凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

上戸と下戸

2006年04月01日 | 酒についての話
 桜の花も地方によっては開花、呑めや歌えやのシーズンがまたやってきた。僕は花見については、「花見酒1」「花見酒2」で書いたとおりさほど乗り気ではないのだけれど、まだ呑めるだけマシと言える。僕のごく親しい友人に、この季節が本当に憂鬱だとボヤく男がいる。それは何故かと言うと、彼は下戸、アルコールを受けつけない体質だからだ。なのでこの時期は大変だ。「俺の酒が呑めないのか」と叫ぶ品の悪い酔っ払いが増殖するこの季節は。

 さて、ちょっと話がそれるけれども、この「上戸と下戸」という言葉、これはどこから来ているのか。これはものの本によると様々な説があるらしい。
 一応の定説は、古代律令制からきているということ。律令の規定では、「大戸」「上戸」「中戸」「下戸」の四等戸が定められていた。もちろんこれは税の徴収のための制度で、成人男子がひとつの家に何人居るかを区別するためのもの。3人以下を「下戸」、4~5人で「中戸」、6~8人で「上戸」、それ以上で「大戸」とした。また律令は細かく「庶民婚礼、上戸八瓶下戸二瓶」と、おそらく酒を宴席でどれだけ呑んでいいかとの規定もあり、そこから転じて、たくさん呑んでいい(呑める)人を上戸といい、呑めない人を下戸と呼ぶようになったとか。
 これには異説もあり、中国から来ているとの説もありややこしい。学者じゃないので分らないが、かなり昔から伝来の言葉であることは確かなようである。
 またもう一つ、「左党」という呑んべを表わす言葉もあるが、これは大工さん(鉱山で働かされた人夫からとも)は右手に槌を持ち、左手で鑿を持って作業する。この左手に持つ"ノミ"から"呑み"を連想した言葉遊びだと言われる。昔から呑んべは洒落が好きだ。

 今は呑める人を上戸、呑めない人を下戸というのが定着しているけれども、下戸の人は大変だ。僕の父親はビール一杯で顔が真っ赤になり寝てしまう。こういう父親からどうしてこんな呑み助の息子が生まれたのかは全く不可解だが(→隔世遺伝)、実際に呑めない人はいる。奈良漬でもう気分が悪くなる人もいる。これは大変だろう。粕汁もダメだし、紅茶にブランデーもダメだ。ウイスキーボンボンを間違って普通のチョコレートだと思って口に入れて死ぬ思いをした人もいる。
 これは、今ではよく知られていることだけれども肝臓にあるアルコール分解酵素の差である。アルコールを呑むと、体内でアセトアルデヒドという物質になり、アルコール分解酵素によって酢酸と水へと形を変え、最終的には二酸化炭素と水とになる。しかしこのアルコール分解酵素をまったく持たない人は、アセトアルヒデドが分解されない。アセトアルヒデドは有害で、つまり悪酔いする。

 こんなの体質の問題で、呑めない人はしょうがないのだ。こうして科学的に説明がつくのだが、いまだにタチの悪いオヤジは「鍛え方が足りない」などと暴言を吐く。こういう独りよがりで自分勝手なオヤジが、酒呑みの評価を下げている事に気が付かないのか。

 だがしかし、僕も昔はこういう顰蹙もののセリフを言ったことがあることを反省しなくてはならない。アホだったなと恥じ入るばかりだ。
 学生の頃。女子学生の少ない学部に居た僕は、コミュニケーションと言えばまず「酒」だった。とにかく大人に憧れ呑めることが男らしいことだと思っていた時代。
 スタートはみんな呑めない。僕も初めてのコンパではひっくり返った。だが、徐々に慣れ、大酒が呑めるようになってくる。一合が二合、そして五合から一升酒へ。酒豪と言われることに悦びを感じ、吐いても吐いても呑む。そうして大酒が平気になってくる頃、自分が呑めるようになったのは肝臓を鍛え上げたからだ、という勘違いの自負が生まれる。子供の発想だが、「俺は呑めないんだよ」などと言う学友には「俺かて最初は呑めへんかったんやぞ。それを呑んでは吐いて鍛えたんや。お前も成長しろ」などと言って無理やりに呑ませた。今で考えればあれは暴行、傷害容疑がかかるな。知識がなかったのだ、という言い訳は通用しないだろう。今では平謝りしたい気持ちでいっぱいである。

 その後、僕は世間も知り知識も増え、呑めない人が存在することを認識していく。これはあたりまえの話だ。酒席で苦労したり、接待に酒が使えないので麻雀やゴルフを覚えざるを得なかった人に対しては心から大変だなあと思う。もっとアルコール分解酵素のことは認知されてもいいのに、と思う。いや、認知はされているのだがこれは性格の問題なのかもしれない。いまだにいい歳をして「鍛え方が足らん」という傍若無人なオヤジはどこか欠陥があると言っていいのではないか。

 僕はと言えば、そういうオヤジを諫め、皆が気分良くいられるようにコントロールをしなくてはいけない年齢となっている。ケンカせずにうまく場を収めるのはなかなか難しい。やはり温和な人たちと酒を酌み交わすのがラクである。
 呑めない人とも酒席を共にする機会は多い。だが、僕は昔のように「呑め」などとはもう言わない。むしろ、呑めない人と一緒だとこちらが奢らねばならないときには「助かった」と思うし、割り勘だと明らかに得をする。有難いことだと思う。
え、これってただ計算高くなっただけ? これってセコいよね。これは僕にも性格に欠陥があるのかもしれない。やっぱり反省。



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