憧れの地のまま、私の中にあります。
私とチー様との出会いは、なんと、チー様がデビューされてすぐの、小学5年の冬(ほとんど春に近かった記憶)。
いつも一緒に歌っていた、相方Y恵の年の離れたお姉ちゃんが、デビューシングル「旅立ち」を持っていたからでした。
女か男か、最初、迷った。あまりに高い声で。
いっぺんに好きになったけれど、私も、アルバムを買うお金などあるはずもなく、これまた、中学に入ってから、私が片想いしてた人の年の離れたお姉ちゃんのアルバムを録音してもらって、二重の喜びだったのを思い出します。
私は、ファースト・アルバムでは「今日限り」が、そして、それ以降では、「寒い夜」「こんな夜は」「雪化粧」「生きがい」「白い花」「ひとりじめ」「残照」「炎」「この部屋」…もう、キリがない(^_^;)
そんなに好きな曲でもなかったけれど、思い出の曲は「窓」。
これについては、長くなるのでまた今度、聞いて下さい…(笑)。
一時、チー様のシンプルさから離れた時期があった私ですが、最近、また回帰しています。
「青春時代」の歌なんだけど、
「中高年になった現在」の歌になろうとしているものもある…。
それにしてもよぴちさん早いな~。ほとんどデビューと同時ですね。つーか、Y恵ちゃんのお姉ちゃんが早い(笑)。僕は、6年になってからだったような。オールナイト始まる時にはもう知ってたから、秋よりは早い、くらいです。でも、デビューから聴いてるみたいなことを前に書いたことがありましたね。すみません。
あの頃は、音源を手に入れるのが大変だったんですよね。中学くらいまでは、バイトも出来ませんし。
エアチェックが最も多い方法。でもそれだけじゃアルバムのB面2曲目なんて絶対に聴けない。やはり、裕福で音楽好きの友人をどれだけ持つか(笑)。小遣いをいっぱい持ってる子と友達になって弁舌で(当時から口は達者だった)フォーク好きにさせて、LP買わせて借りる。腹黒いガキだったなと反省(笑)。
チー様は、「生きがい」で書くかどっちか迷ったんです。「生きがい」だとまた方向性の違って、どちらかと言えば女々しい話になるので止めたんですが(汗)。
「窓」はまた書かれる事を期待して…(^^)
いろいろな誘惑が 多くて 怠け心が邪魔をする。できれば 強い正義の男になって
計画があっても 付き合いの誘いが 断れなかったり~愚痴は みっともないですね。我が人生。我が人生に悔いはなし。
音楽同好会(名前検討中 松山千春 この道 寄り道 廻り道
まっすぐに生きるのは難しいことです。僕もそれは痛感しています。なぜ難しいのかは、いろいろ要因があるのですが。せめて、まっすぐに生きることを邪魔する要因の中で、自分由来のものくらいは排除していきたいですよね。
私が 中2の頃 聞いていたかなぁ。若さのあせりと不安の中で この曲は 癒し系だったかなぁ。ラーラーラー。音楽同好会(名前検討中松山千春を語る会 生きがい
「生きがい」も朗々としていていいですよね。本当に細かなことはどうでもいいんだという思いにさせてくれます。僕も、この街で生きてゆこうと。