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凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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酒場で何を食べよう 焼肉屋編

2006年12月12日 | 酒についての話
 先日の土曜、ちょっとした忘年会で焼肉屋に行った。呑み会で焼肉とはちょっと僕にしては珍しいのだが、それは幹事の人が割引券を持っていたから、というだけの理由である。
 ただ、もちろん肉は大好きなのでその点には異論はないのだが、焼肉で宴会というのは本音を言うと実は避けたいのである。それは、焼肉屋ではそれぞれ「流儀」というものがあって必ずぶつかるからだ。もっと本音を言うとぶつかるのは僕であって(汗)、他の人はさほどこだわりなく普通は進行する。僕一人がたいていは「ああそうじゃないんだ」「そんなふうに焼くなよ」などと思っているに違いない。もちろん僕もいい大人であるのでそういう気持ちを表面に出したりはしないが(モメ事はキライ)、なんとなしにストレスが溜まる。焼肉くらいもっと大らかな気持ちで食べられないものなのかと自己嫌悪になったりする。僕はうっとおしいヤツなのだ。

 僕は、今までも書いているように食事をする際に食べ物の順番、酒を呑む順序に一定のルールが自分の中にある。それは万人に通用するものではなくタダの「俺ルール」である。だから言うべきことではないと自覚しているがいつもウズウズする。性格として間違いなく「鍋奉行」になるタイプ。だから多人数の場合は他の人に仕切られると少し戸惑う。
 寿司屋に行くときなどはその最たるもので、以前ちょっと書いたことがあったが(→飯で酒が呑めるのか?)流儀の違う人と行くとどうも居心地が悪い。自分が狭量であるということは十分自覚した上での話しだが。
 今回は、「焼肉のことは俺に任せろ」という人物がいて、その男が仕切った。そうなると僕はさすがに口出しなどしない。「お任せ」である。まず彼はビールのジョッキを人数分頼んだ。乾杯。美味いのぉ。ゴクゴク。これにはなんら異論が無い。そして彼は「焼肉通」であるらしくこう言った。

 「焼肉の正しい食べ方は、あっさりしたものから味の濃いものへ。塩で焼くものの前にタレの濃いものを焼くと網が汚れるからそれは避ける。ホルモン関係はしつこいから後だ」

 そしてタン塩から始めた。
 うーむ。それは確かに正しい。どこでも言われている焼肉のルールである。異論を唱えることなど出来ない。
 ただ、僕の場合は逆なのだ。これは言いにくいことなのだが。
 僕の場合、焼肉屋であってもそれは呑む限り「酒場」であるとみなす。ということは焼肉の順序より酒の順序が優先する(ここが他人には理解してもらえない僕のアホなところなのだが、まず「酒」ありきなのだ)。この場合、僕はビールを二杯ほど飲み、その後は出来れば焼酎(もちろん眞露などの韓国焼酎ですね)に移行したい。その場合僕の好みは、焼き鳥の時も言ったが「味の濃いものからあっさりしたものへ」というオーダーなのである。通常のルールからは逆だ。なので家族と焼肉を食べる際は(この場合は「俺ルール」が通用する)、まずハラミ、ミノ、レバーなどが登場する。これはビールに合うと僕が思っているからだ。ビールには脂の強い濃い味のものがいい。ウルテなどは大好き。そしてしかる後に、タン塩、サムギョプサル(豚バラ塩)などが登場。その時は既に酒が眞露に替わっている。ユッケも美味い(冷たいものはビールと食べたくない)。最後に冷麺やビビンバ、クッパの場合はあるが、飯を食べるときはカルビを更に注文したりする。ごはんとカルビをかっ込むと美味いですからね。
 じゃあ焼肉屋基本ルールである「網が汚れるじゃないか」という問題については、僕はわがままを言っていつも網を取り替えてもらう。傲慢だとは自分でも思うのだがそうする。「先に味の濃いものを食べると舌がおかしくなる」という意見は、僕がそれほど上質の舌を持っているわけでなし気にしない。

 こんなふうに普段は進行する。ただし、タン塩で始まってもそこまでは文句を言う事はさすがにない。酒の順番や量、スピードを強制されると僕は不快になるが(「もっと呑め」などとは言うな)、焼肉の順序くらいで大人気なく口出しはしない。
 しかし、ここに全てを根底から覆す、もう一人の「仕切り屋」が現れた。困ったことにその人は一番の年長者(血液型O型)である。

 「タン塩ばっかり焼いててなんか焼肉屋に来た感じがせんぞ。カルビ食べなあかん。焼肉の王道やないか。わはは」

 と言ってカルビ五人前を注文した。そしてジュージューと焼き始めたのである。最初の焼肉奉行は形無しだが、年長者なのでしょうがない。この年長者(血液型O型)はまたいい人で、遠慮してカルビを食べないのだと勘違いしている。悪気ゼロであるところが困る。
 年長者(血液型O型)は、タンを網の隅に寄せ、カルビを一気に網に乗せた。「じゃんじゃん食べよう。」
 そしてどんどんタンを裏返す。薄切りのタンは僕は裏返さず片面だけ焼いて食べるのだが(肉汁がみんなこぼれるから)、そんなことはおかまいなしである。
 (これは余談だが、タン塩を注文するとよく表面にみじん切りのネギがトッピングされている場合が多々ある。あれはどういうことなのだろうか。この日もそうだった。僕のように裏返さずに食べる人間はそれでいいが、ありゃひっくり返すと網の下にみんなネギが落ちる。焦げるしね。あの意図がよくわからん。ネギを添えるならもう少しうまいやり方があろうものなのに)

 とにかくその年長者(血液型O型)は、肉を網の上にところ狭しと置くが、最初にタンをガンガン裏返した後は飽きたのか、裏返そうともせず放置である。タバコ吸ってダジャレを言って笑っている。どんどん焦げていくぞ。僕たちは焼肉を食べることに集中しているわけではない。これは宴会であり歓談が主役なのだ。僕もオヤジギャグを言って笑いたい。しかし焦げるから僕と「元」焼肉奉行は必死になって世話をし、食べる。そうすると年長者(血液型O型)は「たくさん食べて気持ちがええな」などとのたまってまた皿にあるだけの肉を全部ドサッと網に乗せる。ニコニコしながら。自分はあまり食べないのだ。元来いい人であるために困ってしまう。ああもう限界だ。かくして肉は徐々に炭化していく。もったいないことおびただしい。こだわりの「元」焼肉奉行さぞかし悔しかろう。お前の気持ちはワシにはよくわかるぞ(涙)。

 もう順序などどうでもいいよ。焼き加減も自由。だから、食べる分だけ網に乗せなさい。こっちは忙しくて会話についていけないぞ。とっておきの小話を言う機会がないじゃないか。
 焼肉屋で宴会するのは多人数だと実に難しい。せいぜい2、3人だと美味しく食べ楽しく呑んで歓談が出来るのだが。
 これは焼肉だけに限らず例えば「鍋」でも起こりうる事態。上等の店へ行けば仲居さんがついて一切の世話をしてくれたりする。僕などこういうのは「しゃらくさい」と一瞬思うほうなのだが、宴会ではありがたい存在なのかも。そこにある具材を一気に鍋に投入、というような乱暴な人が居ないとも限らないのだから。焼肉にせよ鍋にせよ一種の「調理」を伴う食事は宴会には向かないのではないか(お好み焼きもそうだけどあれで宴席ってのはあまりない)。歓談に集中出来ないしねぇ…。
 ちなみに僕は「一人焼肉」だって平気である。独身時代は行きつけの店があった。そっちの方がより焼肉を楽しめる、と思うのだが、偏屈ものの証明だろうか。
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酒場で何を食べよう おでん屋編

2006年12月05日 | 酒についての話
 前回の続き。

 すっかり寒くなって(今は12月だから当たり前だが)、燗酒の恋しい時期。同時に、熱々のおでんが恋しい時期でもある。何もおでんは冬に限ったものではないとは思うが、こんな季節にはありがたい。何がありがたいと言って「熱いのがすぐに出てくる」ことに尽きる。他の肴は(温かいものは)調理しなければならない。焼き鳥にしても煮魚にしても注文して即座に出てくるものではないが、おでんは目の前の大鍋でぐつぐつと湯気を立てて待機している。「燗酒、それから大根とごぼ天とタマゴをちょうだい」と言えば同時に並ぶ。これをありがたいと言わずしてなんと言おうか。色付いた、いかにも染みていそうな大根に箸を入れるとダシがジワっとしみ出る。辛しをちょいとつけて頬張る。口の中が洪水状態。そこへ燗酒をくいっ。たまりまへんなぁ。

 このおでんには、個人的見解でやっぱり燗酒だろう。ビールなど飲む気にならない。わずかに焼酎のお湯割りが対抗馬か。いややっぱり燗酒だな。それもコップ酒が望ましい。寒いのにチビチビと徳利から杯に注いでなどいられるか。グイッといきたいものである(もちろん寒い時期の話)。
 しかし風情としてやっぱりコップ酒が似合う。夏であれば冷やであってもいいが、やっぱりコップがいいな。これは、どうも屋台の雰囲気が刷り込まれているせいなのかと思ってみたりする。今は屋台など本当に少なくなって、実際に北風吹く中コートも脱がずに座り込んでコップ酒をあおりおでんを注文して、「もう今日で終わりにしようと思うんだ」「それがお前の結論なのか? 本当にいいのかそれで」などと深刻な話をしている光景などついぞ見ることはなくなったのだけれども。

 さて、おでんのルーツは「田楽」から来ているというのはもう誰もが知っていることだと思うけれども、それが「味噌をつけて焼く」料理から煮込み料理へと変わっていったのは江戸時代らしい。「おでん」と言う言葉を聞くとどうも京都の宮廷言葉みたいな感覚にとらわれるがそもそもは東京発祥である由。今でも関西の古い店では「おでん」と言わずに「関東煮(かんとだき)」と言う。大阪は東京の模倣など認めない文化であるので、いやこれは「関東煮(かんとうだき)」ではなく「広東煮(かんとんだき)」から来た言葉だと主張する。まあどっちでもいい。
 ただ、情熱を傾けるに値する食べ物ではあるようで、おでん全国行脚の書籍も読んだ事がある。面白かったが、ずっと太平洋側の話に終始していたのがちょっと(?)であった。僕は以前北陸の金沢に住んでいたことがあったのだが、ここはおでん王国であって街にはおでん専門店が多く、みんな牛筋の柔らかさについて語り、呑み助はおでんには必ず一家言ある。
 最近は静岡がおでんでブレイクしているらしい。「黒はんぺん」を擁する静岡おでんはよくマスコミでも取り上げられる。ところ変われば品変わる、であって、地域性が頑固に守られているのは実に結構なこと。
 僕が最も強烈な個性を打ち出していると思うのは名古屋のあの八丁味噌で煮込んだ「みそおでん」であり、真っ黒と表現しては怒られるかもしれないが、外観では大根もコンニャクも区別が付かない(ほど真っ黒に煮込まれている)。しかしこれが美味い。タマゴなどは出色であって、もちろん酒もすすむがメシも欲しくなってしまう。
 もうひとつ個性的なのは沖縄のおでんであって、ここには必ず「てびち」が入っている。てびちとは豚足のことで、これがないと沖縄のおでんとは言わない。そして付け合せに青菜をダシにさっとくぐらせて付けてくれる。青菜は季節によって小松菜であったりウンチェバー(知らない人もいるでしょうね)であったりレタス(驚)であったりするが概して美味い。コンビニのおでんにも豚足が入っている。那覇の栄町のおでんの名店「東大」であまりに美味いのでつい呑みすぎて記憶を失い狼藉に及んだ(らしい)ことは、僕の酒の歴史の中でベスト10に入る恥ずかしい出来事である。あの店にはもう行けない(汗)。

 おでん屋に座る。もちろん燗酒をコップで所望する。もちろん燗をする酒器は徳利ではなく錫のチロリである。ちょうどよく温められた酒がコップに注がれるそのときは本当にうれしい。さあ呑むぞ。で、何を食べようか。
 おでんの具、その輝ける人気ナンバー1はなんと言っても大根である。どんなアンケートを見てもそう。これに僕も異論とて無い。ダシを全身にしみわたらせたその姿はおでんの王様である。
 であるが、僕は実は「練り物」が異常に好きなのである。子供の頃からそう。食卓に蒲鉾があるだけでその日はハッピー、という単純な男なので、ちくわをつい注文することが多い。ちくわ、牛蒡天、はんぺん…。これで酒を呑んでいると本当に幸せである。大きな練り物の中にタマゴが入っている「バクダン」などはもうたまらん。そのデカいのを箸で割る幸せ。ああ食べたい。
 はんぺんはある地域とない地域がある。関東を主体に分布しているらしい。金沢では「ふかし」という名称ではんぺんを供していた。はんぺんとふかしは違うもの、という主張もあるが、まあ似たものである。また、さつま揚げとして多く言われているものは関西では「てんぷら」と称する。ゴボ天の「天」ですね。僕などはややこしいなと思うのだがそう言うものはしかたがない。
 さて、「ちくわぶ論争」というものもある由。ちくわぶというものの存在は、関西ではほとんど知られていないのではないか。関西に限らないだろう。おそらく関東限定のおでんダネである(もっとも最近では、こんな時代だからスーパーでちくわぶも販売するようになった。)。しかしまだまだ一般的ではないと思われる。ちくわぶって何、と思われる人もいるのではないか。僕も30歳を過ぎるまでその存在すら知らなかった。念のため、ちくわぶとは小麦粉を練って竹輪の形に整形したものである。すいとんの固いものか(そんな事を言うと怒る人が出てくるな)。そもそも味のあるものではなくおでんのダシを吸って威力を発揮する。関東では代表的なおでんダネらしい。赤塚不二夫の「おそまつくん」に出てくるチビ太は必ず片手に串おでんを持っているが、あれは上からコンニャク(三角)、大根(丸)、そしてちくわぶであるらしい。それほどまでに膾炙した食べ物であるが、チビ太のおでんは知っていてもそこにちくわぶが入っているなど関西人には想像がつかないことであると思われる。だってそんなのないんですもん。
 また「スジ論争」というものもある。関西では一般的なおでんダネであるスジは、もちろん「牛筋」である。トロリと柔らかく煮込まれた牛筋は美味いね。和風ビーフシチューと言えるほど美味いスジを出すところを何店か知っている。僕としてはおでんダネベスト3に入るほど好きであるが、関東では「スジ」と言えば魚の練り物で出来たものらしい。うーむ。なんでこれを「スジ」と呼ぶのだろう。謎がどんどん深まる。
 関西で独特のネタと言えば「コロ」「サエズリ」だろう。これは鯨である。コロは皮クジラの加工品、サエズリは舌である。昔は一般的なネタだったらしいが、昨今は大人の事情で高価である。道頓堀の名店「たこ梅(柔らかいタコが絶品)」でこれを食べたらビックリするほど取られた。最早庶民の味ではない。美味いのですがねぇ(涙)。
 他におでんダネのラインナップと言えば、豆腐、コンニャク(僕は白滝巻きが好きだな)、芋(ジャガイモも店によってあるが、僕は海老芋などの八ツ頭、里芋系が好きである。これも地域差がある)、タコ(イイダコだとたまらず注文する)、がんもどき、そしておでんダネのもう一方の雄であるタマゴなどが挙げられる。味の染みたタマゴは美味いですなぁ。
 僕はさらに好きなものとして「つみれ」を推奨したい。鰯などを粗く叩いて丸めたつみれは、練り物とは一線を画す。しっかりと箸で持てるが食べるとホロホロとほどけるくらいが最高。なかなか美味いつみれを出す店は少ない。北の方へ行くと「ホッケのつみれ」などがあったりする。
 後半にさしかかると「餅入りキンチャク」などいいですね。味が染みていて腹にも溜まる。「袋」という言い方もあって、これは油揚げの中に様々な具を詰めたもの。餅キンもこの部類なのだろう。
 逆に「食べないもの」もある(あくまで個人的な話ですよ)。この具には熱狂的ファンも居て書いていいものかと迷うが「ロールキャベツ」である。これは比較的歴史の浅いおでんダネだと思われるがどうも市民権を得ているようである。別にロールキャベツを嫌いな訳じゃないですよ。ただおでんとしてはどうかと…。燗酒に合わない(僕がそう思うだけですが)。シューマイも見かける。これもいかがなものか。沖縄ではソーセージが普通に具として登場する。こういうものは、ベースのダシの味に影響を及ぼすと思うのですよ。まあ好き好きなんですけれどもね。最近TVで見たのだが、「トマト」がおでんの人気の具なのだそうで。美味いかどうかは知らないけれどもおでんの雰囲気じゃないような気がする。燗酒に合うのだろうか?

 おでんの話は止まらない。「ねぎま」の話、さぬきうどんとおでんの深い関係、小倉の旦過市場の屋台の話なども書こうと思ったがもう長すぎるのでここいらへんで止める。うーん。
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酒場で何を食べよう 焼き鳥・モツ焼き屋編

2006年11月30日 | 酒についての話
 前回の続き。

 酒を呑む場所は何も居酒屋だけではない。もっとも居酒屋の定義をどこに持ってくるかで変わるけれども。呑めればどこでも居酒屋、ということも出来る。「洋風居酒屋・ビストロ○○」なんて看板も見かけるし。
 でもまあ居酒屋というところはいろいろな酒肴のパターンが揃っているところと考えてもいいだろう。それに対して「専門店」の一群がある。焼き鳥屋、串カツ屋、おでん屋等々。蕎麦屋や寿司屋もそれに加えてもいいかもしれない。てんぷら屋となるとちょっと上等か。うなぎ屋で一杯、とかいいですねぇ。

 僕がよく行くのは焼き鳥屋である。のれんをくぐると煙が充満しているのもまた風情。最近の焼き鳥屋はすっかりおしゃれになって煙もうもうなんてところは少ないが。ああいうのは女性客に喜ばれないからだと思う。髪に焼き鳥の匂いがついちゃうからね。従って換気の悪い焼き鳥屋は男ばっかりである。たいていは安い。
 席について、まずビールを一本。生ビールがあればそれも良し。この焼き鳥のタレの焦げる匂いはビールを呼ぶ。ううたまらん。
 そして注文。
 これについては一家言持っている人も多い。「まずは塩で焼いたものから。味の濃いものは後からにしないと舌が麻痺する」と必ず言う人がいる。
 これは、焼肉屋でも同じように言う人がいる。寿司屋でもそうだ。けれども僕はタレ焼きをまず所望する。「お前はそれだからわかっていない」という人もいるだろう。
 しかしながら、僕は呑みにきているのである。何を食べるか、以前に酒を優先したい。僕はビールを頼んでいるのだ。頭の中では酒の順番が決まっている。まずビール、そしてその後にはチューハイ、もしくは日本酒の冷や、最後には焼酎のロックでいきたい。そしてビールに合う串と言えば僕はやはりタレの焦げた味なのである。従ってまず精肉、そしてレバーをタレで食べたい。ハラも空いた段階ではそれを我慢できないのだ。「酒あっての肴」である原則は崩さない。
 また、焼き鳥の品書きにある「ねぎま」というものについては、これはもちろん大好きである。これについては焼き鳥で「ねぎま」はおかしいだろう、あれはもともと「葱鮪」でネギとマグロなんじゃないのか、という論争もあるのだが、こういう話は長くなるので放置する。
 次は塩で焼いたもの、ということになるが、ここでは脂の強いものを食べたい。鳥皮、手羽先、ボンジリなど。こういうものはタレで焼くとしつこすぎる(と、思う)。口の周りがアブラで光る頃、ビールからチューハイもしくは冷やに移行していく。そうなると、今度は砂ずり(コリコリして美味いですな)やささみ(梅シソ焼きとか山葵焼きとかありますねー)などを注文。だんだんとあっさりしたものに動く。そして最後につくね。
 「つくねは最初に注文するべきだ」という人がいた。それで店の技量がはかれる、と言う。寿司屋で最初にギョクを注文しろ、というのと同じ理屈だ。しかし、そんな勝負師みたいなことを焼き鳥屋でしなくてもいいではないか。そういう人のウンチクは聞き流してしまう。
 また「コースでしか供さない」上等の焼き鳥屋もあるが、こういう店には出入りしないので関係ない。メニューくらい自分で組み立てさせてくれ。

 そんな感じで焼き鳥屋では進行していくのだが、焼き鳥にも地域により様々な世界がある。香川の「骨付き鶏」。ありゃ美味いですね。最近心斎橋に「一鶴」の出店が出来たそうな。まだ行っていないので早く行きたい。また宮崎のモモ焼き。これは直火で地鶏をガンガン焼くのだが、アブラが火に落ちてもうもうと煙が上がり、焼き上がりはどちらかと言えば黒い。そこまで燃やすように焼かなくてもいいとは思うが、燻された味もする。好みが分かれるだろうが、たいていはいい地鶏を使っているので美味い。
 さて、名古屋名物の「手羽先」は焼き鳥の範疇なのだろうかと言う問題もある(それほど問題でもないか)。名古屋の手羽先は美味いですねー。ちょっとピリ辛スパイシーさがたまらん。ありゃビールだな。なんぼでも飲めます。
 これはもう独立した料理だと思うのだが、焼き鳥の一種でしょ、などと言う人と以前話したことがある。こんなの名古屋の人に「なーんも分かっとらんで」と言われそう。ただあえて考えると、あれは「山ちゃん」も「風来坊」も唐揚げであって焼いていない。だからやっぱり独立した料理だな。うんうん。

 さて、鶏でないものも焼いて「焼き鳥」でござい、と言う地域もある。どうも看板に偽りありの感じがしてしまうのだがこれはその地域の「約束事」みたいな範疇なのだろうか。焼き鳥で有名な街である室蘭や東松山、久留米などは豚が主流のようである。なんかヘンだとは思うが声を上げるほどでもないか。久留米で食べた時には「ダルム」というのがあった。これはシロ(小腸)ですな。(正確には「~というのがあった」ではなく知って食べてみようと思って行ったのだが)
 関東では「焼きとん」というのれんも見かける。これなどは正直だと思う。ややこしいもんねぇ。
 串焼き屋ないしはモツ焼き屋と言ってくれたほうがわかりやすい。しかしモツだけではない場合もあるのでねぇ。焼きとんと言うのが一番正しいか。しかし豚だけではない場合もあるから…難しいのぉ。

 仮にモツ焼き屋と言うが、たいていは焼き鳥屋よりも敷居が低い。おっさんばかりという店が多い。ありがたいですねぇ。安ければなお良し。
 こういう店ではもうビールは頼まない場合が多い。もっと安い酒を呑む。ホッピーがあればそれはありがたいのだが、関西ではホッピーを置いている店は少ない。なんでだろうな。なければ、いきなりチューハイでもかまわない(サワーという甘い飲み物はちょっと遠慮したいが)。
 レバー、ハツ、コブクロ、カシラ、シロ。歯が丈夫でないと食べられないものも多いが、ああ食べてるなという充足感がある。僕は尿酸値が高いのだが、なーに毎日食べるわけではなし。
 オーダーにも特にこだわりはない。「塩ですか、タレですか」などという問いかけもあまりないから。どれでもいいよ。じゃんじゃん持ってきて。ただしちょいとしつこい時があるので、キュウリとかあるかなー。え、ある? じゃそれ。それをポリポリやりながらモツをワシワシ。ついでにグビグビ。結構である。

 さて、こういう店にしばしば見える品書きに「豚足」がある。これは好みが分かれる。なんと言っても足である。気持ち悪いという女性が多い。まあね、その気持ちは判らなくはないよ。しかしなんと言ってもコラーゲンたっぷりである。コラーゲンは体内に吸収されアミノ酸に分解されて後再生成されるが、その時にビタミンCを必要とするので、チューハイにレモンをたっぷりと絞り入れて豚足と共に呑めばもう翌日はお肌ツルツルのはずなのだが。
 ところで、僕はこの「豚足」には偏見を持っていた。豚足といえばやっぱり台湾料理の煮込みや、沖縄の「てびち」に代表される、プルプルと煮あがって骨からスルリと外れる柔らかなものがアタマにあるので、焼いたものなんて固くて食べにくかろう、と思っていたからである。
 しかし、昔読んだ本の中で勝見洋一氏が書いた「新宿駅西口のしょんべん横丁に、『らくがき』という店がある。辛し味噌を塗って食す豚足の驚異的に旨いのを出すが…」という文章が気になっていた。グルメの勝見氏が「驚異的」とまで評する豚足とはいかなるものか。というわけで機会を得た僕は新宿の今は「思い出横丁」と名を変えた場所にフラフラと行ってみた。
 早速注文してみると、これは茹で豚である。「てびち」のように持つとほどけるほどではないがまずまず柔らかい。そしてこの「辛し味噌」が抜群に美味い。これだけを舐めながら呑みたいくらいだ。僕は豚足を見直し、それ以来東京に一人で居ればここに立ち寄って芋焼酎のお湯割りを呑みながら豚足をしゃぶるのが慣わしとなった。こういうざっけない店で酩酊するというのもまた愉しい。
 しかし、いちばん最近にこの店に居たのは去年の秋(もう一年経つな)だったと思うが、なんだか男だけの酒場に女性客も居た。なんででしょ? 豚足効果か。話を聞いてみると、この店はNHKのおかあさんといっしょで有名な「佐藤弘道おにいさん」の実家であった由。そんなの知らなかったよ。なるほどな。ひろみちお兄さんも豚足を食べて丈夫な身体を作ったのでしょうな。何故か納得。

 さらに次回に続く(汗)。
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酒場で何を食べよう 居酒屋編2

2006年11月28日 | 酒についての話
 居酒屋で何を注文して食べるかという話をまだやってます。前回の続き。

 刺身そして焼きものの話を何となしにしてきたけれども、ちょっと煮たものも注文したくなる。味のしみた、温かなものを目の前にするとちょっとほっこりとした気分になる。冬は特にそう。
 しかし、割烹などの上等の店ならともかく、大衆居酒屋では煮物は作り置きが多い。カウンターに大皿があって、鰯のショウガ煮や里芋、旬のもの(例えば春なら筍とかね)がたくさん並べてあって「おっと、その大根とイカの煮たやつちょうだい」というのもまた愉しいものではあるが、出来立ての湯気ホカホカを食べたいなぁというときもある。小鍋で温めなおしてくれるところは良心的だ。たいていは電子レンジである。レンジでも全くかまわないのだけれども、何故か冷めるのが早いのだよなぁ。
 湯豆腐であれば作り置きはまずない(と、思う)。一人用の土鍋などに入ってくればうれしい。昆布を敷いた鍋に、鱈が入っていたり春菊が入っていたりするが、豪勢になると値段もそれ相応になるのは当然。僕は豆腐だけあればいい。冷奴に対して温奴(ぬくやっこ)とか廉価で品書きに入れてくれないだろうか。
 煮魚、と言えば肴の一種最高峰であるような気がする。冬の寒い夜、ちょっと熱めの燗酒を傾けながら、ほんのりと湯気が立った、いい塩梅で煮ためばるを箸の先でほぐす。旨いなあ。カウンターの向こうには割烹着が似合う上品なおかみさんがお燗の温度を気にしている。もう一本もらおうかな…。
 なかなかこういう場面には巡りあえない。煮魚を丁寧に作ってくれる店はなかなかない。あっても高い。居酒屋ではないけれども、昔若い頃、寿司屋で煮魚が食べたいと言ってカレイを煮てもらい、それは非常に美味かったのだが、酒を2本ほど呑み握りを軽く食べ、それで会計が13000円だったことがある。このときは驚いた。明朗会計を謳っていたので伝票を見せてもらった。カレイが7000円だった。それ以来煮魚恐怖症となっていて、しっかり値段の書いてある店でないととても注文できない。トラウマである。
 本当は鯛のカブト煮など非常に好きだ。焼き魚では「骨が面倒くさい」などと書いたが、煮魚は骨を巧く除けながらゆるゆると食べまた酒を呑む、という風情が気に入っている。まるでしゃぶったようにきれいに食べられたらそれはそれで満足感がある。酒もすすんでしまうけれども。
 しかしながら、こういうのは多人数のときにやるとカニを食べるのと同様に会話がすすまない。やはり宴席では避けるのがいいだろう。ひとりのときは品書きに「あら炊き」などと書いてあればつい注文してしまうけれど。

 さて、ちょっと「煮込み」について書いてみたい。そんな「書いてみたい」と書くほど大層なことではないけれども、最近思っているのは「煮込み文化圏」というものがあるんじゃないかということ。
 あんまり全国をくまなく呑み歩いているわけではなくこれはタダの印象でしかないのだが、「煮込み」と言えば、どちらかと言えば関東では「モツ煮込み」である。しかし関西では「牛筋煮込み」が主流なのではないだろうか。もちろんそう簡単に色分けできるものではないと承知しているが。
 東京で煮込み、と言って名前が浮かぶ名店が月島の「岸田屋」。昔コミックスの「美味しんぼ」で日本の臓物料理の奥深さを示しフランスのシェフを驚愕させたと言う話が載っているとおり、ここの煮込みはもちろんモツである。一切れがデカい。しかも量がたっぷり。見る人が見れば「グロテスク」とも思ってしまうかも。ハチノスが煮込まれているのは珍しいと思った。しかし、みんなトロリとして美味い。手間ヒマかかっている感じがする。
 もう一軒の名店、森下の「山利喜」。ここはシロ(小腸)の部分だけである。ワインとブーケガルニを使ってこっくりと煮込まれたこの一品は確かに美味い。酒もすすむが、ここではガーリックトーストを同時に注文することを勧められる。最後に煮込みの汁を染ませて食べてください、とのこと。なんだか味噌味なのにビーフシチューみたいだな。まわりにはワインを飲んでいる人もいる。美味いけどこういうのは居酒屋としてはあまり…(以下略)。
 話が反れた。こういう名店でなく普通のところでは、「煮込み」と言えば豚モツが使われゴボウやコンニャクを入れて供されることが多い。これは確かに美味いが、牛文化の関西人としては「あれっ」と思うこともしばしである。
 全てがそうでないのはよくわかっている。煮込みで「岸田屋」「山利喜」とくれば次は北千住の「大はし」だろうが、ここは牛のカシラが使われている。モツではない。しかし筋煮込みは少数派ではないのか。

 関西では、まず牛筋である。
 と書いて、あまり関西で煮込みを名物にしている店を寡聞にしてよく知らない。コミックス「あぶさん」に出てくる「大虎」は煮込みが逸品であるが、漫画の話である。大阪ではそのかわりに「どて焼き」なる料理がある。
 と言ってこれは「焼く」料理ではない。やっぱり煮ている。ただ大鍋でこっくりと煮るのではなく、底の浅い鉄板のような鍋に串に刺した牛筋を並べ、白味噌でクツクツとやる。「すき焼き」の"焼き"に近いのかな。串刺しであるので「とろけるような」感触とは少し違う。十分に下煮はしているのだろうが、歯ごたえが残る。
話が反れるが、名古屋にも似た料理がある。「どて煮」であって、これは串に刺してあるものが多いが大阪よりもっとこってりと煮込む。そしてもちろん名古屋だから「赤味噌」である。見た目真っ黒であるが美味い。この味噌に串カツをつっこんで食べたのが「味噌カツ」の発祥であると聞いたことがあるが、それはまた別の話。
 結局「どて」というのは味噌を指しているのだろう。「牡蠣の土手鍋」からの発想かな。だとすれば比較的歴史の浅い料理なのかも、と思ってみたりする。
 しかしながら関西にも「どて焼き」が目立ってはいるものの「煮込み」はやっぱりある。「スジコン」と言う場合も。牛筋とコンニャクを煮込むからそう言うのであるが。これは酒の肴として実に美味いものであるが、お好み焼きや焼きそばの具としてもよく使われる。「スジコンネギ焼き」と言えば関西名物だろう。一般的過ぎて居酒屋の品書きに載らない場合もあるような。神戸ではこれを「ぼっかけ」と言う。カレーやラーメンにもトッピングして「ぼっかけカレー」「ぼっかけラーメン」である。いずれにしても「モツ煮込み」ではない。

 フィールドワーク(?)がちゃんと出来ていないのでこれ以上詳細は書けないが、全国的にはどうなのだろう。例えば博多で屋台に入る。「焼きラーメン」で有名な「小金ちゃん」には「どて焼き」がある。しかしこれは串に刺したものではなく関西で言うところのスジコンである。牛乳を入れてまろやかに煮てあるのが美味い。でもなんでどて焼きと言うのだろう。
 関西で言う「どて焼き」という料理法に近いものも食べたことがある。博多の名店「ホルモンみすみ」である。この実にわかりにくい場所にある店の詳細はこちらのサイトに細かく描写されているので参照していただきたいが、この浅い鉄板のような鍋での調理法は正に関西で言う「どて焼き」である。しかし串に刺さっているのはモツ。絶品でしたね。いくらでも食べられた。
 これほど地域によって違う。日本全国で「煮込み食べ行脚」をしてみたい欲求にかられるが、そんなことは出来ないので詳しい人には是非ご教授していただきたいものである。

 なんだか煮込みの話に終始してしまった。尿酸値の高い僕はそうそうモツ煮込みなど食べてはいかんのでつい憧憬もあって話が長くなる。もうわけがわかんないので居酒屋についてはこれでとりあえず終わろうかとも思う(なんと中途半端な)。
 でも次回に続く。
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酒場で何を食べよう 居酒屋編1

2006年11月26日 | 酒についての話
 本当は「居酒屋で何を食べよう」とタイトルに打ったのだが、酒を呑む場所は何も居酒屋に限ったことでもあるまい。おそらく話が居酒屋から脱線していくことが予想されるので、とりあえず「酒場で何を食べよう」ということで。
 でもとりあえずは居酒屋ののれんをくぐったところから思い浮かべてみる。

 何を食べるのか、ということは、僕の場合一定してはいない。まあたいていの人はそうだろう。もちろんオーダーが毅然と決まっている人も中にはいる。居酒屋ではあれとこれとあれを食べるものだ、として浮気はしない人を僕は約一名知っている。まあそれもひとつの道だろう。何より迷わなくてすむ。
 しかし、店によってもまた季節によってもメニューは違う。そしてなにより「気分」ということもある。そんなこんなで僕の心はいつも品書きを見て千々に乱れるのだ。
 しかしながら、品書きを前にしてあれこれ迷い、注文をとる人を待たせたりするのが僕は苦手である。「お決まりになられましたら呼んで下さい」と引っ込んでしまわれるのは美学に反する。なので比較的すっと一品は注文する。「とりあえず」というやつですね。そして呑みながらまた第二弾を考えるのだ。

 さて、その注文するものはまず「何を呑むか」によって異なってくるのは当然。燗酒なのか冷やなのか、それとも焼酎なのか。しかしたいていの人は「とりあえずビールね」という人が多い。
 僕もまあ、冬であっても最初の一杯はビールにしたい場合が多い。しかしながら延々それで飲み続けるということはないので、多人数であればコップに一杯で止めておく。ジョッキの場合は出来れば小、一人のときは小瓶があればそれを頼む。
 このくらいの量だと、肴を必要としない。ぐっとあおってそれで終わり、である。なので、ビールのために何かを注文するということはほとんどない。
(ビールに合う食べ物は、居酒屋だとカツやフライ系の揚げ物が一番だと思うが→「ラガービールに合う食べ物は?」、そんなもの注文しても出てくる前にビールを飲み終わってしまう。かと言って居酒屋でそれ以上ビールを欲しない)

 そして、たいていの居酒屋であればまず「突き出し」というものが出てくる。こんなもの注文していないぞ、などと言っても出てくるのである。
 これは結局「チャージ料」なのですな。出てこない廉価な居酒屋もあってそういうところは僕は大好きだけれども、まあたいていは出てきますな。これで結構好みに合うものが出てくる居酒屋はありがたい。
 よく小鉢に不味い「春雨サラダ」だのマッシュポテトのような酸っぱいポテサラだの出てくるとどうも哀しくなる。最初から酢の物っていうのはメニューの組み立てとしてどうなんだい? 例えば枝豆が何莢か出てくるだけでもいいのである。一杯のビールに合わせるものとしては。貝の煮付けだの飯蛸だのいろいろ店によって個性を出そうとしているところはいいのだが、やりすぎの店もある。確かに上等の店だったが、以前突き出しで「かに酢」が出てきて驚いた。しかもしっかりと美味い。だが最後に勘定を見ると突き出しが600円である。そんなアホな。本末転倒とはこのことだろう。カニアレルギーの人だったとすればどうなるのか。ボッタくりと言われてもしょうがないだろう。突き出しの値段は300円くらいにしておいてくださいよ。

 さて、ビールも飲み、酒に移行したい。そのときまず何を食べるか。
 僕は刺身系統であることが多い。ただし盛り合わせなどはもちろん頼まない(多人数であれば別だが)。何か一品でいいと思う。ほかにもいろいろ食べたいからだ(活魚居酒屋であれば話は別)。
 場所にも季節にもよるが、僕は酒の肴として食べる刺身の最高峰は貝ではないかと思っている。あくまで好みですが。それも二枚貝ではなく巻貝。
 高くてなかなか注文しないが、サザエなんかはいいなぁ。コリコリとして味わいがある。新鮮なツブ貝の刺身などもこたえられない。北陸に住んでいたときはよくバイ貝の刺身を食べた。これらの「コリコリ歯ごたえ貝」は、僕は寿司ダネとしてはあまり珍重しない。その固さ、歯ごたえが飯に合わない気がするからだ(もちろん好みです)。しかし呑むにはこれらが実にいい。その歯ごたえを味わいつつ燗酒を傾ける幸せ。もっともアワビなどは注文しない。高すぎますがな。
 二枚貝は、例えばホタテやタイラ貝なども美味いが、少し火を通したほうが好み。焼きハマグリやアサリの酒蒸しなどは美味いですね。牡蠣ですら生より焼いたものの方が好き。例外はホッキ貝で、これはもう刺身で食べたい(新鮮でないとダメですけれどもね)。赤貝も刺身でしょうが、値段が張るので注文しない。
 しかし寿司屋や活魚屋で呑んでいるならともかく、居酒屋ではあんまり活けの貝などない(特に安いところは)。そんなときはまあメニューをみてよさそうな魚を頼むのだが、マグロとかは頼まない。あれは飯の方が合うと僕は思うから。蛸ぶつなんてあれば嬉しい。あれは噛みしめる良さがある。また、鯵のたたきなんかも好きだな。季節によってはつい注文する。
 しかし最も注文頻度が高いのは僕の場合「〆鯖」だろうな。関西では「きずし」と言う。もちろんきずしにするのは鯖に限らず、上等なものでは「鯛」も締める。この〆鯛を600円で出す居酒屋を知っているが、美味いですねぇ。鯛はもともと身のしっかりした魚であるゆえ、締め加減は難しいらしい。鰯を締めた「酢いわし」なんかも好きだ。「コハダ」や「ままかり」もこの系統である。これで燗酒をやるのが好きなのだ。

 さて、次は焼いたものを食べたくなる。炉辺焼きだと焼いたものばっかりではあるが。
 焼き魚はあまり頼まない。そりゃ食べれば美味いに決まっているけれども、ある程度酒が入っていると面倒になってくるのだ。「今日は鰊が美味いですよ」と言われて焼いてもらった。確かに脂が乗っていて美味いのだけれど、小骨が多すぎる。まあこういう骨の多い魚をしゃぶりつつ舐めるように酒を呑むのも一興だろうとは思うけれども、僕はまだそこまで悟りきっていない。
 定番の「ほっけ」などは身離れもよく美味いけれどもデカい。何人かでつつきまわすことになる。それっていろいろやりにくいのですね。身内ならいいけれども。
ししゃもとかなら小さいので食べやすいけれどもねぇ。季節の鮎など最高だが、そんなのが出てくるのは割烹である。マナガツオの西京焼きなどもあんまり品書きにはないなあ。切り身の焼き魚はラクですけれども。鰤カマの焼いたのが食べたいなぁ(何を書いているのかわかんなくなってきたな)。
 別に魚でなくてもいいじゃないか。ということで焼き茄子や椎茸を頼んだりして。年齢的にもヘルシーでちょうど良いのではないだろうか。
 なお、焼き茄子は冷たい食べ物か熱い食べ物か、ということでは論争がある。こんな論争には入り込みたくないので避ける。どっちも美味いからいいじゃないか。
 また、僕は好きな肴があるのである。それは油揚げや厚揚げ焼き。油揚げを炙って大根おろしを乗せて食べるのなどはたまらなく好きなのだが、あんまり声高に言うことでもないようにも思う。しかし北大路魯山人も愛した肴である由。魯山人はこれを「雪虎」と名づけた。軽く焦げ目がついた揚げを虎の文様に擬し、おろしを雪に見立てて「雪虎」だとか。またご大層な。この大根おろしを葱に替えると「竹虎」に早代わり。まあ居酒屋で「雪虎くれ」と威張って言ったところでアホかいなと思われるだけだとは思うけれども。

 グダグダ書いていると全然終わらない。いちおう続く

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めちゃ安い居酒屋が好き

2006年11月23日 | 酒についての話
 僕はひとりで時々立ち寄る居酒屋がある。
 居酒屋というのはコミュニケーションの場であり、一人で行くなんて…という声もよく聞く。そんなことしているならば早く家に帰ればよかろう。だいいち寂しいじゃないか。なんで一人でわざわざ呑んでいるのか。帰るところがないわけじゃなし。家でも呑めるじゃないか。
 僕の知り合いにも一人で呑みにいく人がいる。その人が出入りしているのは銘酒居酒屋である。上質の料理と飛び切りの酒。そんな場に行くのに連れ立って仕事の話なぞしていては集中出来ない。じっくりと、店の主人と話をしながら呑む。なるほどね。これも男のダンディズムであると思う。しかしながら、僕が出入りしているのは非常に安い、酒など普通酒しか置いていない酒場である。

 じゃなんで行くのか。それは難しい問題である。居酒屋が好きだから、という答えがいちばん合致しているとは思うが、それでは人をなかなか納得させられない。
 よくよく考えてみると、それは「クールダウン」が目的であるとも思われる。人間だもの、疲れて神経が高ぶったり、落ち込んでムシャクシャしているときもある。そんなとき僕たち呑んべは「無性に酒が呑みたくなる」瞬間というものがある。しかし、誰とも話はしたくない。元来おしゃべりな性分なのだが、何を言っても愚痴に繋がる場合もある。これは性格の問題だけれども、僕は話すことでラクになる、ということはない。話せばそのときの気分を助長させるだけだ。晴れることはない。
 だから、そういうときに家に帰って女房を相手にしたり、オネエちゃんのいる酒場に行って放言することはあまりしたくない。行っても「あら、こちらお静かね」と言われるのがオチだ。つまらない。だから、誰も干渉してこない大衆居酒屋で黙々と呑んでいるのが一番いい、ということになる。
 酔えばまた気分も変わる。つまらないことが気にならなくなる。そして気分も落ち着き満足感も出て、なんとなしに足取りも軽やかに帰宅する。そういう効用が酒と居酒屋にはある。

 あれ、なんだか暗めの話になってしまったな。そんな話をしようと思っていたのではなかった。
 そんなふうに一人でしばしば僕は呑んでいるわけだけれども、そういうことをするのに向く居酒屋と不向きな居酒屋がある。店選びも結構重要である。
 まず、カウンターが必要だ。一人で4人掛けテーブル席についていたり小上がりに座り込まねばならない店だとちょっと躊躇する。さすがにそれは侘しいし、店側にも迷惑だろう。一人用の席で無いと長居しにくいし居心地が悪い。
 また、そのカウンターも長くなくてはいけない。板さんの前にカウンター席が10席未満であると、どうにも居心地が悪い。なんでかと言えば、それはほっといてくれないからだ。板場でこちらが呑み食べているのを見られている緊張感がある。こっちは「大衆の中の個」になりたいのだ。ほっといてくれる環境が欲しい。
 そういう環境を生み出せるのであればどうしてもカウンターを欲するわけでもない。例えば名古屋の名居酒屋「大甚」などは長テーブルがいくつも並ぶ。しかし決して大衆食堂の雰囲気ではなく見事に居酒屋として成立している。一人酒の客が多い。テレビでナイター中継などが流れる。こういう店はラクだなー。

 そういうふうに、「雰囲気」というものも重要である。なにより居心地がよくないといけない。ほっといてくれる環境が欲しいとなればそれはもちろん「広い」ことが重要であるが、さりとてチェーン店の居酒屋であると若者のグループ客ばかりで喧しいし埋没しすぎてしまう。埋没はいいことなのだけれども、大声で注文を叫ばなければいけない環境などはどうも有難くない。結局「一人客もしくは二、三人連れが多い」居酒屋がいいのだろう。適正な広さと客の質。そして店のつくりもおしゃれ過ぎないのが望ましい。照明が暗すぎたり(或いは間接照明であったり)するのもよくない。女性としけ込んでいるのではないのだ。

 そして、通常であれば酒の質と料理の美味さ、というのが次に来る問題なのだろうけれども、この場合それはさほど重視しない。もちろんあまり好みに合わない(つまり不味い)のは困るが。美味いものが食べたいと思って行っているわけではないからだ。居酒屋の席に座って寛ぎたいのが第一の目的である。
 それよりも「廉価」であることが有難いのである。

 居酒屋の適正価格というのはどれくらいなんだろうとよく思う。
 何人かで連れ立って行って、上等の刺身を頼みそして調子に乗って吟醸酒を呑み過ぎ、大一枚が飛んでいく、という状況が時々確かにある。しかしそんなこと一人酒ではやりたくない。喫茶店やラーメン屋と同等の感覚で酒場に座りたい、とまでは言わないが、やはりフトコロが痛まない程度で無いと気軽に行けない。
 太田和彦氏が「給料の28分の1を1回で飲むなんてオカしい」と書いていたが、全くそのとおりである。そこには「平均価格は三千円が望ましい」と書かれていたが、僕は一人酒の場合は二千円未満が望ましいとまで思っている。
 そんなんで満足出来る店があるのか、と言われそうだが、そういう店はあるのである。それも立ち呑みではない。座って呑める居酒屋で、の話だ。
 僕がよく行く居酒屋は、間口はさほど広くはないが一種の鰻の寝床である。カウンター席が長い。テーブル席ももちろんあるが中心はやはりカウンターである。そのカウンターに座っている客は、ほとんどが一人客ないしは二人連れである(カウンターだから当然かもだけれど)。混んではいるが満席でもない。7、8割の入りか。その客の様子を見ているとまあほとんどが常連客ではあるが、かと言って馴れ合いの雰囲気はない。客はほとんど男、そしてスーツを着ている客は半分以下である。作業服の人も目立つ。そういう人は目の前に生ビールのジョッキが必ず置いてある。仕事の疲れをひととき癒すために座っているのだな。また隣を見れば、比較的上品な老人が腰掛けている。定年はもう過ぎた感じだな。この店に寄るのが日課なのかもしれない。いわしの煮付けを前に徳利を傾けている。その向こうの人はスポーツ新聞を片手に湯豆腐で一杯だ。みんな自分の世界で粛々と酒を呑んでいる。それぞれ疲れているのかもしれないがそれほど暗い表情をしている人はいない。一杯の酒はやっぱり心を和ませてくれるのだなあ。
 僕はと言えば、まずビールの小瓶を一本。大ジョッキでは多すぎるのだ。そしてそれを手酌で一杯やっていると注文した厚揚げ焼きときずし(〆サバ)がやってきたので、燗酒を注文する。ここの燗酒は決して上等の酒ではないが、燗のつけ具合が実にいい。熱すぎずちょうどよいところでピタリと止めている。それをまた傾けながら、僕は読みかけの文庫本を鞄から取り出してページをめくり始める。食事の席で本を読むなど実に行儀が悪いが、そこは許してもらいたい。これがなんと言っても楽しみなのだから(家で本を読みながらメシ食べたら怒られるなぁ)。徳利が空になったのでもう一本。だんだん陶然としてくる。サバの締め具合がいい。生でもなくまた完全に締め切ってもいない。甘みが感じられる。酒がすすむな。
 だんだん読んでいる文庫本の中身が頭に入りにくくなってきた。やっぱりこんな時に読む本は大久保利通の話などではなくて食味随筆なんかがいいのかな。でもまあいいか。そしてもう一本。ついでに玉ひも煮も頼む。鶏の玉ひもって言うのはキンカンとも言うけれど、これ甘辛く煮てあると美味いのですね。こういう煮物は既に作ってあるものだからすぐに盛られて出てくる。おやサービスでレバーも入っていますね。美味いのぉ。
 ちょっとぼんやりとしてきた。もうそろそろいいかな。僕は文庫本を閉じ、席を立つ。だいたいの滞在時間は一時間。これで十分満足なのです。
 さてお勘定。ビール350円、酒250円×3、厚揚げ250円、きずし200円、玉ひも煮150円。計1700円也。こんなもんでしょ(笑)。なんと言っても気軽に立ち寄れる。ほろ酔いになって電車に乗り込む。帰ればスポーツニュースでも見ながら茶漬けでも食べられれば重畳だけれどもねぇ。カミさんに電話しとこう。ああなんか幸せだな。
 こういうパターンが大好きである。何も上等の吟醸酒でなくてもいい。充足感が得られるならば僕はこっちを選ぶ。オヤジと言うなら言いなさい。
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乾杯の流儀

2006年09月23日 | 酒についての話
 「君の瞳に乾杯」

 格好いい台詞だ。これはご存知のとおり映画「カサブランカ」でイングリッド・バークマンの瞳を見つめながらハンフリー・ボガードが言う。こんなキザな台詞もボギーになら似合う。あの映画はモノクロで、しかもアップの場面では紗が掛かったりもしたから、ただでさえ美人のイングリッド・バークマンの瞳はキラキラと輝く。こんな女性の瞳になら思わず乾杯をしたくなるのはボギーだけではないだろう。
 ただ、こんな台詞はキザすぎて実生活では使えない。

 乾杯というのは、こんなふうに女性を口説く場合にも使えるけれども、たいていは宴会の始まりの合図みたいなものである。「かんぱーい!」と誰かが発声してそれから呑み始める。この合図は本来愉しいもののはずである。このあとは呑めるのだ。乾杯の言葉を聞くとパブロフの犬のように条件反射で頭が酒一色…というのが理想である。
 しかしねぇ…。ちょっとかしこまった席などでは「乾杯の挨拶」などというものが入ったりする。あれっていったいなんだろう? グラスに酒がゆき渡ったのをとにかく確認し「みんなグラスを持ったか?」などと言うヤツもいて、そしておもむろに「えー本日はお日柄も宜しく…」と始まる。お日柄がよろしいのはもうよくわかっているよ。「ただいまご紹介にあずかりました~」結婚式とかじゃないんだよ。「今日の会議は誠に充実したものでしたが、中には積極的に案件を提出しない人もいて…」おいおい、訓示どころか説教始めちゃったよ。あーあこれは長くなるな。
 かくして、ビールのグラスを持つ手が疲れ、ビールは温まり泡が消え去り、ほとほとイヤになった頃にようやく「乾杯!」と言う。なんでこんな儀式をやらなくちゃいけないんだよ。注いだら呑めばいいじゃん。酒の席で訓示とは困りものだが、どうしても訓示がしたければ酒を注ぐ前にやってよ。

 どうしてこんな「乾杯」が横行するようになっちゃったのだろう。
 そもそも乾杯の起源というものは、ものの本によるとたいていは欧米由来ということになっている。江戸末期に黒船が来て諸外国と付き合いをせねばならなくなった事から始まったと。
 どこでも言われることは、日英和親条約締結時の井上信濃守清直のこと。英国全権大使エルギン伯爵が交渉終了後の晩餐において、英国はこうした時に杯を交わす習慣があると持ちかけ、それに対して外国通の井上が「乾杯」と発声したと言われる。これが日本での乾杯の始まり。
 そもそも中国でも「乾杯(発音はカンペー)」があり、それを知っていて井上は「カンパイ」と言ったのかもしれず、必ずしも欧米から渡った風習であるとは判断出来ないような気もするのだがなあ。
 それに、それまで日本に杯を交わす習慣が全くなかったわけではないだろう。すぐに思い浮かぶのは「水杯」である。ありゃ別れの杯だけど、戦勝祈願なんてのもあったはず。かわらけに酒を注いで立ったまま呑んでそれを割る、なんてのはあった。あれって一種の乾杯だな。
 ということは、おそらく世界的に行われていたことなのだろう。なんでも欧米に起源を求めればいいというものではないだろう。

 では、グラスを合わせるという習慣はどうか。これはやっぱり欧米かも知れない。というより宗教絡みか。
 酒には悪魔がいて、グラスをチンと合わせることによって悪魔をビックリさせて追い出す。しかる後に呑む、ということ。酒には悪魔が確かに存しているかもしれないけれども、まあ迷信の類か。グラスをチンといわせたくらいで酒の悪魔は逃げてはいかないって。
 それはともかく、日本ではこのグラスにチンを形だけ踏襲した。それはそれでかまわない。ただ、この習慣って結構面倒だったりするのだ。
 その宴席に10人いたとして、その10人全員にグラスを合わせないと気がすまない人が必ず一人くらいはいる。向かい側の人とも隣の隣の人ともグラスを合わせようとする。その人は全員とグラスを合わせないと失礼だと思ってやっているのかもしれないが、手を伸ばしてあの人ともこの人とも合わせないと…とやっている。席を立って遠い場所の人とまでグラスを合わせる。時間がかかってしょうがない。一度チンといわせれば悪魔は逃げていくのだから隣の人とだけでいいじゃないか。早く呑ませてくださいよ。
 ワイングラスでもこの乾杯をやろうとする人がいる。薄手の上等のワイングラスだと、「チン」というより「こおぉぉん」という音がして、なんだか割れちゃいそうな怖さがある。もう、グラスを目の高さに上げるくらいで済ませて欲しい。いちいちグラスをぶつけていると本当に割れてしまうぞ。

 ということで、だんだん「乾杯」という行為がうっとおしくなってくる。酒を呑みだす合図としてだけとらえてくれないものか。儀式化すると面倒だよ。でも、頑なに「グラスは全員と合わせるもの」ということを信じてやっている人がいるので無下に否定もできない。悪魔の話なんてしたら酒席でヤボだからなあ。
 さらに「乾杯」という言葉を言葉どおりとらえて、「乾杯したのなら飲み干さなくちゃ」という御仁も必ずいる。これも困りものである。
 「ささぐーっといけ。」確かに乾杯の意味はそうだよ。杯を乾かす(一滴残らず飲み干す)ってこと。しかしこれも、昔、酒の中に毒が混ざってないかどうかの確認のために主催者が飲み干し、しかる後に客側が飲む、ということに由来するもので、今じゃ毒殺なんて考えられないし、酒は店が用意するもので、主催者がディキャンタに移し変えてそれを振舞うなんてことはめったにあるわけじゃなし。
 それに、主催者が飲み干せばいいことで他の人は別にイッキ呑みしなくてもいいはず。
 また中国などの乾杯は、確かにイッキ呑みして杯の底を見せる、という風習もあるけれども、たいていは蒸留酒だから小さなグラスだし、その風習を日本の宴席始めの乾杯に持ち込まなくてもいいのではないだろうか。
 日本にも「杯を干す」という習慣はある。「お流れ頂戴」というやつなどはそうだろう。ひとつの杯を共有することによって連帯感を生む。なので杯の酒を飲み干し、盃洗で洗って相手に渡し、そしてご返杯。この「献杯・返杯」という習慣は確かにあるが、これは「乾杯」とはまた別のことだろう。そこいらへんを混同している。高知の天狗杯(天狗の面の形をした杯で、底が天狗の鼻になっていて安定しないので飲み干さないと置けない)や、宮古島のおとーり(ひとつのグラスで宴席に参加したひとが順番に呑むやりかた。飲み干さないと次の人にグラスを渡せない)などの習慣と、宴席の最初に行う「乾杯」とは違うのだ。

 僕は、個人的には「乾杯!」という言葉は好きだ。さあこれから酒を呑もう、みんなで「お疲れさん」という意味を込めて酒を酌み交わそうという合図として。
 なので「乾杯」は酒への感謝の意味を込めたい。酒を醸してくれた杜氏さんに、そして酒の神である松尾様はじめ八百万の神に、またバッカスに。こんなに素敵な飲み物を僕たちに与えてくれて有難う、という気持ちで。
 だから、僕は一人でも乾杯する。酒で満ちたグラスを軽くさしあげる。今日の辛かったことは忘れよう。そしてこの目の前の酒に委ねさせてもらおう。クドクド話は不要だ。呑もうじゃないか。
 僕にとっての乾杯はこんな感じである。なので、まだ「乾杯」を口説きに使ったことはない。ボギーなみのカッコよさが欲しいなあ。
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冷や・常温・冷酒

2006年08月21日 | 酒についての話
 居酒屋で酒を呑むとき、僕はたいていは夏でも燗酒を頼む。これは以前から言っていることである。酒はその方が絶対に旨い、とまでは言わないが、まあ好みである。杯またはぐい呑みに注ぐ、という作業が好きという側面もある。これも好み。
 さて、毎日外で呑んでいるわけではなく、晩酌は圧倒的に家でする方が多い。家ではどうか。これは、今の季節だと「冷や」である。一升瓶からそのままコップに入れて呑んでいる。暑い、ということもあるし、燗をするのが面倒であるということももちろんある。女房は料理は作ってくれるが酒の世話までしてはくれない。別に湯煎にせずとも、手抜きで電子レンジに入れれば簡単なことだが、もう暑いとそれすら面倒だ。なのでコップ酒である。

 と、コップ酒の冷やに身体が慣れた夏、外でも「もう燗酒はいいかな」と思う時がある。先日、とある居酒屋で、ビールから酒に移行しようとするとき、僕は、

 「冷やでちょうだい。コップで」

 と頼んだ。そう頼むと、なんだかアル中みたいだなと反省も少ししたりする。
 さて、店員さんは僕のところへ、いわゆる「冷酒」を持ってきた。ありますね、2合瓶か、また300ml入りの「生貯蔵酒」などと書かれたやつ。よく冷えている。これとコップをポンと置いた。

 「いやこれは頼んでいない。僕は冷やで、と言ったんだ」
 「ですから冷酒です」
 「だから冷酒は頼んでいない。冷やだ。一升瓶からそのままコップに注いでくれるやつ」
 「ああ常温で、ということですか」

 店員は、常温なら常温と言え、という態度。なんだとコノヤロー、と言いたい所だが、連れも居たので「そうです」と一言だけ言って終わった。しかし内心ではどうもおさまりがつかない。
 「冷や」と「冷酒」は違うでしょ?
 しかし、連れにそのことを言っても、「冷や」であれば「冷やした酒」と思うのが普通だろうというつれない返事。ううむそうなのか? 僕は納得がいかないのだが。
 おかげでその日は「常温」の酒を呑みすぎ、悪酔いをしてしまった。

 早速、ネットで検索して調べてみる。「冷や」と「冷酒」は違うだろう?
 想像で書いていて申し訳ないのだが、「冷や」なんて呼称はずいぶん古くからあったはずだ。時代劇にも登場すると記憶している。江戸時代には、酒を呑むには「燗」か「冷や(常温)」しかなかったはずだ。当時は冷蔵庫などなかったのだから。日本で冷蔵庫が普及したのなんて昭和のはず。それも、家庭にまで入り込んできたのは戦後だと思うぞ。ばあさんから、上段に氷屋さんで買った氷を入れて冷やした冷蔵庫の話を聞いたことがある。それよりも古い時代に「冷や」という呼称はあっただろう。ならば、「冷や」は紛れもなく常温を指すはずだ。
 …と、とにかくグーグル君で調べる。

 ところがですね、これが実にややこしいのです。
 いろいろ検索してみる。例えば「広島お酒スタイル」というHPに、「燗と冷やの表現と温度の目安」というのが載っている。それによると、

  涼冷え(すずひえ) 15゜C
  花冷え(はなひえ) 10゜C
  雪冷え(ゆきひえ) 5゜C

 これらを総称して「冷や」と言う、と書かれている。涼冷えとか花冷えなんて言葉は初めて聞いた。こういうのも日本酒文化の産物で実に趣きがあるな、とは思ったが、そうなると5゜Cでも「冷や」ということになる。「冷や=冷酒」か? うーん。

 しかし、昔は冷蔵庫なんてなかったでしょ? という僕の疑問に答えて欲しい。冷やって冬だけのものだったのか?
 これについて、山形の米鶴酒造さんのHPに以下のようなことが書かれていた。
・手軽においしく、「冷や」
水銀柱が上昇するにつれて、冷や酒がひとしおうまくなってきます。 昔から、夏に限らず日本酒のうまい飲み方とされてきた「冷や」。冷蔵庫などのないころから、酒好きのご先祖さまは、大きな酒徳利につめた酒を井戸や川で冷やしたり、酒のかめを涼しい蔵や氷室にすえておいて、賞味したそうです。
 ガーン!これって決定打? つまり冷やって冷やした酒のことなのか。
 しかし僕は負けず嫌いで執念深い。まだ検索を続ける。
 例えば、秋田県酒造協同組合さんのHP「日本酒歳時記」のひとつの記事。
本来「冷や」と言えば燗をしない常温の酒を意味し、「冷酒」というのは冷蔵庫で冷やしたり、氷を入れたものを意味します。
そして冷やす表現は、雪冷え(五度)、花冷え(十度)、涼冷え(十五度)などといって区別します。
 また花冷えとか雪冷えとかが出てきたが、ここには、「冷や=常温」と書かれている。うんうん。そうだろそうだろ。
 ブログ検索もやってみる。そうすると…
 「これで日本酒が100倍楽しめます!」に、「冷や酒は冷やした酒ではない!」という記事を見つけた。読んでみると、僕の主張とほぼ同じことが書かれてある。「冷やとは冷蔵庫のなかった時代の言葉です」「冷やとは本来「無燗・無冷」の酒の事である!」やったぞ。そうだそうだ。とても嬉しい。僕はこの記事にTBさせてもらうことにした。

 さて、なんでこんな混同が起こっているのだろうか。これではまだどっちが正しいとは言えない。
 そもそも、「冷酒」として流通している酒の定義はなんだろうか。普通の一升瓶に「冷酒」と書かれたものなどはあまり見ない。たいていは300mlの小さな瓶に入ってくるアレだ。
 あれには、「生酒」とか「生貯蔵酒」とか書かれている。定義を言うと、「生酒」とは「火入れをしていない」酒のことである。日本酒は、通常製造過程で2度加熱する。絞って貯蔵する前と、貯蔵したものを瓶詰めする前である。これは、品質維持のためである。火入れをすることによって、酵素の働きを止めて、それ以上酒が変化しないようにしているのである。これをしないと、どんどん酒は酵素によって味が変わっていく。また、雑菌も殺し、腐敗などが起きないようにする役割もある。
 これをしていないのが「生酒」。また、2度加熱するのが通常であるが、1度だけ加熱する、それも絞ったあとの火入れを省略するのが「生貯蔵酒」(生のまま貯蔵したということ)、そして、瓶詰め前の火入れを省略したのが「生詰め」と呼ばれるものである。
 これらは、生、またはそれに近い状態で供されているので、新酒のフレッシュさが生かされている酒と言える。しかし、冷蔵で保管しないと品質が変わる。当然のことである。なので「冷酒」として通常販売されている。
 日本で初めて冷酒(生酒)を販売したという酒蔵を検索で見つけた。愛知県常滑の澤田酒造である。→中京テレビHP
 これによると、昭和44年に初めて発売されたとある。今のスタイルの冷酒の最初は今から40年ほど前なのだ。
 また、「生酒」でない冷酒もある。「冷用酒」と呼ばれるもの。夏は冷やして呑んだら旨い、という発想から出来たもので、「月桂冠HP」によると、昭和初期だという。「召し上がり方」に「井戸に釣るか~」と書かれていたとあり時代を感じさせる。
 いわゆる「冷酒」の発祥はこういうことだろう。少なくとも昭和の産だ。

 では、いつから「冷酒=冷や」となってしまったのか。
 今回は引用ばかりで申し訳ないが、興味深い記事を見つけることが出来た。読売新聞の「食! 味な関西:日本酒は、冷やVS燗」という記事。
 これによると、「冷や」という概念・意味が常温から冷酒へと変わったことについて、1979年に白鶴酒造(灘)が出した「生貯蔵酒」のヒットから、という意見の他に、「1980年代の地酒ブームが分岐点」ではないかと考察されている。
「品質管理のため冷蔵庫で保存する店が増え、それが冷たいまま飲む流行を生んだのでは」と三井さん(註 大阪八尾・三井酒店店主、三井聖吉さん)。冷やしておいしいのは香りの高い日本酒だ。この流れは香りを重視した吟醸酒の人気へとつながった。(註・凛太郎)
 なるほど、この考察は頷ける。おそらく、生酒冷酒のブームだけではなく、この「地酒ブーム・吟醸酒ブーム」が「冷や」を「冷酒」に変えてしまったのだろう。

 「冷や」という言葉からはもちろん「冷やす」という意味が当然読み取れる。なのでこの言葉の変化は一見「しょうがないのかな」と思わせる一面もある。それにしてもたかだか四半世紀のことである。「冷や」と「冷酒」の混同は。
 そんな言葉の変化など「最近のこと」とも思える年齢の僕は、やはり「冷や」と言えば「常温」という意識から抜け出すことは出来ない。酒呑みはある意味頑固なのである。酒の温度とか細かいことばかり言う「器の小さい人間」であるというそしりは置いておいて。
 しかし、とりあえず納得できた。一応満足して、僕は今夜も「冷や」でコップ酒である。


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エンプティカロリー

2006年07月14日 | 酒についての話
 この前の日曜日、アサヒビールの工場見学に行ってきた。

 ビールなどの酒造会社は、他の業種と違って工場見学というものを恒常的に行っている所もある。基本的には手続きと予約が必要であるが、季節によっては申し込めば見せてくれる。
 ただし観光地化している工場などは常に見学を受け付けているし、フラリと行っても可だ。サッポロビール札幌工場やニッカ余市工場などは観光名所であり、僕も何回行ったことか。もちろんこれは試飲目的である。そんなウイスキーの蒸留過程など真剣に見ちゃいない。タダ酒呑み放題だけが目的である(実に不純だがある意味純粋とも言える)。

 有名どころでなくても、ニッカ弘前工場などは思い出がある。今はこの弘前工場は見学を受け付けていないが、約20年前、僕が旅行で弘前を訪れたときには、電話予約をすれば見学をさせてくれた。
 そのことを知った僕は、旅先で宿に泊まり合わせた何人かを誘って予約をした。工場へ連れ立って行くと、特に見学コースなどは整備されていなくて、広報のお姉さんが引率して丁寧に説明をしてくれた。それが終われば、会議室のような部屋に通されて、試飲をさせてくれた。お姉さん自ら何本かの瓶と水と氷を用意してくれて、実に丁寧な応対をしていただいた。
 実に感動した僕は、翌日も宿に連泊して、また数人誘い合わせてニッカの工場に電話をした。その中でもちろん僕だけは二度目である。
 応対していただいたのは昨日と同じお姉さんである(汗)。僕は恐縮しつつ、みんなの陰に隠れるようにして説明を聞き、そして試飲タイムとなった。
 昨日と同様何本かの瓶が並んだが、その中に昨日はあったアップルブランデーが無かった。青森県弘前はもちろんリンゴの産地。それを利用して弘前工場では「カルバトス(リンゴを原料にしたブランデー)」を醸している。香りがまるでバラの花のようにかぐわしく(リンゴはバラ科だからだろうか)、今日も楽しみにしていたのだ。しかしそんなことなどタダ酒で言えた義理ではない。しかし徐々に酩酊するうちに、恥などどこかに飛んでしまったのだろう。つい「お姉さん、今日はリンゴのブランデーはないの?」と言ってしまった。お姉さんは苦笑しつつ出してきてくれた。親切は本当に嬉しかったが、後で醒めるとホント後悔した。思い出すとギヤッと叫びたくなる恥ずかしさだ。無礼を許してください。工場はスナックじゃないんだよ。

 さて、アサヒビールである。アサヒビール西宮工場というのは、僕が住んでいるところから歩いて行ける範囲にあって、まれに工場見学を募集してくれる。今回は「アサヒプライムタイム発売記念 こだわりビアフェスタ」という広告が新聞に入っていて、「御予約制・入場無料・おかわり自由」という実に魅惑的なキャッチフレーズがついている。これは定員制なのですぐさま予約を入れて(すぐにいっぱいになる)、それで日曜日にフラフラと出かけたのだった。
 見学内容は割愛するが、約15分宣伝映画を見て45分見学、そして30分飲み放題というスケジュール。4種類のビールが用意されていて、看板のスーパードライ、黒生、プレミアム生「熟撰」、そして新製品プライムタイム。専用サーバーから熟練の方がグラスに注いでくれる。出来立てはなんでこんなに美味いのだろう。それにシロートが瓶から注いでは出せないこの泡のきめ細やかさ。僕はドライなど見向きもせずに、伝統の黒生と「熟撰」を集中的に飲んだ。「熟撰」美味いですねぇ。いやぁ何杯飲んだことか。昼酒の発泡アルコールというだけでキクのに、ちょうどW杯で寝不足だったことも重なり、僕は千鳥足となってしまったのだった。我ながらだらしが無いのは承知です。

 さて、ここまでは前置きでして… (゜ロ゜;)エェッ!? 

 工場見学のナビゲーターの方は、「ビールはよく太ると言われますが、それは一緒に食べるものが原因でして、アルコールのカロリーは体内に蓄積されません。ビールを飲むと太ると言うのは誤解ですので、みなさんももっとビールを楽しんでください」とおっしゃった。もちろんビール会社であるからビールの消費を控えられると困るわけだが、そこまで言い切っていいの? 本当なの?
 その場で配られた冊子には、以下のように書かれている。
缶ビール(350ml)1本のカロリーは約143kcal。これはご飯茶碗7分目に相当しますが、そのカロリーの3分の2はアルコールによるものです。アルコールはエネルギー源とはなりますが、グリコーゲンや脂肪として体内に蓄えられることはありません。ビールが直接の原因となって太ることはありません(以下略)。
 これはよく聞くところの「エンプティカロリー」という考え方だろう。一説によると、アルコールの持つカロリーは蓄積されずに全て発散されてしまうので体内に残らない。アルコールはカロリー以外何の栄養素もないので、結局一切痕跡を体内に残さないことになる。アルコールはempty(からっぽ)のカロリーである、という説である。
 一瞬喜ぶが、うーむ本当かな。
 確かに飲むと身体が熱くなる。発散しているのだろう。それはわかる。
 しかしながら、先の話だと「アルコールはエネルギー源となる」と明記されている。とすればカロリーであることは間違いない。確かに蓄積されないというのは本当なのかもしれない。しかし、身体が熱くなるということだけで全てのアルコールの持つカロリーを消費しているわけではあるまい。なので、アルコールを摂取したときは、身体維持に必要なエネルギーも全てアルコールのカロリーで補われることになる。喋るのも心臓を動かすのもアルコールのカロリーが優先されると言っていいかもしれない。
 人間はアルコールだけでは生活できない。メシも食べれば肉も食べる。そうして酒を呑めば、とにかくアルコールカロリーを優先消費するために、同時期に摂取した食べ物のカロリーを使うことなく蓄積してしまうだけではないのか。飲まなければ消費されるはずだった食べ物のカロリーを後回しにしてしまうだけ。アルコールカロリーは残らないがその分食べたもののカロリーを優先的に蓄積するとも言える。結局、アルコールを含めた摂取カロリーの総トータルで考えなければならないのは同じことじゃないか。アルコールのカロリーは確かに先に消費されてしまうが、カロリー消費の順番なんて関係ないよ。

 だから、つまるところこれは「詭弁」である。アルコールを摂ると確かに顔が赤くなり身体が熱くなるから代謝はよくなると言っていいかもしれないが、だからと言ってカロリーゼロと同じと考えていいわけがない。先の引用文で「ビールが直接の原因となって太ることはありません」と明記されているが、そんなことはないだろう。アルコールは、自分の持つカロリーは優先的に消費させて、他に食べたもののカロリー消費を後ろに追いやって蓄積させる役割を果たす。確かに直接ではないが蓄積の原因になっているじゃないか。たとえ全く食べ物をを食べなかったとしても、体内脂肪やグリコーゲンの消費を抑制してしまうわけであるから同じことだと思われる。
 それに、蒸留酒でないビールにはアルコール以外のカロリーもちゃんとあるはずである。上記の文にも「そのカロリーの3分の2はアルコールによるもの」と書かれている。と言うことは3分の1は別のカロリーじゃないか。しかもその3分の1カロリーはアルコールカロリーを消費し終わった後に使われる。つまり備蓄されちゃうのだ。
 危うく騙されるところだったじゃないか。エンプティカロリーなど幻想である。

 そこまで思い至って、僕は正義感を持ってナビゲーターの人に、

 「アルコールを摂取しても太らない、というのはアルコールのカロリーが優先消費されるだけのことではないですか。ビールに罪はなく一緒に食べるもののカロリーのせいにするのはレトリックだと思います。公共広告機構に言いつけますよ」

 と言おうと思ったのだが、そんなことを言って試飲会場からつまみ出されては困る。なので黙ったままビール飲み放題の幸せを享受した。この態度は実に不純と言えば不純だとは思うが、やはりある意味純粋とも言える(笑)。
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親父の果実酒

2006年06月07日 | 酒についての話
 このところ、寝る前に果実酒を呑んでいる。
 かつてブログを書きながらの一杯というのはウイスキーやブランデーだったはずなのだが、今はイチゴ酒やあんず酒となっている。全くどういうことになってしまったのか。
 といって、好みが変わったというわけではない。連日呑んでいる理由は、とにかく家にたくさんあって場所をとるのだ。4ℓ入りの巨大瓶がゴロゴロ。呑んでいかないと「足の踏み場もない」は大層な言い方かもしれないが、実際同居人はつまづいている。その多くを台所に並べているため顰蹙をかっているのだ。
 こんなふうに家が狭くなってしまったのは、僕の親父のせいである。

 僕がまだ少年の頃の話。
 親父が買って来たのかどこかで貰ってきたのかの記憶は定かではないのだが、うちにでかい果実酒用の瓶と、いちごのパック、氷砂糖と焼酎が並んだ。
 「いちごのヘタを取れ」
 と親父は子供たちに命令し、ヘタを取ったらよく洗って水気をとり、氷砂糖と酒を瓶に入れて密封した。
 「これから酒を密造するのだ。ふふふ」
 などと子供向けに楽しそうに親父は言っていたが、これが密造などではないことなどいくら小学生でもわかる。いわゆる「果実酒」作りである。
 そうして何ヶ月か経った。酒に漬け込まれたいちごの色が抜けた頃、親父はいちごを取り出して一口呑んで、「あんまりうまくいかないな」とひとりごちていた。当方は子供なので呑んでいないしわからない。
 取り出したいちごをおかんは火にかけアルコールを飛ばしながら煮て、色の悪い(いちごは色素が抜けて既に赤くない)ジャムが出来上がった。これは子供の口にもわかる美味さで、すぐに消費されてしまった。あとには「あんまりうまくない」赤い果実酒が残った。
 子供であった僕は果実酒に興味はなく、それきりどうなったかは憶えていない。だが親父は悔しかったのか、それ以来毎年果実酒を作っていたようなのである。いちごだけではなく、かりん、びわ、あんず、ライムとさまざまなものを漬け込んでいたようだ。
 そうして幾年月。僕は成人して家を出た。果実酒なんてものの存在は忘れていた。

 あるとき実家に帰ったときのこと。ごく最近のことである。
 おかんが僕に言った。
 「おとうさんが作ってた果実酒、物置にいっぱいなんよ。ホンマどないしたらええんやろ」
 「?!」

 あれから親父は果実酒を作り続けていたのだ。それが呑みもせずに物置に山積みになっていて場所をとってたまらんのだとおかんが愚痴る。まさかずっと作り続けていたとは。物置には4ℓの瓶がなんと40瓶ほどもあっただろうか。唖然としてしまった。
 親父に僕は言った。

 「こんな呑みもせんもんをどないするんや。おかんが困ってるで」
 「うるさい(ちょっと小さい声)」
 「そうかて、おとんは自分で呑まへんやんか。そやのに作り続けたんかいな」

 言い忘れたが、親父は下戸なのである(汗)。
 おそらく呑もうと思って親父は作っていたのではないだろう。作ること自体が面白かったのに違いない。ストレス解消だったのかもしれないが、果物を酒に着けて蓋を密封し、日付を書き込んで仕舞う、時々眺める、そういうことで楽しんでいたのだろう。好事家の部類である。

 「これは、老後の楽しみにとってあるんや。お前にとやかく言われる筋合いはない」
 「そんなもん…」

 70をとうに過ぎて今がもう既に老後やないか、と言いかけて僕は言葉を飲み込んだ。こう言えば意固地になるに決まっている。しかし歳をとってますます酒に弱くなっている親父が、この4ℓの酒の山を呑み切れるわけがない(呑む気もないのに)。
 親父の気持ちもあるのでこのままずっと(一生)置いておくという手もあるのだが、とにかく場所をとるのでおかんの忍耐も切れかかっている。この酒のせいで仕舞えないものが溢れているのだと言う。僕は親父をなだめすかし、僕も呑みたいので分けてくれないかと頼み、そのうちの半分程度を車に山積みにして帰った。おかんは「ああすっきりした。あと半分もいずれ持っていって」と僕に言い、晴れ晴れとした顔をした。

 うちに帰り、それらの瓶を眺めた。普通果実酒は1~2ヶ月程度で中身を取り出す。しかし、これらはまだ果実が入ったままである。作りっぱなしで開けることを全くしていない。日付を見れば、なんと25年前のものまである。本当にこんなものが呑めるのだろうか。
 おそるおそる蓋を開ける。25年経ったいちご(驚)を取り出し、そのいちごはさすがにジャムにもならないので処分し、一口呑んでみる。大丈夫だろうか。

 「あ…呑める…」

 なんと言っても香りが素晴らしい。芳醇と言っていい部類に入るのではないか。口当たりはまったりとしている。「あんまりうまくない」はずだったものが、歳月を経て熟成したのだろう。なんせ25年モノなのだ。
 しかし…さすがに下戸が作った果実酒である。ものすごく甘い。砂糖をもう少し加減していたら、貴腐ワインのように味わい深い立派なリキュールであったろうに。惜しい。砂糖を控え、果実をちゃんと取り出して保存していたら。物置は温度管理もなされていない。しかしそんな悪条件にも関わらず酒は生き続けたのだ。

 親父に電話をした。
 「いやぁ美味かったで。さすがは親父やな(我ながら口が達者である)」
 「そうかそうか。ほんならワシも呑んでみるかな」

 この果実酒は甘すぎるのだが、逆に下戸には口当たりがいいだろう。ただ密封してあったので結構アルコール度数を保っている。調子に乗って呑むと親父が心配だ。

 「今度行くときに開けよう。一緒に呑もうや」

 監視付きでないととても呑ませられない。いい歳なんだけれどもアルコールに対する免疫が親父にはないからなぁ。
 しかし、果実酒の実力は凄いと思い知った。なんだか僕も作りたくなってきた。もう少し砂糖を控えてちゃんとお世話をして育てればもっと芳醇なリキュールに成長するはず…。
 そういえば僕も、親父が果実酒を作り出した年齢に近づいている。そのことに気がついて苦笑しながら、今夜はかりん酒のオンザロック。

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古酒(くーす)の深遠なる世界

2006年05月08日 | 酒についての話
 沖縄の世界に冠たる蒸留酒、泡盛。泡盛の旨さについては常日頃から言い続けていることであるし、もう特に語ることとてないのであるが、先日沖縄に行って、久々に古酒(くーす)を堪能してきた。

 普段僕は、酒に関しては「質より量」の人間であることは常々このブログでも書いてきていることで、日本酒では三増酒(日本酒テイスト飲料)だって呑むし安ウイスキー(ウイスキー風飲料)もよく呑む。そんなもの酒じゃない、上質の純米酒やスコッチでないと酒とは認めない、と言えるほどのグルメでは残念ながらない(フトコロも対応しない)。しかし、時々は上質の酒も呑む。山廃純米大吟醸をじっくりと呑み、本当の馥郁たる酒の旨さを再確認する。いつも旨い酒ばかり呑んでいては酒の価値がわからんじゃないか、などと理屈をつけ(本当は上等の酒ばかり呑めるほどフトコロが温かくない)軽重をつけながら、ハレとケを使い分けながら酒をいつも楽しんでいる。

 泡盛も、普段はごく普通のものしか呑んでいない。近所のリカーショップでお手軽に手に入るのは「瑞泉」「菊之露」「久米島の久米仙」などである(これらの酒が良くない酒だとは全く言っていない。それどころかみんな旨いぞ)。しかしながら泡盛には、古酒(くーす)という楽しみ方がある。
 泡盛は長期熟成に耐えうる酒である。貯蔵熟成させることにより、味わい、香りに深みが増す。基本的には3年以上貯蔵したものを古酒と呼ぶことが出来る。

 さて、ここで僕の酒の知識が浅薄なために答えの出ない話を始める。熟成とはどういうことなのか?
 客観的には、発酵が終って(蒸留酒の場合は蒸留が終って)酒として一応完成した後に、すぐに呑まずに時間を経過させることによって、酒の品質に変化をもたらせることだろう(もちろんいい方向に変化、だが)。具体的には香り、味わい、口当たり、色などが変化し、まろやかに旨みが出た状況になることを言うはずである。じゃなんで時間を置くことによって変化し品質が向上するのか、と言われれば、全然知識が僕にはない。
 それはともかく、酒は醸造酒も蒸留酒も熟成させて呑むことが多い。醸造酒であれば、ワインなどは年代物と言われ、長期熟成させたものが多い。飲み頃を見極めるのがワインでは最も重要なこととされているほどである。それについては細かなウンチクもあるのだがさておき、日本酒も熟成させている。タンク貯蔵もおこなっている。ちょうどいい熟成加減を見極めて瓶詰めされている。見極めは「利き酒」によってされるのはよく知られるところ。ビールさえも熟成過程があるらしい。
 蒸留酒は、ウイスキーやブランデーが樽熟成されているのはご存知だろう。シェリーの空き樽に入れられ5年、10年と熟成されるスコッチ。
 ところで、樽貯蔵にも限界がある。ウイスキーもブランデーも30年くらいが一般的だとされる。これは、樽に入れて貯蔵している間に、毎年1%程度アルコールが蒸発していくからである。樽は木で出来ていて、完全密封のようでそうではない。木は呼吸するのだ。なので毎年少しづつ減って行く(これを「天使の取り分」と言う)。例えばコニャックの原酒はアルコール分70度程度なので、毎年1%づつ天使がとっていくと30年で40度となる。これが限界ということか。そして、蒸留酒の場合はワインのように瓶詰された状態で熟成が進むものではなく、樽から出して詰めれば終わり、というものであるらしい。シーバスのロイヤルサルート21年を、9年間置いておけば30年物になるな、ということではないのだな。
 この理屈からいくと、ロイヤルサルートの50年、また最近のサントリー山崎50年(なんと100万円で販売! !)などは原酒が90度あったのか? まあそこいらへんがよくわからない世界なのですね。

 さて、泡盛である。泡盛は樽ではなく甕で貯蔵する。簡単に言えば、木が呼吸するように土も呼吸する。なので、金属タンクで密閉されるよりもずっと熟成にはいいことになる。
 使用される甕(または壷)も選ばなければいけない。黒いものが一般的にはいいとされる。赤いと、焼き締めが弱くアルコールが逃げやすいからだとも。また釉薬が塗られていると泡盛が窒息するので素焼きでないといけない、など。アルコールの蒸発を最小限に抑える工夫をしているので、樽よりも長期熟成に耐えるのか。30年が限度ということはない。
 戦争でほとんどが破壊されたと言われているが、戦前には100年、200年物の古酒が実際にあったらしい。凄いな。それらの古酒は、例えば100年物を少量呑んだ場合、50年物からその分を充当してまた蓋をする。少し若い酒を入れることでさらに活性化し熟成が進む効果もあったと言われる。50年物の甕には30年物から補充する。このようなやり方を「仕次」と言い、そうして品質を均一に保つ工夫がなされていたらしい。
 現存する最古の泡盛は140年物があるらしいが、こんなものは、もう文化財である。戦後醸されたもので、既に50年物はあると聞く。しかしこんなのもとても手が出ないよなぁ。
 それにしても、泡盛の寿命の長さには恐れ入る。ここいらへんの秘密が「酒の知識が浅薄なために答えの出ない」ことなのだけれど、ウイスキーやブランデーはここまでの貯蔵熟成は難しいに違いない。ワインは瓶詰めされての熟成とはいえ、醸造酒ゆえに飲み頃というのが存在していて、長い時間経てばいいというものではない。白ワインは早く(ブルゴーニュの最上のものでも10年)、赤は比較的期間が長い(ボルドーでも最上で50年)とは言われるが、100年は考えられまい。
 さらに不思議なことは、蒸留酒である泡盛であるが、瓶詰めされた後も熟成が進む、というのである。ここいらへんのことは全く理屈がわからない。いろいろ教えてもらうのだがイマイチよくわかっていないのである。すみません。しかし、実際に瓶詰めされた泡盛を寝かせて古酒にしているとはよく聞く話である。冷暗所に保存して温度管理に十分気をつければいい、とのこと。なので、居酒屋などでは自主的に泡盛を温度管理し、丁寧に保存して古酒にしているところもある。また家庭でも古酒作りが普通に行われる。床下などに紙で包んで置いておく他、沖縄の人はよく墓の中に入れておいたりするらしい(沖縄の墓は大きく、一族郎党のお骨を全て収めるために「横穴式古墳」のようになっている。「亀甲墓」といわれているものが代表。酒の保存には最適だ)。

 このようにして古酒は酒蔵はもちろんのこと、居酒屋でも家庭でも作られる。こんなことは他の酒ではない(ワインセラーで高級ワインを寝かせるという場合がこれに近いか)。酒を旨くすること、極端に言えば酒造りの過程に庶民も加わっているという事も言える。これは実に素晴らしいことで、裾野が広がるだけではない値打ちがあると思うのだが。こういう可能性も含めて、泡盛は本当に素晴らしい酒であると言える。

 さて、那覇には泡盛古酒専門の酒場が何軒もある。こっちで言う「銘酒居酒屋」みたいなものか。様々な蔵元の自慢の古酒をショットで呑ませてくれる店。実にありがたい。
 「山原くいな」「山川 」「春雨」などの古酒をショットで。大好きな「すーちかー(豚三枚肉の塩漬け)」を食べながらストレートでちびりちびり。ここまでくれぱ水で割ったりオンザロックにするのはもったいない。生のままで、水を別に飲み舌を常にクリアにしながらゆっくりと。その鼻から抜ける馥郁たる芳香。新酒にあるピリピリした感じや刺激臭は全く無く、舌に滑らかに広がっていく。これですよ、これ(笑)。少しづつ酩酊していくのは自覚しているのだが、それでも「もう一杯…」の幸福を手放したくない夜半過ぎの那覇の街…。




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「俺の酒が呑めないのか」の心理

2006年04月03日 | 酒についての話
 「上戸と下戸」の記事を書いていて思ったのだけれど、何故酒呑みは、同席している他の人にも呑ませようと思うのだろうか。

 単純に考えれば、酒が好きであれば自分がより多く呑みたいはずだ。そこに一本のビールがあったとして、3人居た場合、どうやって自然に2杯分呑めるかを考える。それが普通だと思う。
 中華料理で大皿が配膳され、6人で海老の老酒漬けが10尾あったとき。美味いとわかっているので、なんとかして自然に2尾食べることを考える(セコい、同席者に思いやりがないという考えはこの際置いて)。こんなときに「私エビアレルギーなんです」という人がいれば、ああみんな2尾づつ食べられるな、と思ってホッとする。
 ところが、海老を酒に置き換えると、状況が変わるのだ。食べられない(呑めない)と言っている人にも無理にすすめる。海老ならば「俺の海老が食べられないのか」などという人は皆無であるはずなのに。これは不思議な心理であると思う。

 原因はいくつか考えられる。
 最も好意的に受け取るとして、「こんなに美味いものを自分ひとりで味わっては悪い。分かち合いたい」だろう。びっくりするほど人が好くて、しかも思慮が浅い人ならこういうことはありえるかもしれない。自分が呑んでこんなに美味いものを他の人が呑まないなんて考えられない。これは遠慮しているのだ。だから、とにかく呑ませてあげたい。
 稀にこういう人は存在するかもしれない。しかし、こりゃ主流じゃないだろう。

 主流は(本音は)これであろう。「自分だけ酔っ払いたくない」
 誰しも「酔う」という行為にはある種のカッコ悪さを認めているのかもしれない。酒に酔うということは、すなわちどうなるかというと「意識が拡大する」→「楽しいことはより楽しく、悲しいことはより悲しくなる」→「深層に隠れていたものが浮かび上がる」→「本音と建前の区別がつきにくくなる」→「自制心がなくなる」「言っていいことと悪いことの区別がつかなくなる」→「自意識が崩壊する」…こんな感じだろうか。いやはやひどいことになってしまう。
 日頃、自分を律している人ならなおさら、こんな姿を見られたくないだろう。しかし呑んでしまった。これを覆い隠す手段はもう一つしかない。同席者を共犯者にしてしまうことである。
 相手も酔っ払ってしまえば安心である。同じ地平に立てる。何を言ってもそれは「酒の上のこと」なのだ。
 しかし、相手が酔っていないと自分が不安だ、などと言うのはみみっちくないか?

 こんな考えで相手に酒をすすめるのは間違っている。酒というものは造り手が精魂込めて醸したもので、それをただ「酔う」ということのみを目的として消費するのでは酒が泣く。酒はまず味わい、喉に流れ込む感覚を悦び、ともに食べるものを引き立て、気持ちをよくさせるものである。極論すれば、酔っぱらうというのは副次的なものだ。酒の良さは酔うことだけではない。酒はドラッグではないのだ。
 しかし、ウサを晴らしたい、忘れたいと思って酒を呑むことはもちろんあるだろう。そういう場面では大いに酒にすがりなさい。いかに酔うことが副次的であっても「酒が己を救う」のならば酒は納得して酔うために威力を発揮するだろう。
 而して、酒を、相手を共犯にせんがために呑むとは何事か。酒が泣くぞ。「シラフ相手に酒が呑めるか」それなら呑まなければよかろう。

 さらに、もっと酷いことに「酒を呑ませて本音を聞きたい」などと言う会社上司がいる。言語道断だ。「まー呑め」「ぐぐーっといけ」そうして自分よりも酔っ払わせてどういう対応をするのか見る。考えられないことだ。酒に対する愛情は微塵もない。
 酒に頼らないと本質が見抜けない自分の不明をもっと恥じるべきだ。こんな上司についていく必要はない。
 逆に言えば、自分の方が酔っ払って相手が酔っていないと、相手に「観察眼」を発揮されるのがイヤなのだろう。だから「俺の酒が呑めないのか」で相手の観察眼を奪おうとする。自分に自信のない証拠だ。

 だから、僕は酒が好きでも「酒席」が嫌いな人間になってしまう。いや、気の置けない人たちといっしょに酔っ払うのは楽しい。だが、「酔わせて罠にはめようとする酒を愛さない人たち」と一緒に酒を呑むのは気分がよくない。酒というものをいったいなんと心得ているのだろうか。
 こうして、僕は「酒は独酌に限る」という人間になってしまう。呑んでいて最も安らぐのは一人で呑むときだ。家ではいつも独酌であるが(女房も時々は呑むが)、外でも一人で呑んでいるのは愉しい。安い居酒屋の片隅で、ちょっと行儀は悪いかもしれないけれども読みかけの文庫本を開きながら一献傾けるその悦びを、「俺の酒が呑めないのか」の世界の人に邪魔されたくない。


 さて、蛇足。ちょっと矛盾した話を。
 ここまで偉そうなことを言ったけれども、呑まない人は、出来れば酔っ払いに少しは優しくしてくれないだろうか。「冷静な観察眼」を発揮して、熱弁を振るう僕に「凛太郎さん酔っ払ってますね」と冷たく言わないで欲しいのだ。これは結構キツい。呑めばやっぱり酔うのです。酔えばカッコ悪いことなど知っています。もし迷惑をかけたとしたらそれは別で、きっちり言ってくれたらいいけれども、人畜無害なら笑っていて欲しい。
 あなたに無理にはすすめませんから、「ああこの人酔っているな」と思っても心の中で思うだけにして欲しい。お願いです。僕は「お前も呑め」とは決して言いませんから。

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上戸と下戸

2006年04月01日 | 酒についての話
 桜の花も地方によっては開花、呑めや歌えやのシーズンがまたやってきた。僕は花見については、「花見酒1」「花見酒2」で書いたとおりさほど乗り気ではないのだけれど、まだ呑めるだけマシと言える。僕のごく親しい友人に、この季節が本当に憂鬱だとボヤく男がいる。それは何故かと言うと、彼は下戸、アルコールを受けつけない体質だからだ。なのでこの時期は大変だ。「俺の酒が呑めないのか」と叫ぶ品の悪い酔っ払いが増殖するこの季節は。

 さて、ちょっと話がそれるけれども、この「上戸と下戸」という言葉、これはどこから来ているのか。これはものの本によると様々な説があるらしい。
 一応の定説は、古代律令制からきているということ。律令の規定では、「大戸」「上戸」「中戸」「下戸」の四等戸が定められていた。もちろんこれは税の徴収のための制度で、成人男子がひとつの家に何人居るかを区別するためのもの。3人以下を「下戸」、4~5人で「中戸」、6~8人で「上戸」、それ以上で「大戸」とした。また律令は細かく「庶民婚礼、上戸八瓶下戸二瓶」と、おそらく酒を宴席でどれだけ呑んでいいかとの規定もあり、そこから転じて、たくさん呑んでいい(呑める)人を上戸といい、呑めない人を下戸と呼ぶようになったとか。
 これには異説もあり、中国から来ているとの説もありややこしい。学者じゃないので分らないが、かなり昔から伝来の言葉であることは確かなようである。
 またもう一つ、「左党」という呑んべを表わす言葉もあるが、これは大工さん(鉱山で働かされた人夫からとも)は右手に槌を持ち、左手で鑿を持って作業する。この左手に持つ"ノミ"から"呑み"を連想した言葉遊びだと言われる。昔から呑んべは洒落が好きだ。

 今は呑める人を上戸、呑めない人を下戸というのが定着しているけれども、下戸の人は大変だ。僕の父親はビール一杯で顔が真っ赤になり寝てしまう。こういう父親からどうしてこんな呑み助の息子が生まれたのかは全く不可解だが(→隔世遺伝)、実際に呑めない人はいる。奈良漬でもう気分が悪くなる人もいる。これは大変だろう。粕汁もダメだし、紅茶にブランデーもダメだ。ウイスキーボンボンを間違って普通のチョコレートだと思って口に入れて死ぬ思いをした人もいる。
 これは、今ではよく知られていることだけれども肝臓にあるアルコール分解酵素の差である。アルコールを呑むと、体内でアセトアルデヒドという物質になり、アルコール分解酵素によって酢酸と水へと形を変え、最終的には二酸化炭素と水とになる。しかしこのアルコール分解酵素をまったく持たない人は、アセトアルヒデドが分解されない。アセトアルヒデドは有害で、つまり悪酔いする。

 こんなの体質の問題で、呑めない人はしょうがないのだ。こうして科学的に説明がつくのだが、いまだにタチの悪いオヤジは「鍛え方が足りない」などと暴言を吐く。こういう独りよがりで自分勝手なオヤジが、酒呑みの評価を下げている事に気が付かないのか。

 だがしかし、僕も昔はこういう顰蹙もののセリフを言ったことがあることを反省しなくてはならない。アホだったなと恥じ入るばかりだ。
 学生の頃。女子学生の少ない学部に居た僕は、コミュニケーションと言えばまず「酒」だった。とにかく大人に憧れ呑めることが男らしいことだと思っていた時代。
 スタートはみんな呑めない。僕も初めてのコンパではひっくり返った。だが、徐々に慣れ、大酒が呑めるようになってくる。一合が二合、そして五合から一升酒へ。酒豪と言われることに悦びを感じ、吐いても吐いても呑む。そうして大酒が平気になってくる頃、自分が呑めるようになったのは肝臓を鍛え上げたからだ、という勘違いの自負が生まれる。子供の発想だが、「俺は呑めないんだよ」などと言う学友には「俺かて最初は呑めへんかったんやぞ。それを呑んでは吐いて鍛えたんや。お前も成長しろ」などと言って無理やりに呑ませた。今で考えればあれは暴行、傷害容疑がかかるな。知識がなかったのだ、という言い訳は通用しないだろう。今では平謝りしたい気持ちでいっぱいである。

 その後、僕は世間も知り知識も増え、呑めない人が存在することを認識していく。これはあたりまえの話だ。酒席で苦労したり、接待に酒が使えないので麻雀やゴルフを覚えざるを得なかった人に対しては心から大変だなあと思う。もっとアルコール分解酵素のことは認知されてもいいのに、と思う。いや、認知はされているのだがこれは性格の問題なのかもしれない。いまだにいい歳をして「鍛え方が足らん」という傍若無人なオヤジはどこか欠陥があると言っていいのではないか。

 僕はと言えば、そういうオヤジを諫め、皆が気分良くいられるようにコントロールをしなくてはいけない年齢となっている。ケンカせずにうまく場を収めるのはなかなか難しい。やはり温和な人たちと酒を酌み交わすのがラクである。
 呑めない人とも酒席を共にする機会は多い。だが、僕は昔のように「呑め」などとはもう言わない。むしろ、呑めない人と一緒だとこちらが奢らねばならないときには「助かった」と思うし、割り勘だと明らかに得をする。有難いことだと思う。
え、これってただ計算高くなっただけ? これってセコいよね。これは僕にも性格に欠陥があるのかもしれない。やっぱり反省。


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カップ酒について

2006年02月24日 | 酒についての話
 昨年あたりからカップの日本酒が静かにブームらしい。うーん、それは知らなかった。先日、「え、カップ酒のブームを凛太郎さん知らないんですか?」と言われた。そんなに流行を追っているわけではないので知らないものは知らない。
 どうも僕は人から「B級グルメ」の専門家のように思われているらしく、時々ウイスキーのポケット瓶について熱く語ったりするのでカップ酒も愛好家だと思われていたフシがある。いやそんなことはないのですよ。カップ酒はどちらかと言うと避けていたのが現状である。
 別にカップ酒の主流がかつては普通酒もしくは三増酒であったからというわけではない。三増酒にもそれなりの価値を認めている。グルメな日本酒愛好家のように添加酒(日本酒テイスト飲料)を蛇蝎の如く嫌っているわけではない。
 カップ酒を避けていたいちばんの理由は、

 「フタを開けるときに必ず溢してしまう」

からである。なんせ不器用なもので(汗)。
 あの「パカッ」と開ける式(何と言うのだろう? 缶ジュースのプルトップ式とはちょっと違うが)のフタがどうも苦手である。力の入れ方に問題があるのかもしれないが、いつも失敗する。なのであまりカップ酒は…。

 さて、カップ酒と言えば「ワンカップ大関」である。大関のHPに「ワンカップ倶楽部」というのがあって、そこを覗くとワンカップ誕生の背景がわかる。
 最初の発売は昭和39年。へー生まれる前だ。そもそもはヤング向け商品として売り出したことがわかる。「ヤング」という言葉に時代を感じる。その当時のヤングは今はおっちゃんだもんな。日本酒、といえば一升瓶であり、せいぜい四合瓶がわずかにある程度で他に選択肢が無かった頃、この「ワンカップ」は画期的だったのだろうと思う。駅の売店でもすっと買える。缶ビールと十分に対抗出来る。なおご承知のこととは思うが「ワンカップ」は大関の登録商標である。

  狭い日本も旅すりゃ広いよ 旅はその日の風まかせ
  切符は一枚 どこまで行こうか おいらの人生 ひとつだけ
  ワンカップ ワンカップ ワンカップ大関

 このCMソングを記憶している人も多いだろう。これは高石ともやとナターシャセブンの歌で、名盤「107ソングブック」にも収録されている。旅先での酒、というイメージもあったわけだ。やっぱり若者がターゲットである。

 ところで、カップ酒ブームである。カップ酒のイメージとは、どちらかというと疲れた中年のおっちゃんがあおる安酒のイメージが強かったのだが、そんなイメージを昨今は一新しているらしい。大吟醸がカップに入って売っていると聞いたときにはビックリした。
 そのカップ酒を低迷する日本酒界の起爆剤にしたい、という意向が働いたらしい。
 確かにカップ酒の容量はほぼ一合だ。気軽に買えるという利点はある。日本酒界は低迷しているものの、美味い酒は実に豊作の時代だ。各地方で小さな蔵が妍を競っている。そういう蔵は、自信のある酒を「テイスティング」してもらいたいだろう。それにはカップ酒は最適である。
 雑誌が各地方の蔵元が出す、なかなか全国には出回らないカップ酒を取り上げ、酒屋も地方のカップ酒の品揃えを始める。カップ酒も品質を向上させ、純米吟醸だの山廃だのと驚きのラインナップを出してくる。なるほど、これはなかなか凄いことになっているな。三増酒など彼岸のことらしい。
 聞くと、カップ酒専門店まであるらしい。「カップ酒バー」だとか。確かに全国様々な地酒を気軽に味わえるといいかもしれない。銘酒居酒屋でも呑めるだろうが、こちらの方が安直だ。

 かくして、雑誌などで大々的に取り上げられ、酒造界も「日本酒離れ」をストップさせる起爆剤として大いに期待を寄せている由。そりゃそうだろう。今の若い人たちは日本酒呑まないからな。居酒屋ですら若い人はワインを飲む時代だ。消費層は高齢化し、このままではジリ貧なのはよくわかる。蔵元がどんどん減っていくと僕のような呑んべは誠に困る。カラフルなラベルと安直さ、おしゃれ感覚でどんどん消費層を拡大してくれればいい。

 ただ困るのは、ブームによって変な方向に捻じ曲げられてしまわないかという危惧だ。
 寒い冬、帰宅する前のひととき、駅でちょっと呑みたいときに重宝するのがカップ酒。寒い日仕事に疲れて、しかし居酒屋に入るほど懐の暖かくない給料日前の頃、ちょいと引っかけるのに最適のものだ。夏なら缶ビールでいい。しかし寒いとどうしても温めた燗酒が欲しくなる。駅のKIOSKでは缶コーヒーなどと一緒に保温機に入れてあることが多い。ありがたいことだ。
 しかし、こう吟醸や純米酒のカップ酒が増えると、グルメな若い消費層から「温めるな」という声も聞こえてきそう。いや、実際そういう話はあって、酒の味が変わるからカップ酒は冷暗所に置け、という方針もあるそうだ。そういえばKIOSKに温かいカップ酒をあまり見なくなった。こういうところ、影響が見られるのか。
 「冷暗所に置け」という主張は正しい。品質保持のためには大切なことだ。しかし、何か違和感を感じるのも正直なところ。カップ酒って本来そういうものではないんかい?
 そのまま温めることを目的にしてカップ酒が考案されたのではなかろう。しかしながら、それ(温める)が一つの特性になっているのもまた事実ではないのか。カップ酒はわざわざグラスに入っている。樹脂で出来たカップなら温めるとイヤな感じがするだろうし、缶に入れると缶自体が熱を持って持ちにくい。それらのことを全てクリアしたのがカップ酒ではないのか。
 自分が言っていることが邪道だとは百も承知である。しかしながら、上質のカップ酒が日本酒消費者の底辺を広げる可能性があるかわりに、庶民的な良さを消してしまわないか、と少し危惧をする。温めてくれないんじゃあ、僕はわざわざ「開けにくい」カップ酒を選択しないよ。

 ともあれ、ブームが定着するのかどうか観察します。


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熱燗も悪くない

2005年12月08日 | 酒についての話
 前回の記事で、熱燗に批判的な文を書いた。その考えは間違っているとは思わない。なんでもかんでも燗酒と言えば熱燗、という風潮は改まって欲しいと本当に思う。しかしながら、65℃の熱燗は別としても、熱燗が悪いのかと言われればそうじゃない。あくまでそのときの状況である。

 僕が妻の実家のある東北に正月に行くと、かならずひとりの呑んべのおっちゃんにつかまる。この人は妻の叔母の旦那さんで、ちょっと三枝成彰に似た色男なのだが酒豪なのでお付き合いにいつも四苦八苦する。おまけに酔うと津軽弁がレベルアップするのでほとんど意思の疎通が出来ず、ひたすら杯を空けることを繰り返す。いや楽しいのだが苦しい。
 さて、この人はとにかく熱燗好みである。普通の人ならむせ返るほどの熱い燗を好む(もっともこの人は酒豪なのでむせるなどと言うことは無い。揮発していくアルコールも吸いこんでしまうほどの人だ)。居酒屋などで「熱燗いっちょー」に慣らされて熱燗を呑むようになったのではない。そもそもこの人は街中に住んでいないので居酒屋など行かない。
 北東北の冬はとにかく寒い。外に居ると身体の芯まで冷え切ってしまう。それを解凍していくには外から薪ストーブ、中からは熱燗しかない。熱燗をグビリと嚥下したとき、食道そして胃の腑から徐々に身体の先端の方まで温かさが浸透してくるのがわかると言う。こうなると、その温度も味のうち、というしかない。ぬる燗など物足りない。「酒は舌と喉だけで呑むのではなく全身で呑むのだ」その人の持論である。

 それについては、全く理解できないわけではない。僕にも同様の経験は時々ある。冷え切った身体を温めるのに熱燗に勝るものはないと思える瞬間はあるのだ(もっとも65℃は熱すぎだとは思うが)。
 その体験で最も印象に残るのは、真冬の北海道でのことである。
 学生時代のあるとき、2月の北海道を旅していた。厳冬期の北の大地は想像を絶する寒さである。列車、もしくはバスから降りたとたん、顔の筋肉が硬直して動かなくなる。「ああ寒い」と顔を顰めてしまったならもう最悪で、そのしかめっ面のまま表情を変えられない。鼻毛は凍り、吐く息はマフラーなどに氷の粒となって付着する。マイナス20℃まで経験したことがあるがそれはもう寒さなどではなくて痛さである。
 しかし冬の北海道が寒いのは当たり前のことであって、旅は日常と違う異体験をするためにやっているので、僕はその寒さを享受していた。濡れたタオルを振り回してそのタオルが瞬時に凍って直立するのを見て遊んでいた。

 話がどんどん熱燗からそれる。あるとき、僕は丹頂鶴を見に釧路湿原に行った。釧網本線に乗れば冬枯れした、荒涼とした湿原を見ることが出来る。その広大な風景を眺めながら、途中の茅沼駅で降り、寒い中シラルトロ湖(湿原の小さな湖)まで歩いた。湖は当然のことながら結氷し、この寒いのにワカサギ釣りの人が黙々と棹を垂らしている。
 ふと振り返るとつがいの鶴が飛んできて降り立った。白い大地に純白の優雅な鶴の姿が映える。翼を大きく広げたその様は風景と溶け合ってあまりにも美しい。ただ寒すぎてカメラが作動しないことがあると聞いていたので、懐にカメラを入れてシャッターチャンスの時だけ取り出して写した。これは失敗で、カメラのレンズが曇ってしまい現像すると実に幻想的な写真になってしまった。うーむ。
 それはともかくとして、寒さに身の危険を感じた僕は写真もそこそこに駅に戻り、次の釧路行きに乗り込んだ。いやー寒かった。
 釧路に着いたときはもう日も落ち、街はネオンが輝く時間。書き忘れたがそのとき、僕は男性一人、女性二人と同行していた。いずれも前日の宿で知り合った人たちで、「明日、丹頂鶴を見にいこうぜ」と盛り上がって釧路湿原にやってきたのだった。全員が一人旅。
 このうち、二人はその日のうちに札幌に戻る予定。特急に乗り込んで早々と行ってしまった。残された僕ともうひとりの女性は、釧路発の夜行列車に乗る予定である。周遊券を持っているビンボー旅行者は、列車乗り放題のためこうやってよく宿泊費を浮かしたものだ。

 夜行列車までまだずいぶん時間がある。僕はとにかく暖まりたかった。呑みに街へと歩き出すと、同行の彼女が行きたい店があると言う。
 そこは、有名な店である「炉ばた」。釧路は炉端焼き発祥の地である。その元祖の店だ。多少高そうなので学生の身分ではどうかなと思ったが、まあせっかくだ。行ってみよう。
 古びた、いかにも名代の店らしい門構え。思い切って入るとちょっと薄暗い、煙でいぶされた風情のある店だ。炉辺の前に座ったおばちゃんがせっせと魚を焼いている。カウンターに座り、僕達は自らを温めようとまず燗酒を頼んだ。
 見ると、炉の脇の方に鉄釜が置かれていて、その釜に酒が満ちている。つまり、直火で燗をしているわけだ。こんなのは初めて見た。そこから柄杓で湯呑みに酌んでくれた燗酒を一口呑んだ。
 「旨い…」
 五臓六腑に沁みわたるとはまさにこのことだろう。熱めの燗だが、冷え切った身体に少しづつ浸透して、指の先まで暖まってくる。杯やぐい呑みなどやってられないのだろう、湯呑みでドンと出す熱燗には、寒い土地の必然性があるような気がした。これが人肌なら旨くなかっただろう。さりとて熱くて呑めない温度ではない。熱い燗に耐える地酒「福司」の実力もさることながら、燗の温度というのはシチュエーションなのだな、と体感したときだった。
 燗酒のおかわりを頼み(鉄釜から柄杓で酌むのですぐ出てくる)、一尾のホッケを二人で分けながら(懐も寂しかったがここのホッケはデカいのだ)徐々に僕は酩酊していった。熱燗には即効性がある。かなり酔ったのだろう。店を出てもあまり寒さを感じなくて、凍った道で何度も転倒を繰り返した。一緒に居た彼女もよく転んでいたので酔っていたのだろう。二人でよく笑った。気分のいい夜だった。熱燗も捨てたものではないのだ。

 その後、約10年後に僕は再び「炉ばた」を訪れた。今度は隣に妻が座っている。
 あのときの熱燗が忘れられず、そのときは夏だったのだがビールも頼まず酒を頼んだ。やっぱり鉄釜直火燗だったが、さほど熱くないのはさすがだった。気を遣っているのだろう。ちょっとぬるめ。旨い。自動酒燗器など及びもつかない。こうでなくちゃ。
 僕はもう学生ではなかったので、ほっけではなく「めんめ」を頼み(キンキのこと。これは高価だ)、さらに帆立やししゃもも焼いてもらい、刺身も食べた。旨い。
 「昔は…二人でひとつのホッケを分けて食べたもんや。贅沢になったもんやな」
と女房に言うと、
 「ほう…。誰と二人で分けて食べたの?」
 いやいや酔うと口が滑る。わははは。



コメント (7)
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