凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも北条泰家が執権を継いでいたら

2005年04月22日 | 歴史「if」
 鎌倉幕府は何故滅びたのか。
 それは、突き詰めていったら元寇が原因と言う他は無い。

 直接の原因は後醍醐天皇の蜂起ではあるが、結局幕府を滅ぼしたのは足利尊氏ら幕府側の有力者の反乱である。では何故御家人や有力豪族が幕府に不満を抱き寝返ったのかと言うと、北条氏の力が強くなりすぎたことが原因なのではないか。
 「得宗体制」というものがある。北条家一門が幕政を完全に取り仕切る体制のこと、と極端に言ってしまってもいいだろう。もともと鎌倉幕府は源氏滅亡のあとは「有力御家人連合」で運営されており、北条氏はその議長という立場だった。しかし、北条氏はライバルの有力御家人を次々に粛清し、そして時頼が三浦一族を滅ぼした後は完全に他氏を圧倒し、北条氏は執権という立場を超えて一族支配を始める。これが「得宗体制」。北条泰時以降その嫡流が権力を持ち、執権は他の北条一族のものに譲っても嫡流がその幕政の実権は握り続ける。藤原氏が関白をたらいまわしにしても「氏の長者」が荘園を握って実力を持ち続けたのと似ている。家督を継いだものがえらいのだ。政治のやり方は「院政」に似ているかもしれない。こうなると執権は飾り物であってもよいということになる。

 その得宗体制が強固になりだした時宗の時代、元が攻めてくる。
 なんとかに二度の元寇は乗り切ったものの、いつまた元は攻めてくるかわからない。従って戦時体制は続く。北条氏に権力が集中せざるを得なくなる。外冦対策に九州にも北条氏の力が入らざるを得ない。どんどん日本は北条氏直轄となってくる。元寇の後、逆に北条氏の権力は頂点に達したのだ。
 ところが御家人は、元寇の恩賞ももらえない。また総領相続が確立していなかったこの時代、子供にそれぞれ土地を分割して与えると、家は増えても個々の力は弱まる。御家人は借金までするようになり、幕府がそれを助けようとして借金棒引きの徳政令を出してもそれは一時しのぎでその後逆に金貸しは御家人を助けなくなり、どんどん窮乏していく。これでは不満が鬱積するのは当然だ。
 この悪循環は生半可では止めようがない。また北条貞時の時代、霜月騒動によって内管領平頼綱が実権を握る。この人はつまり北条家の番頭と言えばいいのだろうか。「執権の執権」みたいなものとも言える。得宗体制によって北条家の権力が上がると、家の執事が政治をやるようになってしまうのだ。しかし対外的には「北条家の権力」で頼綱が政治をするわけで、北条家の力はますます強くなる格好となる。対して御家人やその他の人々にどんどん不満が溜まっていく。それが元寇からの歴史の流れだ。
 そして最後の得宗、北条高時の登場となる。

 滅亡時の責任者はとにかく「愚鈍」とか言われてしまう。平宗盛、藤原泰衡、みんなそうだ。しかし考えてもみてくださいよ。高時が家督を継いだのは9歳の時、執権となったのは14歳である。北条家の番頭である内管領長崎円喜、長崎高資が完全に実権を握っている。下手に逆らうと廃されてしまう状況で、田楽や闘犬に明け暮れるしかないではないか。僕は徳川幕府に対し暗愚を装って鼻毛を伸ばした前田利常を思い出すのである。
 その高時がとうとう内管領長崎氏に逆らったときがある。高時が病気になり出家して執権を降りる際、弟の北条泰家を次期執権にしようとした。しかし、長崎高資は北条(金沢)貞顕を次期執権とした。北条泰家と長崎高資は折り合いが悪かったとも言われる。
 北条泰家は血の気が多い性格だったようで、怒って出家してしまう。そして長崎高資の下、貞顕が執権となる。しかし病気の癒えた高時も怒り、泰家もまだ怒り冷めやらず、鎌倉には貞顕追討の噂が流れ、貞顕は恐怖で直ぐに執権を退いた。
 ここで泰家が執権になれればよかったのだが、直情型の泰家は既に出家していて、そのことが要因で資格を失ったと言われる。もったいないことである。執権は一門の北条(赤橋)守時が継ぐ。守時は人物であったが、執権職は残念ながら長崎高資の傀儡である。
 長崎高資は視野の狭い男であったと思われる。奥州津軽の安東氏の同族争いの申し立てについて、高資は双方から賄賂をとって事を収めようとしたという。結果津軽で合戦が起こり、その平定にも時間がかかった。権力志向だが政治力はあまり無かったと言えば言い過ぎかもしれないが。

 この「if」は針の穴ほどの可能性しかない。元寇から始まった北条の権力一極集中、そして不満の鬱積による倒幕は避けようがないと思えるからだ。しかし泰家が執権を継いでいたら、もう少し違う展開になったのではないかとどうしても思ってしまう。内管領政治から北条親政への転換だ。
 有力御家人の不満鬱積は極限にまで高まっているが、まだ幕政は破綻していない。しかしこの内管領と北条との不協和音が後醍醐天皇を動かした一因であることは間違いない。幕府の中枢が揺らいでいる今こそ倒幕だ、と。
 しかし最初の「正中の変」は失敗しているのだ。ここまでは「承久の乱」と同じである。しかし、挙兵していない後醍醐天皇を隠岐に流すことは出来なかった。倒幕の目を完全に摘むまではいかなかったのだ。血の気の多い泰家であったら徹底弾圧をしていた可能性もある。しかし実際は万里小路宣房にうまく逃れられ、日野資朝をトカゲのしっぽにして収めてしまった。このことが、倒幕の導火線を残すことになってしまったのである。

 高時も長崎高資の専横振りに怒り討とうと試みたこともあったが事前に露見してしまう。そして身代わりを立てることで高時はようやく得宗に留まった。かつて北条貞時は専横が目に余る平頼綱を排したことがあったが、もはや北条にはその力は残っていなかったのか。
 これを見て後醍醐は挙兵し、いったんは失敗するものの北条氏の実力の無さを目にした有力御家人が次々寝返り、鎌倉幕府が崩壊への道を辿る。

 高時、そして長崎高資は新田軍に攻められ東勝寺で自害。暗愚と言われた高時であったが散り際は立派だったとも言われている。そのとき泰家は。
 泰家は北条家再興のために生き延びているのである。自害したかに見せかけ鎌倉を脱出した。そして高時の子亀壽丸(後の北条時行)を諏訪盛高に託し信州へ落とした。この負けん気の強さ。自らは奥州に潜伏、のち京都へ。クーデターを起こすべく虎視眈々と狙っていたらしい。そして西園寺氏と手を組み後醍醐天皇暗殺計画を企てるに至る。
 この計画は露見し、西園寺公宗は誅殺されたが泰家はまた逃げ、その後北条時行を擁して幕府再興のために中先代の乱を起こす。実に執念深い。
 この北条泰家が幕府の中枢に居座っていたら、少しは状況が変わっていたのではないか。高時は確かに気が弱い。その分を泰家がカバーし、北条親政を行っていたならば。彼は後醍醐暗殺計画も立てた男。正中の変の処理も徹底していたかもしれない。なにより北条家にカリスマ性がまた戻っただろう。
 あの時出家していなかったらなぁ。血の気の多さがマイナスに働いてしまったのか。出家していなければ貞顕のあと執権になれたかもしれないのに。

 北条泰家のその後はわからない。中先代の乱が足利尊氏に鎮圧された際、おそらく戦死したのであろうが歴史はそれを伝えていない。
 平宗盛には知盛、藤原泰衡には国衡と、それぞれ血の気の多い兄弟が居た。しかし歴史は変わらない。泰家とて、歴史の流れはおそらく止められなかっただろう。しかし、どうしても僕は「if」を考えたくなるのである。
 家勢絶頂の時に滅んだ北条氏は、平氏滅亡にダブる。これもまた諸行無常である。


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4 コメント

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ありゃー (jasmintea)
2005-04-22 23:52:05
こんばんは。北条氏フリークの私‥時房から始まって守時まで一人1回ずつで書いていきたいのですが何せ時間がない

で、もって古代のことの書きたいし!!



北条氏は本当にたくさんの有能な人物を輩出してますよね!って記事内容とずれてますね。

ハッキリ言って高時は得宗に生まれてきたのが間違いです。でもおバカ高時のせいだけではなくやっぱり凛太郎さんがお書きになったようにもう時代が北条では機能しなくなっていたんでしょうね。



お帰りになって初の歴史「if」楽しく拝見させて頂きました。
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これはすみません(汗) (凛太郎)
2005-04-23 00:44:14
北条氏フリークのjasminteaさんを差し置いて書きましてすみません(笑)。でも内容は浅薄ですのでご安心を。

北条泰家についてはあまり詳しい資料がないのですね。生没年すらハッキリしない。しかし血の気の多い人だったようで。

僕は「if」という視点で見ますから、いかに時代の要請が幕府滅亡であっても、なんとか分岐点はなかったかと考えてしまうのです。そうしたらそこに泰家が居た。彼の北条再興を願う気持ちをもっと以前に発揮出来ていたら…と思っちゃうのです。



高時はjasminteaさんも以前に書かれてましたがやっぱり評価は「おバカ」なのですね(笑)。得宗に生まれてきたのが間違い、とは厳しい(笑)。しかし彼を少しは擁護したい気持ちもあるのです。前田利常に擬すのは行き過ぎかもですが、彼にはあれしか出来なかったのです。僕は泰衡や宗盛同様、彼には本当にシンパシーを感じます。気は弱かったでしょうけどね。

それより長崎高資がいかんですよ。彼が幕府をああしてしまったのではないでしょうか。そんなに高時を責めないで(笑)。



jasminteaさん、北条氏一人1回づつの連載はいずれやってください。(^-^) お忙しいでしょうが、ブログに締め切りがあるわけでなし、何年後でもいいですから♪

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北条 泰家の子孫 (尾形 利子)
2015-12-09 19:49:31
宮城県登米市迫町在住の者です。当家は、登米市歴史資料によると、北条泰家の子孫に当たり、尾形家の家紋はミツウロコです。泰家は姓を変えても家紋は残したと思われます。
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>尾形利子さん (凛太郎)
2016-01-08 06:34:09
ありがとうございます。まさか御後裔の方のお目に触れるとは思ってもおりませんでした。大変に恐縮しています。勝手なことを書き連ねまして申し訳ありません。
登米市ですか。やはり血筋は奥州に伝わっていたのですね。
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