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凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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僕の旅 福井県

2006年01月27日 | 都道府県見て歩き
 福井県は、僕が旅らしい旅をした最初のところではないだろうか。ないだろうか、などと自分のことなのにヘンな書き方だとは思うけれども、これは今にして思えば、ということである。

 僕は中学生の頃、漠然と自転車での旅行をやってみたいと思い続けていた。詳細は「滋賀県の旅」で書こうとは思っているけれども、これはなかなかに道険しであって、中学生の自転車旅行などは親が反対して許してくれなかった。中学生で実行できなかった僕は、高校生となって、友人を誘って琵琶湖一周から始め、日帰り遠出なども行い、少しづつ「そんなに自転車の旅って危なくないんだよ」ということを親に納得させていった経緯がある。慣れさせていった、とも言える。
 そうして一応実績を積んできた僕は、高校二年の夏に再び自転車旅行を計画した。まだ一人旅は許してくれなかったので、友人を二人誘った。行き先は福井の東尋坊である。京都市内からは片道200km程度だろうか。
 前回琵琶湖を走ったときはテントを括り付けての旅だったのだが、今度は宿に泊まってみようと思い、ユースホステルを選んだ。ユースホステル(以下YH)という施設を知らない人も多いかもしれない。出来れば旅の宿 その3 「民宿・ユースホステル」を参照していただけるとありがたい。
 当時は二食付で、2500円くらいだったと思う。学生には有難い施設だった。むろん初心者だった僕は、ガイドブックに載っているとおりきちんとハガキを出して宿泊予約をし(本当は電話で充分なのに)、3泊4日の行程を計画した。そうして夏の暑い盛りに旅立った。懐かしい。

 京都市内から北上し、大原(♪三千院)経由で途中越という峠を越えて滋賀県に入り、琵琶湖の西岸を走って(国道162号線)、マキノ町(現高島市)からさらに北上、国境峠を越えて福井県に入った。峠を越えれば後はずっと下って敦賀へ。敦賀からちょっと西へ進路をとって美浜町に行き、そこの美浜YHに泊まった。
 観光の要素などなく、ただ自転車で走り続けるだけの旅程だが、高校二年の僕たちにとっては少し「冒険的要素」も加わった楽しい旅だった。初めて泊まったYHは、若狭湾の美浜という土地柄海水浴客が多く、ちょっと「合宿」的雰囲気であったことを憶えている。
 翌日は敦賀へまた逆戻り、海岸沿いに北上して東尋坊を目指した。越前海岸は景勝地も多く、有料道路も2路線あったが自転車だと50円くらいで走れる。そして夕方には東尋坊に着き、絶壁の海岸(自殺の名所)を見物してから東尋坊YH泊。
 この東尋坊YHは楽しかった。夏の真っ盛りなのに宿泊者は僕たち3人以外は4人という閑散とした状況で、同宿の人は大学生が一人、そして岐阜から来た同い年(高校2年)の女性3人組みというメンバー。みんな旅行はビギナーで、あちこちから集まった初対面同士が旅という共通目的の中で直ぐに打ち解け、旧知の友人のように話せたのは実に不思議な体験だった。同い年の青春真っ盛りの男女6人、今で言えば合コンみたいなものだがそんな時代ではなく、純粋だったと思う。消灯時間までずっと話し続けていた。
 僕のその後の旅の原風景となる一夜だったかもしれない。その後僕が大学へ行って自転車一人旅を始め、メインの宿泊先としてYHを活用していったのもこの日があったからだ。そしてずっとYHを使い続けて、何人もの友人を得て、女房さえもYHで泊まり合わせたことで見つけたのだから、この一夜があってよかったと思う。
 帰りは全く同じ道を逆戻り。美浜で泊まって、翌日帰洛。3泊4日の旅を終えた。
 自転車で約400kmの旅が出来たことはかなりの自信となり、楽しかった。やっぱりこの福井県の旅は僕の原点だと思う。もちろん初めての旅ではないけれども、僕の「旅行スタイル」の原型だった。

 さて、月日は流れて僕は北陸金沢に縁あって住むことになった。福井県は隣県である。実は京都も隣県なのだが、住んでいたところから考えると距離も身近さも全然違う。僕は休日にちょいちょい福井県を訪れるようになった。
 福井県は旅行先として考えるとマイナーな部類に入れられてしまうことがあって残念なのだが、実際は楽しいところだ。旧分国としては越前そして若狭国だが、現在は嶺北、嶺南というふうに分ける。境目は敦賀で、ここは旧越前国だが嶺南である。気候的にも嶺北は北陸で嶺南は山陰である。言葉遣いも違う(嶺南は関西弁ぽい)。
 前述した東尋坊を含む海岸線は景勝地が多く、季節には水仙の花が有名。名所旧跡も多く、歴史好きは一乗谷朝倉氏遺跡、そして永平寺は確実に押さえておかなければならないポイント。じっくりまわれば面白いのではないか。

 食べ物も美味い。京都の人間にとっては「若狭」といえば伝統的海産物の出処であり、鯖鮨にするサバ、一塩もののグジ(アマダイ)やカレイは無くてはならないものである。また「越前ガニ」に代表される産物はどれも美味くてしょうがない。
 魚の話は石川県富山県でさんざん書いたので、ちょっと変わった名物を少し。
 福井県は蕎麦が美味い土地なのだが、ここでは「おろし蕎麦」という食べ方がメジャーである。大根おろしをふんだんに用いて食べる蕎麦。
 福井のおろしそばは旨い。おろしがかかっているので特に二日酔いにいい。市内だと普通に2皿で一人前、武生の【うるしや】へ行くと蕎麦猪口におろしが入ってきてつけて食べる。また大野や勝山に行くと別器におろし入り蕎麦汁が出て来て好きなだけかけて食べる。このスタイルが好きだ。蕎麦はいずれも香り高く、飽きない。
 もうひとつの名物に「ソースカツ丼」がある。福井でカツ丼を注文すると、いわゆる卵とじではなくカツにソースを絡めたソースカツ丼が出てくる。最初は驚いたが、しかしそれが美味かった。以後、僕はその店【ヨーロッパ軒】のとりことなり、福井に行く度に食する習慣となった。
 カツ丼という食べ物は、早稲田の学生中西敬二郎さんが考案したとされているが、それは大正10年のことであり、高畠増太郎という人が大正2年には既に東京で開かれた料理発表会でソースカツ丼を発表しており、早稲田鶴巻町の自分の店で売り出したので、こちらが元祖ということになる。高畠さんは関東大震災の後郷里福井に帰り、【ヨーロッパ軒】を開いた。なので、このカツ丼が日本のカツ丼の元祖なのである。(文春文庫「ベストオブ丼」による)
 柔らかいカツとソースの相性が抜群でたまらん。今すぐ食べたい。なお、福井では【ヨーロッパ軒】だけではなく基本的には「カツ丼」と注文すればソースで供される。美味い。


 また食べ物の話で終わったが、これで「都道府県見て歩き」も北海道・東北・関東・中部が終了した。全くの牛歩記事で進まないが、24/47県でありちょうど半分である。次回からはようやく関西圏に入っていく。読んで下さっている方には本当に感謝します。


僕の旅 石川県

2005年12月20日 | 都道府県見て歩き
 時事的なことだけれども、少し緩んだとはいえ12月にしては珍しい大寒波が日本を襲って、特に日本海側は大雪の様子。でもこの瀬戸内の端に位置する僕の住む街はずっと快晴だ。なんだか申し訳ないような気もする。日本海側に約10年住んでいた僕としては辛さが身に沁みるようにわかる。北陸は、例年だと11月下旬に初雪は降るものの、すぐに溶けるベタ雪ばかりで本格的な積雪は年が明けてからだ。今からドサっと積もると…これは厳しいだろうな。

 今回は旅の話は出来ない。前述したように石川県に僕は長く住んでいて、旅人の視点で見ることなど到底出来ない。
 まだ23歳で、社会人になって一年にも満たない時期に僕は北陸金沢にやってきた。このことは前回の富山県のときにも書いたが、まあせいぜい2、3年だろうとタカをくくっていた。まさか10年も住むことになるとはそのときは全く予想していなかった。この街でいろいろな出来事があった。結婚もした。振り返りたくないようなことも多かったけれども、よく考えればそれは仕事などの土地柄とは関係ないことで、こと住むとなれば、金沢は実にいい街だった。冬に天気が悪いことには閉口したが、古都金沢は文化レベルが高く、いい意味で「都会」である。
 住んでしばらくして、僕はこの土地が「生まれ育った京都」に似ている、と思った。それはいわゆる「小京都」として町並みが似通っているだけではない。この金沢という街は実に洗練された場所である。「鄙」もう少し言うと「田舎」とは対極にある街だった。それは住んでいる人の行動様式でそう感じた。
 ちょっとこういうことを書くと批判を浴びるかもしれないのだけれどもあえて言うと、いわゆる「田舎」は、僕の感じ方から言うと「楽しみが少ない」ため、いきおい興味が人に向く。隣人のことが気になってしかたがない。なので人の内面にまで容赦なく踏み込んでくる。人がすぐインタビュアーになる。聞かれたくないことまで聞いてくる。隣人の生活様式や食べ物の好みや預金通帳の額など本来どうでもいいことのはずなのに知りたがる。人に対する好奇心が過剰に感じる。「何で子供が出来ないの?」大きなお世話だ。相手のことを慮って…など許してくれない。 「共同体的社会」が悪いことだとは思わないが、かなりしんどい。
 しかしながら、金沢はそうではなかった。人間関係を円滑にする手段が「気遣い」だということを知っている。空気が読める。人の深部にまで踏み込まずに類推して済ませる。こういうことこそ「都会」の証明だと僕は思う。一瞬冷たく、また閉鎖的にも感じるが、相手のことを考えての行動。こういう気質が「京都に似ている」と僕が感じた所以である。金沢と比べると今住んでいる大阪文化圏のほうがよっぽど…いや止めておこう。

 なので住みやすかった。今でも金沢が懐かしい。配偶者も「あそこはよかったね」とずっと言っている。人口は40万そこそこだが、北陸の中心都市として何でも揃っている。不自由はしない。物価はさほど高くもなく、僕が住み始めた頃は民放TV局が2局しかなくプロレスも見るのに苦労したが、今は4局となっている。東京や大阪と比べて飛行機の便は悪く列車も北陸本線頼みなので、旅好きの僕には出て行きにくいところが困った点だったが、そんなことは大した問題ではない。自動車で旅に出れば、高速は渋滞知らずの北陸であり、むしろ行動半径は広かったような気もしている。

 石川県については、能登も加賀も細かいところまでよく知っている。旅行で来ると実に楽しいと思う。温泉はあちこちに湧き、海岸線は美しく史跡も多い。遊びに来た人を案内するのに事欠かなかった。むしろ一日では回りきれないので余裕を持って旅して欲しい。
 書き出すと止まらないので、観光案内的要素はちょっと置いて、僕がどんなふうに暮らしていたのかに触れたい。
 基本的に忙しくしていたのだけれども、週末が休めた場合、まず僕は温泉に行く。近頃は都会の真ん中でもボーリングして温泉を噴出させてスーパー銭湯を建造しているけれども、石川県ではそんなことをしなくても既にあちこちで温泉が湧いている。和倉、湯涌、山代、山中、粟津、有名どころからひなびた無名の温泉まで名湯が多い。そういう伝統ある温泉は何より「効く」のである。単に入浴するだけではない癒しがそこにはある。疲れが身体中から抜けていく。たまらない。

 そうして疲れをとった後は、美味い食べ物と素晴らしい酒が待っている。この地はもちろん日本海の幸が集結していて、冬の王者ズワイ蟹も驚くほどの廉価で手に入る。香箱蟹というメスの蟹はスーパーで特売品であって、小さいので全国的には有名でないがその甘い身は一パイ3万円のズワイに勝る場合も。甘エビなど笊一山千円であって、二人でイヤになるほど食べようと思って一山食べ始めたら本当にイヤになった(笑)。もう一生分の甘エビは食べたと言っていい。回転寿司などで鮮度の悪い甘エビが廻ってきてももう見向きもしない。そのアタマを大量にぶち込んで味噌汁を作ればもう絶品である。
 ガスエビという海老をご存知だろうか。これは甘エビよりも美味い。見かけは悪いが、ボタンエビのようなプリプリ感が堪らない。こんなのも一山いくらだ。鱈の白子。あちらでは「ダダミ」といって特売品だ。ぽん酢で食べても鍋に入れても美味い。また、ミズウオ。ゲンゲンボウとも言うこの見てくれの悪い魚は深海魚であり、細長く扁平で全身をゼラチンのようなヌルで覆われている。これを煮て食べると美味いのだよな。万十貝。二枚貝で白貝とも言うが、柔らかく刺身でもいけるし焼いてもまた旨い。蛤に勝ると思うときもある。メギス。細長くキスに似ているがキスじゃない。友人の漁師さん(スナックで知り合った)に本当に新鮮なメギスを貰ったときには塩茹でにして食べた。そうすると、まるでカニのような味わいなのである。たまらん。
 キリがないので止めるけれども、これに加賀の旨い酒、天狗舞だの菊姫だのを合わせた日には…もう天国ですな。

 意外な食べ物の話。金沢は実はおでんやが多い。夏でもおでんである。おでん文化圏だ。そのネタも、加賀伝統野菜はもちろんのこと、カニ面(甲羅にカニの足を詰めたもの)やバイ貝など金沢ならではのものも多い。ゼラチンに覆われトロリとした、巻貝であるバイ貝のおでんを、殻を割らずに上手くワタまで千切れさせずに出せればそれで一人前のおでん喰いである。また牛筋には各店こだわっていて競っている。あの店のが好き、いやあちらのほうが柔らかい、などとおでん談義は尽きない。「菊一」「よし坊」「高砂」「大関」「赤玉」…どの店もみな懐かしい。
 ニュー狸の黒いヤキメシやハントンライス(チキンライスにオムレツとフライが乗ってタルタルをかけた金沢独自の食べ物)、三休庵のカレーなど金沢にしかない食べ物も多いが、僕が今懐かしいのはなんと言っても「とり野菜」。これは白菜と地鶏を味噌ベースで煮込んだ鍋料理なのだが、金沢ではメジャーなのに他では全く知られていない。老舗の「まつや」では昼食に営業マンが食べている。一人前の鍋とごはんで700円くらいだ。美味いのですな。三郎平の「とり白菜」というすき焼き風のもあるが…おっと深入りしすぎ。とにかくこのとり野菜が食べたくてしょうがない。この煮込む味噌が秘伝であって、地元ではスーパーでとり野菜用味噌が売っているのだがこちらには当然ない。なんとか再現しようと思って味噌の種類を吟味し、にんにくや酒粕、五香粉などを混ぜて近い味わいのものを作り出そうと努力しているのだがもう一歩の壁が超えられないのだ。この味噌を買うためにだけ金沢にまた行こうか、などとも考えている。我ながら執着心が強いと呆れるが。


僕の旅 富山県 

2005年11月28日 | 都道府県見て歩き
 富山県に初めて訪れたのは19歳の夏、北海道へ向けて自転車旅を続けている途中だった。
 前日金沢までやってきていた僕は、そのまま東へ進路をとり、県境の倶梨伽羅峠(木曾義仲でお馴染み)を超えて富山県に入り、特になにも観光することなくひたすら東へと走った。昼頃富山市にさしかかり、空腹になったので一軒のラーメン屋さんに入った。その店では僕の風貌を見て「あら、自転車で旅しておられるが」とそれだけのことで歓迎してくれ、頼んでいないのに大盛りにしてくれてライスも付けてくれ、水筒に麦茶を満たしてくれて、「頑張られよ♪」と送り出してくれた。人の情けが身に沁みた。
 その夜、新潟県境の朝日町まで走り、一軒のユースホステルに泊まった。夏の最中に宿泊者は7人だけだったが、その人たちはみんな一人旅で様々なところからやって来ていて、周遊券の人、ヒッチハイクの人、ライダー、十人十色(七人七色か)の旅のやり方だった。ベテランも居れば初めての一人旅もいて、男女混じって夜が更けるまで車座で旅の話をした。途中、ちょっとみんなで傍の川べりまで散歩に出て、初めて僕は蛍を見た。その淡い光は、様々な旅のふれあいと共に実に印象に残っている。

 僕の「旅」としての富山県体験はこれだけである。

 話はこれだけで終わってもいいのだけれど、その後、どういう運命のいたずらなのか、僕は社会人になってしばらく経ったある日、金沢にある北陸支社に転勤を言い渡され、そこでは富山県を一人で担当するように命ぜられた。まだ23歳の時である。
 以来約10年、富山県を来る日も来る日も、雨の日も雪の日も駆けずり回った。仕事のことを思い出すと富山県には愛憎それぞれあるのだがそれはさておき、僕は地元の人より富山県に詳しくなったと自負している。町名(或いは字名)を言われただけでどんなところかすぐわかる。タクシーの運転手さんにだっておそらくなれるだろう。
 ただこれらの体験は全て「僕の旅」ではないので割愛したい。

 さて、そんなことを離れて富山県を見れば、ここは実にいいところである。住みやすさ度数、というものがあったと思うがかなりの上位にランクされているはず。
風光明媚ということで言えば、実に小さなコンパクトな県であるのに3000m級の山々から富山湾まで高低差が凄く、そのことが様々な風景を生み出している。流れる川の水は実に早く、明治にお雇外人技師のデレーケが治水作業にとりかかって「これは川ではない。滝である」と言ったのは有名な話。雪溶け水が一気に海に流れ込むために、富山湾では急激な水の温度差が生まれ「蜃気楼」という現象を生み出す。この神秘的な現象を、残念ながら毎日富山県に居たくせに仕事中だったので見たことがない。それが心残りとも言える。
 その3000m級の山々というのは立山連峰であり、まさに「岩の屏風」である。よく晴れた冬の寒い日は、空気に水蒸気がほとんど含まれずクリアであるのでこの山々が実に美しく映える。もっとも冬は日本海側というのは常に天気が悪く、本当に美しく見える日はごくわずかだ。富山湾の西岸にある氷見市からは、富山湾を挟んで「海の上に聳える岩の真っ白な巨大屏風」がうかがえる。黄昏どきに、それに夕陽がまともに当たって真っ赤に染まる風景はちょっと例がないくらいに美しい。

 その山々の奥には黒部ダムがあり、「黒部・立山アルペンルート」として有名。山開きの日にはまだ雪がわんさか残っており、道を除雪して有名な「雪の回廊」が出来上がる。富山県東部は山々が険しく、宇奈月のトロッコ列車や落差日本一の称名の滝など見どころが多い。
 県西部は平野が少し開けていて、「砺波の散居村」が有名。チューリップの時期には綺麗に村々を染める。そしてその奥には世界遺産の合掌作りで有名な五箇山がある。
 観光名所は書ききれないほどあり、いちいちあげていてはキリがない。

 さて、富山県ではよく泊まった。住んでいたところは金沢でありすぐそばなのだが、接待であったり、かなり遅くまで仕事がかかったりまた早朝の仕事があったりなど、いろいろな機会に「泊り込み」になった。夜、もう深夜の時間帯にやっと解放されたところで、街は既にほとんど閉まっていて(こういうところは夜が早い)、派手に遊びに行けるところなどなく、点在する居酒屋のほの明るい光だけがストレス解消の場所だったと言っていい。とにかくよく呑んだ。
 幸いにして富山県は魚がべらぼうに美味い。新鮮な魚のことをこちらでは「キトキト」と表現するけれど、まさに春夏秋冬、キトキトの魚ばかり食べていた。富山湾は「天然の生簀」と呼ばれ、全国でも近海ものは白眉だろう。
 その代表は、氷見などで揚がる「寒ブリ」であろうか。ちょうど今頃、北陸では西高東低で天気が悪くなり、よく雷が鳴る。これを「雪起しの雷」と言うが、別名「鰤起し」とも言い、脂の乗ったその味は堪えられない。
 魚の美味い季節はもちろん冬なのだけれど、案外初夏の頃もいい。観光客はこの頃を目指すと面白いかもしれない。
 ブリは出世魚であり、関東ではワカシ、イナダ、ワラサ、ブリと名を替えるが、富山ではツバイソ、コズクラ、フクラギ、ガンド、ブリとなる。このフクラギあたりが初夏は美味い。そして、白エビというものもある。小指にも満たない小さなこのエビは掻揚げにしても美味いが、刺身で食べると最高だ。だが小さなエビを一尾づつ剥いて刺身一人前にするには相当の手間がかかる。しかし美味い。透明な淡い儚いその姿は海の宝石であり、ねっとりとした旨みは甘エビに勝る。そしてホタルイカ。もうこれは説明しなくてもいいだろう。刺身もいいが、僕はさっと湯通ししながら釜揚げで食べるのが一番だと思う。旨みが際立つ。またバイ貝、岩牡蠣など他にも美味いものは目白押しである。

 そして、それらに合わせる銘酒。富山は水が美味く(名水百選に4ヶ所選ばれている)米どころであり地酒は隠れた逸品が多い。「満寿泉」など最高だ。夏は常温で、冬は人肌に燗をして「キトキト」の魚と共に味わえば…まさに至福としか言いようのない境地となる。

 長くあちこち出没を続けた県であり、しかも辛い思い出も多いので「もうわざわざ行かなくてもいいかな」と思っていたけれど、酒と魚の話を思い出すと「また行ってもいいかな」という気持ちになる。なんとも浅はかな自分に呆れる(笑)。

僕の旅 三重県

2005年10月29日 | 都道府県見て歩き
 三重県というのは地方区分でいけばどこに属するのだろう? これは簡単には言えない話ではないかと思う。いつも迷ってしまう。
 教科書的に言えば「近畿地方」に属する。しかしながら、「東海地方」という括りにしてしまうとこれは岐阜・愛知・静岡と並ぶことになる。難しい。京阪神に住む僕の視点から見れば、これは三重はやっぱり名古屋中京文化圏に入り、四日市の人は買い物は大阪ではなく名古屋に行く。なら「中部地方」なのか? ややこしい。国交省の枠組みを見ると近畿ではないが、広辞苑は近畿に入れている。統一されていない。
 もうひとつ「関西」という視点で見れば、古来鈴鹿の関が境であったために三重県は関西ではない。しかしながらそういう視点で厳密に言うと伊賀の国である現在の伊賀市、それから名張市あたりは関西であるような気がする。やっぱり難しいな。
 三重県に昔よく仕事でウロウロした経験から言えば、三重県の人は言葉は関西アクセントである。名古屋から桑名に入ったとたん関西弁が聞こえた。そうなると関西なのか? 結論が出ない。三重県の人はどう考えているのだろう?

 それはさておき、三重県にはよくお邪魔している。最初は修学旅行である。
 京都の小学生の修学旅行は、伊勢志摩及び鳥羽だった。伊勢神宮、二見が浦、鳥羽水族館、ミキモト真珠館である。小学生に真珠とはまた不釣合いだが、事前に御木本幸吉の伝記を読まされたことを憶えている。しかし小学生の修学旅行のメインイベントは枕投げであり細かい旅程など印象が薄い。
 余談ばかりだが、全国の小学生の修学旅行はどこに行くのだろう。東京の人に尋ねると「日光」なのだそうな。それぞれの県で定番があるのでしょうな。妻は青森だが、函館に行ったらしい。当時はまだトンネルがなかった時代で船旅は楽しかっただろう。みなさんどこに行ったのだろうか?
 ちなみに僕は、中学のときは広島・山口で高校はここに書いたように信州だった。

 さて、三重県は見どころ満載だ。
 伊賀市、かつては上野市だったが、ここは忍者の里として有名。芭蕉好きにも外せないポイントである。僕は高校生のとき、住んでいた京都から自転車で日帰りで行ったことがある。いい思い出だ。実際は結構な距離なのだが、「なんだ日帰りできるとは三重県も結構近いやん」と思った。元気だったな。今では絶対に出来ない。
 三重県と言えば伊勢志摩であり、修学旅行以来何度も訪れている。志摩半島は実に風光明媚で楽しい。伊勢神宮を中心として歩くべきところが多い。一時期パルケエスパーニャ(スペイン村)が出来たときはずいぶん流行ったが今はどうか。
 南へ下って尾鷲、熊野方面は旧国で言えば紀伊国。雰囲気もずいぶんと違う。熊野新宮速玉神社などは実に歴史を感じさせてくれて、ヘタをすれば伊勢神宮よりも荘厳かもしれない。

 三重県は「美味し国」キャンペーンをやっているくらいで「食」の楽しみがずいぶんと多い。
 伊勢湾の新鮮な海の幸はその白眉だろう。的矢牡蠣は本当に美味くてたまらない。かつて佐藤養殖場であがったばかりの生牡蠣を啜ったその感動は忘れがたい。
 安直にいくなら「てこねすし」もある。カツオのヅケを飯に混ぜ込んで食べるものでそりゃ美味い。僕はカツオが大好きなのでもうたまらない一品である。
 結婚して一周年のとき、無理をして志摩観光ホテルに泊まったことがある。ここは海の幸フランス料理では世界一と謳われている。昔からの憧れでどうしても食べてみたかったので20代ではまだ早いと思ったのだがバブリーに食事をした。伊勢海老のビスクと鬼殻焼アメリカンソース。アワビのステーキ。ワインもいいのを開けた。筆舌に尽くしがたい美味さ。ああもうワシは死んでもいい、と思った(別に死んでないけど)。
 もうひとつ忘れてはいけないのが「松坂牛」である。「柿安」ですき焼き、「牛銀」で網焼きを食べた。見事な霜降り。歯ではなく唇でちぎれる。とろける。ジュワっと広がる肉汁の美味さ。ああもうワシは死んでもいい、と思った(別に死んでないけど)。まあ「和田金」にはまだ行っていないが行ったら今度こそ死ぬかもしれない。今は松坂牛を普通に出す焼き肉屋「一升びん」で十分満足。あまりバチあたりなことを繰り返してはよくない。
 旅に出るとついサイフの紐が緩くなる。僕の悪いクセであり、大いに反省したいと思っている(本当か?)。

僕の旅 岐阜県

2005年09月23日 | 都道府県見て歩き
 関西、近畿地方を拠点としている人間にとって(つまり僕のことだが)、伊吹山の雄姿を見ると「ああ旅に出てきたな」という感慨が湧く。東に旅立つとき、滋賀県~琵琶湖の際を行くときはまだ地元感覚。列車が米原を過ぎ、進行方向左手に伊吹山が見えるとようやく旅モードに入ることが出来る。ここから先は「関西」ではないのだなと。
 古代不破の関が置かれ、関東と関西を分けていたこの県境は未だに「文化圏の違い」みたいなものを感じさせてくれる。伊吹山のふもとは関ヶ原だ。かつて壬申の乱、南北朝青野原の決戦、家康vs三成と、三度も天下分け目の地になったところだが、東西対決に最も相応しい場所なのだろう。

 岐阜県は何度も訪れているが、海のない内陸県として隣り合う信州と風土が似ているのかもと思いきやそれが全く違う。これは、ある意味その山ひだのせいで隔絶されていた信濃の国と、交通の要衝であり古くから栄えた美濃との違いが出ているのかもしれない。なので、あくまで僕の感覚だが信州は高原のイメージ、言葉を過ごせば明治以降の洋風の面持ちを持つのに対して、岐阜は伝統的、日本的イメージが強い。不思議な感じだといつも思っている。
 美濃ともうひとつ、岐阜は旧国分では「飛騨の国」も併せ持つが、この飛騨地方は地勢的に言えば信州とかわらない高原のイメージがあってもいいのに、高山、古川と歴史的町並みが続き、山懐ろは「奥飛騨慕情」である。信州のような教会やペンションは似合わず、古刹や温泉旅館がイメージに合う。繰り返すが不思議だなといつも思う。同じ北アルプスのふもとなのだが、松本から見れば北アルプスでも高山から見れば「飛騨山脈」という方がしっくりくる。

 さて、その飛騨高山は実に楽しいところ。出格子造りの町並みはそれだけで美しいが、さりとて何度訪れても飽きることはない。それは文化が根付いているからだろう。
 上三之町に行って写真を撮って終わり、とならないのは高山の実力。例えば木曾の馬籠、妻籠は映画のセット然とした美しさで素晴らしいが、一度行けばもうそれで満足する。しかし高山は何度も訪れてしまう。それは天領として、そして飛騨地方の文化の中心として築き上げられた歴史があるから。なので観光地以外の道をただ歩き、みたらし団子を食べ喫茶店に入り、朴葉味噌と飛騨牛で一杯やってラーメンを食べる、そんな楽しみも出来る。フトコロが深いのだ。やはり泊まるに値する街だろう。

 飛騨は奥が深い。例えば千光寺には円空仏がずらり。両面宿儺はド迫力である。その向こう、飛騨山脈のふもとには名湯が連なっている。平湯、福地、栃尾、新穂高と続く温泉ロードはたまらない。あの大露天風呂で有名な水明館佳留萱山荘に泊まったことがあるがこれは素晴らしい。他にも無料または寸志で入れる温泉がズラリ。槍見館は今は立派な旅館になったが、ここの露天風呂から見る槍ヶ岳は絶景である。東洋一の新穂高ロープウェイを使って山々を見ると、それはもう息を呑む雲上の風景だ。しかし何故か上高地から見る風景と一味違うのは、前述した信州と岐阜の違いなのだろう。

 山間のルートはこの高山、古川、新穂高が代表だがもうひとつ西のルートもいい。それは白山の麓を辿る道だ。郡上八幡は郡上おどりで高名な城下町だが、その川の流れの清冽さには圧倒される。吉田川はもちろん美しいが、ここには名水100選第一号の宗祇水もある。マニアは行くべき。
 北上するとひるがの高原、御母衣と続き白川郷に至る。ご存知世界遺産合掌造りだ。見ておく価値がある。

 飛騨の話に終始してしまったが、美濃地方も捨て置けない。東へゆく木曽路、恵那峡を過ぎ中津川・坂下はフォークの聖地なのだが、興味のない人にも見どころは様々多い。、
 その県庁所在地はもちろん岐阜市である。ここで、金華山岐阜城(国取り物語で高名ですね)そして長良川の鵜飼を見物した経験はあるのだが、実は岐阜市内で呑んだことがまだない。これは由々しきことで、なんとしてもそのうち実行したいと思う。柳ヶ瀬で呑まずして岐阜を知ったことにはならないと常々思っていて、それが今後の目標なのである。

僕の旅 愛知県 

2005年09月09日 | 都道府県見て歩き
 現在「愛・地球博」なる愛知万博が開催されている。それにともなってどうも世の中は愛知県、名古屋ブームである。たいていは万博そのものよりも「名古屋の楽しい食べ物」に焦点が当てられており、それはそれで楽しそうだ。あの地方には独特の食べ物があってそれぞれ美味い。

 そんな話から始めていいのかとも思うが、どうも僕にとって愛知県は感覚的に旅先ではない。というのは、短い期間だったが若いときに住んでいたことがあるからだ。これは一年に満たない期間だったのだが、その後も仕事の関係から多くて月に一度くらい会議のために出張していたことが続き、どうも旅としての新鮮さがなかなか感じられないのだ。まあこれは僕の勝手な都合なのだが。
なんとか「旅」的感覚になろうと思ってあちこち出歩いてはいるのだが、なかなかに難しい。
 一番の目玉は「名古屋城」だろうか。金のシャチホコと言えば名古屋のシンボルである。しかし、名古屋城はもちろん戦災で焼けており再建である。再建天守閣にはあまり興味が持てないのだが、ここは内部が資料館になっていて案外歴史好きには楽しい。また桜の名所でありその時期には美しさを増す。
 城と言えば、現存する城では、日本最古といわれている犬山城もある。近くには明治村もあってポイントだろう。リトルワールドというのもあって一度は行ってみてもいい。
 歴史散策をするなら、当然愛知県は信長、秀吉、家康を生んだ土地柄でもありいろいろ残ってはいるのだが、これには想像力と思い入れが必要とも言える。例えば桶狭間を訪ねてもなかなか往時を偲ぶものはなく、石碑を中心にあの合戦を想像して楽しむより方法がない。長久手などしっかり歩けばかなり楽しめるのだが、ちょっとマニアックな感は否めないような気がする。
 風光明媚なところとして思い浮かぶのはどこだろうか。やはり知多半島や渥美半島だろうか。知多半島には、最近有名なセントレア空港が出来て凄いが、渥美半島はまだまだ素朴と言えるかもしれない。渥美半島先端は伊良湖岬で、あの藤村の「椰子の実」の舞台である。歌碑もあるので、文学散歩と洒落込むことも可能。

 うーん、大都会名古屋を中心とした愛知県、もちろん尾張と三河では県民性も違い言葉も微妙に異なるのだが、やはり観光客とすれば前述のように「食べ物」に焦点を絞った方がいいのかもしれないなぁ。そのほうが独自の「濃い」文化がわかりやすい。
 「名古屋」と言えば「味噌」でありその八丁味噌の独特の風味はこの土地を代表する食べ物かもしれない。「味噌カツ」は本当に有名で、「矢場とん」などの有名店も多い。妙に美味いのだな。また名古屋では「おでん」も味噌でこっくりと煮込む。真っ黒に煮上がった大根など実にしみじみ美味いが、その味噌の海の中に、串カツをどっぷりつけて食べるのもまた名古屋の味覚である。これが「味噌カツ」のルーツなのか。以外にしつこくない。
 味噌、といえば「味噌煮込みうどん」である。芯の残った太いうどんがグツグツと鍋の中でたぎり、穴をわざと開けずに作った「フタ」に取りながら食べる。独特の味わい。ちょっと塩分濃度がよそ者には強い感じがするので、ごはんと一緒に食べるのがいい。なお、観光客はやはり有名な「山本屋」に行くが、これも「山本屋総本家」と「山本屋本店」がありいずれ元祖か本家かという話だが、素人にはまあどちらが美味いかという判別まではつきにくい。
 名古屋の麺、と言えば他にも独特なものが多く、まず「きしめん」。これは駅の構内でもそりゃ食べられるが、名代の店に行くと実に「コシがある」ことに気づかされる。なかなか当たり外れの多い食べ物のような気がする。
 名古屋には何故か「カレーうどん」の美味い店が多い。独特のとろみの中に癖になるスパイスが生きている。僕は栄でさんざん呑んだ後、ラーメンではなくてつい「カレーうどん」を食する。40歳を過ぎてこんなことをやっていては本当は良くないのだが(汗)。
 ラーメンは、何故か台湾ラーメンがブーム。今池に「味仙」という店があり火付け役で、僕はこの界隈に住んでいたので知っているが、このピリカラの味が癖になる。この台湾ラーメン、今では店も増えて対外的には名古屋を代表するらーメンである。しかし、名古屋の本当のソウルラーメンと言えば「寿がきや」チェーンのラーメンではないかとふと思ったりもするのだ。なんと言っても安いしどこにでも店はある。あのスプーンとフォークを合体させた給食のスプーンのような形状の食器とともにおなじみ。
 麺には他に「あんかけスパ」もあるが…。
 他には「手羽先」がある。名古屋はもともと「名古屋コーチン」に代表される鶏肉の一大消費地帯だが、中でもこの手羽先は独特。通常焼き鳥屋では手羽は串に刺して焼いて出されるが、名古屋では唐揚にして独自のタレを絡めて(しみ込ませて)食す。油淋鶏(ユーリンチー)にも近いがまた違う。「風来坊」と「世界のやまちゃん」がしのぎを削る。ビールに合うのですな。
 「鰻のひつまぶし」や「天むす」など独自の食世界が他にも広がるが、もう言及しきれない。名古屋ブームに乗ってあちこちで喧伝されているからもう知らない人は少ないだろう。
 さて、喫茶店文化も名古屋の特徴であり、その「モーニングサービス」の豪華さはよく知られるところだろう。名古屋の人たちが好む「ちょっとお値打ちな感じ」によくマッチしている。え、こんなものまでサービスで付いてくるの? 的感動は確かにある。
 喫茶店でのランチと言えばやっぱり「エビフリャー(エビフライ)」だろうが、他にも楽しいメニューがいっぱい。「小倉トースト」を初めて見たときのカルチャーショックは確かにあるが、なに、トーストにあんこがてんこ盛りであっても「あんぱん」だってあるのだから奇異な目で見ることはない。
 僕が喫茶店メニューで大好きなのは、これは「コメダ珈琲店」チェーンに限るのだが、「シロノワール」というやつである。これは何かと言えば、丸いふんわれとした熱々のデニッシュパンの上に冷たいソフトクリームをどちゃっとのっけて、さらにメープルシロップをかけて食するという凄まじいもの。僕はこれだけは名古屋に行ったら絶対食べたいものであり、かなり巨大なのだがペロリと食べてしまう。メープルシロップ好きにはたまらないシロモノ。これを食べて「どえりゃーうまいでかんわ。いっぺん食べてみやーし」とつぶやくのが慣わしである。

 予想通り食べ物の話に終始してしまった。

僕の旅 静岡県

2005年08月23日 | 都道府県見て歩き
 静岡は過ごしやすそうなところだなといつも思う。交通の要衝にあり首都圏もすぐ。気候温暖で雪も降らず盆地の暑さもない。富士山が聳え風光明媚。海のものも山のものも美味い。地震の恐さがなければ天国だろう。もっとも今地震は日本中安全なところはないから、東海沖地震にだけビビることも通用しない。

 2~3歳のときの旅行はともかく、僕の最も鮮明に覚えている最初の旅行は8歳の静岡行きである。家族旅行で、登呂遺跡、家康の久能山を見物し、石垣イチゴの食べ放題をやって熱海で泊まった。原点的旅行と言っていい。それ以来、一人旅に行くようになってもしばしば静岡は訪れ楽しんでいる。

 その静岡の最大の観光ポイントと言えば伊豆であろうが、僕は30歳過ぎまで伊豆に足を踏み入れたことはなかった。伊豆や箱根はどちらかと言えば保養地系だろうとタカをくくっていて、そのうち団体旅行などで絶対に訪れる機会があるだろうと踏んで放置し、静岡では宿場町を巡り、御前崎で高波を見、大井川を遡り寸又峡へ足を伸ばして温泉に入るなどの旅を繰り返した。しかし、伊豆行きの機会は全然巡って来ず(涙)、業を煮やしてとうとう出かけた。
 さすが首都圏からの観光客が多く道は渋滞したが、なかなかに楽しく一度では見きれずに何度も足を運ぶこととなった。そうして、源氏ゆかりの韮山や修善寺を歩き、温泉に入り、天城越えをして淨蓮の滝のそばでワサビを齧って涙を流した。ここは干物が抜群に美味い。新鮮な魚をそのまま干しちゃうのだから当然なのかもしれないが。

 こうして、日本海側に住んでいたときには不便でなかなか行けなかった静岡に、近畿圏に越してからはしばしば訪れるようになった。そして見るべきものも結構見て、僕は最後の宿題のようなものにとりかかることにした。
それはもちろん、富士山登頂である。

 富士山。もちろん日本最高峰であり日本の象徴とも言える。しかしその3776mという標高に恐れをなしていた。僕の両親は山が大好きであり若い頃はアルプスに何度も入った人たちで、「富士山も登ったことないようではお前は日本を知っているとは言えない」といつも言われていた。しかし僕はサイクリスト出身であり平面ばかりをウロウロした旅を常としている。今までに登った最高峰は北海道大雪山旭岳であり、これは2290mである。それもロープウェイを使ったキセルであった。
 しかし、日本の東西南北の端っこは行ける所はすべて行き、日本のもう一つの極みである富士山頂への思いは徐々に増していた。女房までもが独身時代に登ったことがあるという。うーむ。これは体力のあるうちに行っておかないと後悔するぞ。
てなわけで、数年前満を持して出かけた。

 富士山は5合目までは車で行ける。これも一種のキセルではあるがそのくらいは勘弁してもらう。5合目まで行けば、実働は1500m程度だ。僕は北海道の利尻岳に登頂したことがあり、あのときは海抜0mから登って1721mを極めた。あっちのほうが大変じゃないか。もっとも利尻に登ったのは21歳のときだったのであるが。
 とりあえず富士宮口5合目まで車で行って例によってパーキングキャンプ。そして、夜明けとともに出発した。同行は妻である。
 よく晴れていた。見上げれば山頂が見える。「なんだ、すぐに登れそうじゃないか」 しかしこれが富士山の見せるペテンであって、どれだけ行っても山頂には着かないのである。見えているぶんだけ余計に苦しい思いがする。
 妻は、スタンプラリーマニアであるので金剛杖に焼印を押してもらっている。6合目、7合目と山小屋がしっかり設置されていて、そこで杖に焼印を押してくれるのだ。頂上まで行くと全部そろって記念になる。頂上まで7つの山小屋があり、着くたびに休憩するのだが、これだけ登っても上と下の山小屋は可視界にあり、なんだかちょっとしか進んでいない感じがする。この森林限界を超えた場所と言うのは実に考えものだ。視線をさえぎる物がなく一直線に頂上まで見渡せるので全然景色が変わらない。変化のない、ただただ登るだけの山というのは精神的に疲れる。富士山は麓から見て愛でるものだと本当に思う。日本一の山でなければ誰が登るものか。
 しかし、単調ではあっても少しづつでも登っているのだから必ず登りきれる。8合目、9合目と焼印を押してもらいながら進む。もう少しのはずだ。しかし、山小屋がもう一つ現れて「9合5勺合目(!)」おいおいフェイントですか。

 昼前、ようやく山頂にたどり着いた。とうとう日本最高峰である。ふぅ。
 さすがに周りにはここより高い山はない(当たり前ですが)。八ヶ岳が見えているが遥かに低く見える。天気に恵まれてありがたかったが紫外線は異常に強い。浅間神社で刻印(ここは焼印ではない)を押してもらい、測候所などを見物して記念写真も撮るだけとった。あとは少し休んで下山である。
 しかし、下山もかなり厳しいのである。楽なように思えるがヒザへの負担は大変なものだ。妻もご多分に漏れず足を痛めた。ホウホウの態でようやく5合目まで帰ることができた。まずはめでたしめでたしである。富士宮に降りて、温泉に浸かって疲れを癒した。
 行った事のない人は一度は登ってもいいと思う。なにより記念になる。僕のように登山素人でも大丈夫。老人も結構登っていた。しかし、二回登りたくはないが。




僕の旅 長野県  

2005年08月11日 | 都道府県見て歩き
 現在はどうなっているのかは知らないが、僕が当時通っていた京都の公立高校では、修学旅行がなかった。無い、と言ってしまえば正確ではなく、2泊3日の「宿泊行事」というものが組まれていた。修学旅行で韓国やハワイに行く現在のそれとは大きく趣きを異にしているが、それはクラス毎に出かけることになっていて、自主性を重んじて計画を各々に立てさせてくれていた(当然予算があるのでチェックは入るが)。
 当時旅行が好きになりかけていた僕は委員をかって出て、行き先を信州に決めてしまった。多分に当時愛読していた北杜夫の「どくとるマンボウ青春記」の影響である。
 そうして出かけた信州の旅は予想以上に素晴らしく、晴れわたった秋の空に山々が映えた。特にビーナスラインの車山から見た北アルプスから富士山に至る360度の展望は驚くほど美しく感動した。それが信州の初体験である。

 その後、僕は信州に何度も訪れるようになった。むしろ社会人になってからの方がよく通った。夏は毎週末信州に居た年もある。
 名古屋に住んでいた頃、鬱屈して僕は金曜の夜に大酒を呑み、錯乱してどうしても旅に出たくなって大坂発の松本行き夜行「ちくま」に深夜に乗り込んだ。名古屋発が25時前だったから、3時間と少し乗れば松本に着く。まだ酔眼のまま、松本電鉄の始発新島々行きに乗り込み、バスを乗り継いで早朝6時に上高地に着いた。
 そして、登山客に混じって揺れる頭のままぶらりと歩き出した。徐々に陽が昇り、穂高岳が朝日に染まっていく。そのまま僕は河童橋を過ぎ、明神池に向かって歩いた。
 朝の斜光線の中、靄が徐々に晴れていく。あくまで清涼な空気と煌めく光。鮮やかな緑は陽を反射してあまりにも美しく輝き、荘厳なまでにその姿を現している。登山の人たちは山を目指して先を急ぎもう周りには誰も居ない。こんな綺麗で神聖な場所がまだ在ったのかと僕は感動してそこから動けなくなった。

 「なるほど、これは神河内だ…」

 今でこそここは上高地という無機質な名称だが、かつては神の降り立つ場所だったのだ。水はあくまでも清冽であり、山々は気高く聳える。静寂の中に、神々がささやく声がそこかしこに聞こえてくるようだ。その奇跡のような光景に、前の晩に酔っ払っていたことも忘れ、しかしながら立ち尽くすしか術はなかった。

 あまりクドクドと言うとウザいのは自分でも分かっているので止めるが、かのように信州は時々驚くような美しさを見せてくれる。都市部に住んでいる人間にとって、また大好きな北海道や沖縄には思い立って直ぐに行けない状況にある人間にとって、信州は手の届く楽園であって、気持ちをなだらかにしてくれる空間でもある。

 僕は長く拠点を北陸に置いていたこともあって、北信濃の方が馴染み深い。新潟から行って、糸魚川から入るルートが近い。小谷(温泉がいい)、白馬(八方尾根は綺麗だなぁ)、大町(博物館だらけ)、安曇野(道祖神とワサビの故郷)と続いて松本に至るルートが一番のおなじみ。北アルプスを見上げる景勝地いっぱいのところだ。穴場はたくさん知っているがあんまり書かないでおこう。もう一つのルートは直江津から入る道。妙高、黒姫、戸隠を経て長野市に入る。北東へ行けば飯山や野沢温泉、さらにそのまま南東へと行けば上田、小諸、軽井沢へと到達する。こうして書いていると関東在住の人たちとは全く逆のルートだな。
 思い出はそれぞれに濃くて、とてもひと記事では書ききれないのでまた機会を作ってチョコチョコと書いていきたい。なんせ自然満喫はもちろんだが、いろいろな側面があるのだ。
 例えば長野善光寺から、上田、小諸となると歴史散策の様相を呈する。塩田平を歩くとどうしても真田だ。また軽井沢は文学散歩となる。それぞれ一日では追いつかない。また、海野宿や木曾の馬籠、妻籠ともなると映画のセットのような情景だ。
 戸隠や諏訪は、神話マニアにはたまらない。有名な諏訪大社の御柱祭も見たが、信州には無数の神が存在する。自然が濃いからだろう。
 また、温泉がいい。僕の温泉入湯データによると、居住地だった石川、兵庫両県を除いては、北海道に次いで温泉に数多く入っている。数もそうだが印象に残る露天風呂も多い。気持ちいいのである。
 食べ物は蕎麦が代表か。それぞれの山間、谷には美味い蕎麦やがあって、どれが№1とはもちろん言い切れないが、僕は戸隠の蕎麦が好き。量なら上田の刀屋が最高だろう。

 僕はこのGWの前半に信州に行ったばかりなのだが、またぞろ虫が動き出す。山々がまた見たいな。

僕の旅 新潟県 

2005年07月02日 | 都道府県見て歩き
 こんなことを書いていいのかと迷ったのだが正直に書くことにする。
 昨年おきた新潟中越大震災。阪神大震災以来の大惨事で、もちろん阪神地区に現在住む僕にとっても関心事であり被災者の方々に心よりお見舞い申し上げる気持ちは十分に持っている。
 その第一報がニュースで飛び込んだ昨年秋。最初は被害状況がわからずTVに釘付けとなっていた。その震源地が中越の山間部であり、川口町が震度7を記録したと知り、またその周辺部の被害状況を聞き及び、どうしても僕は心配になってしまったことがあった。
 「へぎそばの店は無事だったろうか?」
 小千谷や十日町の被災状況が刻々とマスコミを通じて届けられ、かなり深刻な状況になっていると聞き及び、僕は大好きなそば屋さんのことも気がかりになっていた。

 かように、僕はこの地方の名物である「へぎそば」を偏愛している。
 へぎそばとは何か。「へぎ」というのは剥ぎ板のことらしい。その「へぎ」に振り洗いしたそばを盛り付けて供してくれる。そのそばは、つなぎに布海苔という海草を使用しているために実にツルツル感が心地よい。ツルツルシコシコ。そして香りとのど越しが僕には最高なのだ。
 小千谷の角屋、わたや。十日町の小嶋屋。いずれも旨い。しかし説明しずらいな。申し訳ないけれどもわたやのHPをリンクしておくので想像していただきたい。
 北陸に住んでいた頃は、上越市に小嶋屋の支店があり、よく車を飛ばして食べに行った。そして必ず土産に買い込んで少しづつうちで拵えては悦に入っていた。
幸いにして現在は営業を再開してがんばっておられるらしい。そう聞いて胸をなでおろしたのである。

 新潟と言って蕎麦の話しか書かないのはいくらなんでも自分でもヒドいとは思っている。
 新潟にはかつてはよく行った。以前は石川県に住んでいたこともあって「近い」遊び場だった。海岸線の長い県であり、風光明媚なところが多い。青海町(今は糸魚川市か)から山北町までずーっと広がっていて、かつて自転車で旅をしたときには「どこまで行っても新潟県かぁ」とかなり疲れたことも思い出す。
 西から入ればまず親不知・子不知の険しい海岸。糸魚川から姫川に沿って山に入ればヒスイ峡と塩の道。高田は上杉謙信の足跡も追える。山に入れば妙高、赤倉。スキーはしないけれども温泉がいい。さらに進めば良寛さんゆかりの出雲崎と魚のアメ横で有名な寺泊。長岡はご承知のとおり河合継之介の本拠地。「雪国」で高名な湯沢温泉。そして弥彦神社と新潟の居酒屋。ああもうキリがない。遊んでいて飽きないところであることは間違いない。

 佐渡島はまた楽しいところである。択捉、国後、沖縄本島に続く大きな島であり見ごたえがある。海もきれいであるし景勝地も多い。金山もすっかり観光地用に整備されてはいるが興味深い。また、歴史的散策ポイントが実に多い。流人の島であるという歴史のため、さまざまな史跡がある。順徳上皇や日蓮の足跡もあり、由緒ある寺も多い。一度では見きれず何度も足を運ぶこととなってしまった。

 もちろん旨いものは蕎麦だけではない。もちろん魚が素晴らしい。その蕎麦や魚と切っても切れない関係なのが「酒」。新潟はご存知酒どころであるというのも忘れてはいけない。
 酒については僕もずいぶん語ってきたので重複は避けたいが、「灘の生一本」が完全に主流だった日本の酒業界に「越の寒梅」を登場させ、地酒というジャンルを認知させて、やがて〆張鶴、八海山、久保田などをメジャーにして酒の価値観をガラリと変えた功績を忘れるわけにはいかない。どの地方でも丁寧な酒造りはなされていたのに全然世に知られることもなく、大メーカーの桶買いに苦しんでいた地方蔵に光を当て、それを世間に認めさせたのは新潟の酒であろう。現在は特級だの一級だのという酒の等級も廃止され地酒全盛時代であるが、その先駆けとしての新潟の美味い酒を隅に追いやるわけにはいかないと思うのだ。
 そんなふうに書いていたらなんだかたまらなくなってきたので、うちに今ちょうどある「清泉」を開けちゃおうかしらん。 


僕の旅 山梨県

2005年06月18日 | 都道府県見て歩き
 まず昔の話から。
 僕が初めて山梨に行ったのは約20年前、野球の応援の帰りだった。はぁ? そう言うとなんの話かわからないので説明すると、大学野球ファンだった僕は、母校が近畿を勝ち抜き神宮大会へ出場となった際、応援に友人たちと東京へ繰り出したのである。
 東京に行くにあたって、友人たちはもちろん往復切符を用意したが、僕が買ったのは京都発京都行きの片道切符。国鉄(当時)には遠距離逓減の規則があり、距離が伸びれば伸びるほど格安になるのだ。同じ駅を二回通らなければ片道切符なので、まず京都から奈良線で南下、関西本線に乗り換え三重県経由名古屋、そこから東海道本線で東京。帰りは中央本線で長野県経由で大回り、そのまま名古屋に行くところを手前の多治見で太多線に乗り換え美濃太田、高山本線で岐阜、そうして名古屋をやりすごし東海道本線で京都まで。これなら同じ路線を通らずに片道切符となる。ややこしいけれども往復より安いのだった。フトコロが寂しいとこういう手段も講じる。まあ長野経由で帰るなどという行為に誰も賛同者は居なかったので僕一人なのだが。

 その日の講義が終わった昼下がり、京都駅から奈良線に乗った。これから東京に向かうとは信じられない列車のチョイスである。木津で乗り換え、伊賀上野を経由して夕刻に名古屋へ。そこで、大垣発の東京行き夜行鈍行列車に乗り換える。すると早暁東京に着く。そのまま神宮球場へ行き。熱戦に声を枯らして応援した。勝ち進めば何泊でもと考えていたが(友人も住んでいるし)、残念ながら敗退、僕は傷心(?)のまま新宿へ向かい、上諏訪行き夜行鈍行に乗り込んだ。(昔は上諏訪夜行と言われて旅人が集ったものだが…)
 朝4時くらいに、小淵沢駅着。(ここからようやく山梨県の話。前フリが長すぎる)小海線の一番列車に乗り込んだ。夜が白々と明け、黄昏色の風景の中、富士山がシルエットで浮かび上がり、美しきこと比類がない。こんな高原の風景というのは関西にはない。しばらくその光景を眺めやるうちに夜が明け、列車は野辺山に到着し下車した。
 野辺山は国鉄最高所の駅であり、清冽な空気の中、昨日は東京で野球観戦をしていたとは信じられないような気分でしばらく佇んでいた。(しかし野辺山は長野県なので話は端折る)
 その後国鉄最高地点まで歩き、そこで八ヶ岳の美しい山容を初めて見た。杉田二郎の「八ヶ岳」という歌に憧れていた僕は感動し、雄大な風景に心を奪われ、ずっと眺めながら歩いて清里にまで戻った(ようやく山梨)。しかしそこはウシの形をした店とかよく判らないカラフルな店舗が並ぶエリアで、場違いな僕は横道をそれ、牧場の方面へ向かう。まず清泉寮へ。ソフトクリームが旨い。その後遊歩道に入るが、途中道がわからなくなり川俣川の渓谷に入り込み、落葉した枯れ葉の洪水の中をラッセルしながら歩き、ようやく美しの森へとたどり着く。一日ハイカーをやって、夕刻泊。
 翌日は少しまだ清里をブラついてケーキなどを食べた後(少しはミーハーもやってみたい)、昼過ぎに小淵沢へと戻る。すずらん池など見学したのち、列車に乗って諏訪へと向かった。僕の山梨初体験はこれだけである。話が長すぎるな。

 たったこれだけの山梨体験なのに、その後僕はずいぶんご無沙汰をしてしまうのである。それは、「山梨は休日人が多いよ」といろいろな人から忠告されたからだった。
 山梨の話じゃないけれど、館山とか伊豆とか那須高原とかは東京圏の人にとっては実に身近なのでしょうね。ちょっと日帰りないしは一泊二日で、といった感覚で気軽に行く旅先としてとらえている、と聞く事も多い。関西にはそういうふうな場所が少ないので羨ましいなぁと思ったりもする。
 その感覚の範疇にはおそらく山梨県の清里や山中湖なんかも入っているのだろう。なので週末にこういうところへ行くと大渋滞に巻き込まれることになる。首都圏って人がたくさん住んでいるのだよなぁ(当たり前ですが)。

 社会人になって、一度山梨を訪れた。富士五湖を中心にしてブラついたのだけれど、そりゃもう人の波だった。富士山は流麗に聳え美しかったのだが、いい天気の秋の週末だったゆえにとにかく混んでいた。ああやっぱり東京に近いのだなと認識したのだった。
 そんなこんなで山梨を避ける傾向にあったのだけれど、結婚したら妻が大の「山梨ファン」であって、山梨に行こう山梨に行こうとうるさい。おかげで山梨もその後何度も行き、かなり細かく歩いた。やはり人は多いけれどもそういうもんだと開き直って時間にゆとりさえ持てば大したことではない。

 甲府は山梨の中心で武田信玄の本拠地であるが、信玄は「人は城、人は石垣」であって甲府城は信玄の遺構ではない。しかしその跡である舞鶴公園はいいところだ。また、僕は博物館や文学館にはよく行っても滅多に美術館には足を運ばないが、山梨県立美術館にはミレーの「種をまく人」があり行かないわけにはいかない。
 富士五湖は確かにペンション村の趣きはあるが、邪心を抜くとこれもいいところ。河口湖から少し足を延ばした御坂峠には太宰治ゆかりの天下茶屋があり、「富士山には月見草がよく似合う」と嘯きたくなる。
 身延山、そして昇仙峡も必ず訪れなければならないポイントだ。
 そして花。甲斐一宮の咲き乱れる桃の花は素晴らしい。同居人がここの大ファンでシーズンになると「行きたいなぁ」と僕をせっつく。そんなに何度も行けないが、桃と並ぶ山梨のもう一つの果樹、ぶどうについては僕も実に興味がある。当然花ではなくその果実を醸した液体を飲みたいからであるのは間違いないのだが、勝沼を筆頭とするワイナリーの充実度合いは比類が無く、ここに車で行っては勿体ない。
 食べ物はなんと言っても「ほうとう」だろう。山梨に行ってほうとうを食べずに帰る事はない。美味いんですよなぁ。

 最近また少し足が遠のいている。行きたいなぁ。


僕の旅 神奈川県

2005年06月07日 | 都道府県見て歩き
 僕は子供の頃から地理は得意だった。長じて旅に出るようになってからは特にその傾向が助長された。なので、鳥取と島根の位置関係がわからない、また群馬と栃木はどっちかわからない、などと言う話を聞くと信じられない思いがする。
 そんな大見得を切ってこんなことを言うのは本当に恥かしいが、しかし恥を忍んで告白するのだが、大学に行くくらいまで、僕は箱根は静岡県だと思っていたのである。赤っ恥である。横浜と箱根が同一県にあるなんて感覚としてピンとこなかったのだ。何でも知ったつもりになって驕っていてはいけない、との自己反省をする。
 神奈川=横浜、と考えるからこんな失態を招く。むろん、神奈川県は広いのだ。丹沢山系だってある。金太郎さんの足柄山だって神奈川県、と思うと今でもピンと来ないのだが。

 旅行、ということで神奈川に最初に訪れたのはもう20年以上前になる。そのときは主として横浜、鎌倉だった。横浜といえば山下公園、外人墓地、元町。そりゃもうおのぼりさんでごんす。なんとなしにただよう異国情緒とオシャレな雰囲気。ここは一人で来るところじゃないなぁと痛切に思ったものです。その後何度も訪れているけれども、以後は食い気一辺倒だったかもしれない。
 なんと言っても中華街!ここでずいぶんと美味いものを食べた。そりゃ聘珍樓や重慶飯店のような有名店には入った事はないけれども、庶民的な店にはよく足を運んだ。 朝は中華粥。僕は謝甜記よりも安記の方が好き。こっちの方が朝早くから開いていたような気がする。また楽園のモツ料理。梅蘭の焼きそば。清風楼のシュウマイ。徳記の豚足そば。みんなたまらん。また、ちょっと奮発して入った海南飯店の魚の清蒸とねぎそばは本当に忘れられない味である。紹興酒に合うんだよなぁ。
 そうして、昨今は中華街入りびたりである。実に幸せなこと。

 鎌倉はまた違った趣きを見せてくれる。電車を北鎌倉で降りて、円覚寺へ。東慶寺へ駆け込んだりもする。心が洗われる。明月院、建長寺に寄って、鶴岡八幡宮へ。このブログで書いているとおり僕は歴史好きなので、様々な思いが去来する。鎌倉は細かく歩くと実に楽しい。おお、ここが東勝寺跡か。ここが頼朝の墓か。ここが和田一族戦没地か…。キリがない。とにかくひたすら歩いて足がボーになる。それでもまだ行けていないところが多い。地元の人が羨ましい。
 鎌倉大仏や長谷寺方面は、もう雰囲気が「湘南」という感じになってくる。
 それにしても、初めて「江ノ電」に乗ったときは驚いた。電車が家の軒先を走っているのだ。妙にスリルを感じる小さな電車は街の裏道をすり抜け(ホントにそんな感じ)、誰か飛び出したらアブねーなぁと思う頃、急に視界が開けて海と江ノ島が顔を見せる。このドラマティックな展開は日本の車窓風景でも白眉だろう。江ノ島にはなかなか行く機会がなかったが、後年ちょっとした時間を見つけて登って大汗をかいた。ここには大変珍しい八臂弁財天さんがいらっしゃるのだがそれはさておき。

 さて、普通はそのあと三浦半島へと話がいくのだろうが、城ヶ島も観音崎も油壺も知らない。いつかは行ってみたいとは思っているが。葉山に仕事で行った事くらいか。あっと、横須賀には行った事がある。ここが「ドブ板通り」か、と感心しながら歩き、戦艦「三笠」を見に行った。
 あとはほとんど知らない。湘南も、藤沢や平塚は通ったことがあるくらい。内陸部も、海老名や厚木には行った事がない。相模原に人に会いに行った事があるくらい。厚木は小泉今日子女史の故郷なのだが…(関係ないか)。

 小田原、箱根となるとまたイメージががらりと変わる。先ほど「ピンとこない」などと失礼な発言をしたが、実にいいところなのである。
 僕は伊豆や箱根といったところには、30代半ばで初めて行った。
 昔、自転車で旅していた頃、東海道を東進していて、箱根の麓まできて「ここを越えても先には横浜、東京があるばかり。こんな小汚い自転車でエッチラオッチラ行って何程の事があろうか」と言って引き返してしまったことがある。確かに汚い格好だったのだ。気後れしたのが正直なところだろう。そのせいで僕は自転車日本一周は完全には達成できていない。
 その後も「伊豆とか箱根は社員旅行とかで行くところだろう。まだ行かなくてもいいや」とか思っていて、ずっとそんな旅行の機会も訪れぬまま、しびれをきらせてとうとう先年自力で行った。箱根の温泉は気持ちいいし、北条早雲の墓に詣でながら、何故いままで来なかったのだろう、と悔やんだ。

 これで神奈川県は終わりかと思ったら…もう一つの政令指定都市、川崎があった。政令指定都市が隣り合っているというのも凄い密集さを感じさせる。県外者にとっては公害やベッドタウンのイメージがあるが、どっこいここには川崎大師がある。飴切りは派手だし久寿餅は旨い。なかなか捨てたものではない。



僕の旅 千葉県 

2005年05月20日 | 都道府県見て歩き
 千葉県。千葉県を書く順番が来たなぁ。

 「都道府県見てあるき」というカテゴリーで書こうとして、おそらく一番困るであろうと思われたのが千葉県である。もちろん足を踏み入れた回数が最も少ない県だからだ。茨城栃木の時にも書いたけれども、関西在住の人間にとって、盲点となる県だと思う。千葉の方には本当に申し訳ないが。
 千葉県は海に囲まれた風光明媚で素晴らしいところだとは承知している。ざっと考えただけでも、 犬吠埼や九十九里浜、また館山、勝浦、大原、鴨川などの南房総の自然。成田山新勝寺。潮干狩りと旨い魚。木更津キャッツアイ。見どころ満載だ。
 妻が言う。「あなたマザー牧場にも行った事ないの?」菜の花が大好きな彼女は以前関東在住だったときに頻繁に行ったそうだ。すまん、まだ未踏なのだ。そういえば、千葉には花の名所も多い。

 初めて足を踏み入れたのはいつだったか…。何故行ったのかの理由ははっきりと憶えている。
 僕は当時、あちこち旅をしていて、ある時「泊ったことのない県はあったっけ?」と確認作業をした。その時になって、「千葉県にだけは泊ったことがない。しかも足を踏み入れたこともない」ということがわかったのだった。それでは、というので、東京に所用があって行った際にわざわざ千葉県で泊った。ちょっとあざとかったが、これで「日本全県宿泊完了」となった。しかし、これでは千葉を知ったことにはならない。

 えっとそれ以外では…。
 ディズニーランドには一回行った。あれは千葉県だ。仕事だったけれども幕張メッセにも行った。あれも千葉県か。それから、成田空港からフライトの経験が。あれも千葉だな…。
 こんなことを書いていては千葉の人にブッ飛ばされ。

 しかし記憶を辿ると、実は房総一周も経験があるのである。
 ただ、何故房総一周をしたのかには説明が要る。
 12年ほど前の話。当時付き合っていた女性(現在の妻)は、僕と付き合うくらいなので当然旅行も好きな人だった訳なのだが、旅の好みは多少違っていたところもあった。
 彼女が好きな事の一つに、「スタンプラリー」というものがある。よくイベント会場などで、ポイントにスタンプが置いてあって、それを全部集める記念品がもらえる、といった趣向のもの。そういうのには僕はあまり興味がないのだが、彼女は何故かそういうことが大好きで、もはや景品などどうでもよくただ集めたいという気持ちが強まり、その嗜好を旅にも持ち込む。
 旅でスタンプというと、代表的なのはすなわち「駅のスタンプ」ですね。彼女はあれを当時押しまくって集めていたのだ。

 余談だが、そういうスタンプ集めのために旅をしている人は結構たくさん居る。
 駅のスタンプはもちろんだが、最近は「道の駅」のスタンプを全て網羅しようと張り切っている人も居る。或いは「旅行貯金」。全国の郵便局を巡って少しづつ貯金をし、それぞれで局印を押してもらってコレクションするというもの。局によっては個性溢れるはんこを押してくれるので記念にはなる。しかしこれを日本中全局やろうと思うと実に大変で、全国に貯金可能な郵便局は簡易郵便局を入れると2万や3万はある。非常に壮大な趣味だ。しかも平日4時までしか貯金は出来ないので普通に仕事をしていては難しい。或いは「旅行献血」。各地の血液センターの印を献血手帳にコレクションするというもの。これは文字通り身を削ってやらねばならない。世の中の役にたつのでいい趣味なのだが。これの最大の難点は、2週間に一度しか献血は出来ないというルール。なので九州一周旅行で全県で献血しまくって帰るということは出来ない。ひとつづつ訪ね歩くしかないのだ。高尚な趣味とも言える。
 パスポートに押されるビザ自慢の人は多い。ステイタスになるからだろうが、とにかくたくさんの国に足跡を残したくなる。これもスタンプ蒐集のひとつのあり方。また「お遍路」もスタンプ蒐集に似ているが、同一に論じたら信心深い人に怒られてしまうが。

 閑話休題。旅行貯金や献血などと比べれば駅のスタンプなどまだかわいいものとも言える。
 彼女は旅に出るたびにスタンプを日本中の駅で押しまくり、かなりの数を蒐集していた。全国制覇もチラついていたある日、僕が休日を利用して当時埼玉在住の彼女のところにやってきた。

 「今日どっか行きたいと思ってたとこある?」
 「いや別にないけど」
 「駅のスタンプなんだけどさ、関東は全部押したと思っていたら、灯台下暗しでまだ房総半島全然押してなかったのよ」
 「そうか。じゃあ一緒に行くか」

 そう言って、僕はその休日を彼女と房総一周スタンプ蒐集に出かけることとなった。
 スタンプは全ての駅に設置してあるわけではない。千葉の房総は以下のとおり。
 千葉から房総半島を内房に、木更津、佐貫町、上総湊、浜金谷、富浦、館山、千倉、安房鴨川、安房小湊、行川アイランド、勝浦、御宿、大原、上総一ノ宮、茂原、大網。これが内房線、外房線の全スタンプである(当時)。この駅に途中下車しながらスタンプを押して歩くのだ。
 そうして、僕は一日中房総の汽車に揺られた。列車ダイヤの都合で行ったり来たりしたときもあったが、おおむね鈍行に乗り、のんびりと過ごした。
 関西圏の僕からすれば、「千葉県」というのは首都近郊で「都会」のイメージがあったのだが、房総の車窓風景はいたってのどやかで、うららかな雰囲気が実に心地よかった。海も山も風もみんな気分がよかった。
 日も傾きかけた黄昏時、最後のスタンプを彼女は押し終わり、同時に彼女は関東圏のスタンプを全て制覇した。2ヶ月後には僕と結婚を予定しており関東を離れる彼女にとっては、心残りがなくなったようである。

 そんなふうな簡単な房総一周で、あたこち見て歩いたわけではないのだがなんとなしに思い出に残っている。あんなふうにしてまた房総をのんびりと列車に揺られて旅したいと思っているのだが、なかなか機会を得られずにいる。

僕の旅 東京都 

2005年04月27日 | 都道府県見て歩き
 僕には2歳の記憶が残っている。自分でも疑わしいのだがしょうがない。それは東京旅行の記憶である。当時2歳だった僕は家族旅行で東京に行き、多摩動物園でライオンバスに乗った。その、バスに向かって飛びかかってくるライオンの顔と恐怖を今でも憶えているのである。最古の記憶ですな。

 それはさておき、家族以外で東京に旅行したのは19歳。当時東京の大学に居た高校時代の友人の下宿をねぐらにしてあちこち歩き回った。当時はやはり思考がおのぼりさん。渋谷や原宿などに行った。おお、ここが竹下通りか、これが忠犬ハチ公かと感動したものだ。しかしそれ以降、渋谷や原宿には20年以上足を踏み入れていない。
 東京には何かにつけて出かけることが多く、出張のついでとか様々な機会がある。しかしそれでは落ち着いて遊ぶというわけにもいかないので、東京だけを目的に旅行する、という機会も設けるようにしている。
 なんせ観光ポイントが多いのだ。一般的な観光だけではなく歴史ポイントも多い。歴史は江戸時代からだが、時代が近いぶん史跡が数多く残る。大名屋敷跡だけをみてまわってもどれだけかかるか。様々な文人墨客の足跡が無数に残る東京は、歴史散策、文学散歩をやりだすと実にキリがないと言ってもいい。
 墓参り、というのもやりだしたら止まらない事である。歴史上の人物はかなりの人数が東京に眠っている。ひとつひとつ訪ね歩きたいのだがこれも数が多すぎる。ということで、なかなか果たせずにいることが多い。青山や谷中に行ったらもうそれだけで一日費やしてしまう。
 だから、いわゆるオシャレな東京、というものに行っている時間がなく、代官山も自由が丘も知らない。まあ行ったところで僕には猫に小判なのだけれど。恵比寿なんてラーメン食べに行ったことしかない。お台場も行ったことがない。ここは幕末ファンにとっては是非行かねばならない所なのだが、デートスポットという言葉がどうしても引っかかって行けない。

 妻と東京に居るときは、ほぼ食べ歩きで終わる。いろいろ行きたい店が多いのですね。TVを見ても店舗情報の大半は東京であり、情報過多になってしまって、あれもこれもと走り回る事になる。うなぎ、天ぷら、寿司、蕎麦などの江戸料理はもとより、洋食からラーメンまで名店がひしめきあって、胃袋の許容量を超える。酒も呑まねばならないし、これでなかなか大変なのだ。
 一時期妻とは、「元祖の店シリーズ」をずっとやっていたことがある。これは東京に多いのですね。例えば玉ひでの親子丼、室町砂場の天ざる、煉瓦亭のポークカツレツ、中村屋のカリーライス、銀座チョウシ屋のコロッケ、カトレアのカレーパン、浪花家総本店のたいやき…といった按配。これもあちこちずいぶん歩いた。胃拡張になってしまうな。
 一人だとラーメン食べ歩きに費やすことが多い。このラーメンというやつも情報過多なのだ。書籍、テレビ番組、サイトいずれも花盛り。「あれもたべたいこれもたべたい(by東海林さだお)」状態となる。なかなか体力を消耗するのである。

 しかし、東京は日本の首都であり、やはり所用があって出かけることが数多い。やらねばならないことがあって東京に居るのは実につまらない事だ。人は多いし息苦しい。物価は高い。交渉事も関西弁の僕には難しい(それは関係ないか)。動きまわるのもままならない。シロートにはあの地下鉄路線はなかなか理解出来ませんぜ。しかしタクシーも混む。うーん…。
 やはり東京は遊んでナンボである。

 半日でも東京で自由な時間が持てたなら。僕はまずJR御茶ノ水駅から神田に向かって歩き出す。この駿河台から神保町のあたり、僕は実に落ち着くのである。そして、嬉しい古本屋めぐりを始めるのだ。いつも行く古書店も出来ていて、じっくりと様々な本を探す。ブック○フでは得られない楽しさである。一渡り歩いて疲れたら喫茶店へ。このあたりは喫茶店の名店が多い。ゆっくりと座ってお茶を喫しながら、パラパラと今購入した本のページを捲るのはまた愉しい。冬の日、もう日が暮れている時であればちょっと一杯やりに行く。ここには、一杯160円でハイボールが呑めるトリスバーだってあるのだ。
 そして、中央線で新宿へ。何故か僕は東京の夜、となると新宿に足が向く。昔最初に東京に来たときに根城にしていた友人の下宿が小田急沿線だったので、東京で最初に知った盛り場は新宿だったということもあるだろう。それからずっと新宿。池袋などは酔うと道がわからなくなる。新宿ならなんとなしに土地勘が出来ているからだろう。
 たいていは、「○○横丁」とかに居て、豚の足と厚揚げで焼酎を呑んでいたりする。落ち着くのですね。地元でない気安さもあって、結構酔う。しかしそこに居る人たちはたいていもっと酔っ払いなので気にしなくてもいい。そうして東京の夜は更けていくのである。

僕の旅 埼玉県  

2005年04月20日 | 都道府県見て歩き
 意外に思われるかもしれないが、関東圏にお住まいの方を除くと案外「埼玉県」とちゃんと書けない人は多い。僕のまわりでも何人かそういう人を見かけた。こんなに易しい漢字なのに?
 でも「埼」という字は埼玉以外では確かに使わない。漢字的には「崎」と同じ意味らしい。「さきたま」→「さいたま」なのですな。なのでうっかり「埼」という漢字を忘れちゃう人が多いのだ。
 難読(難書)県名は岐阜と新潟が双璧だと思うが、潟は確かに難しいな。岐阜は易しいけれどもこの字は埼玉同様岐阜県以外では使わないもんなぁ。そういえば岐阜っていう国名は信長が付けたのだったっけ。愛媛ってのも難しいかなぁ。茨城を茨木と書いちゃう人もいたな。茨木は大阪の市ですがな。
 全然関係のない話になってしまった。

 埼玉には実によくお邪魔しているのだが…観光はしていないなあ。見るべきものはたくさんあるはずなのだが。長瀞ライン、秩父、江戸の下町情緒たっぷりの川越駄菓子屋横丁、歴史好きなら高麗神社、さきたま風土記の丘等々…なに一つ行ってない。深く反省しなくては。あ、氷川神社なら行ったな。でかい神社でしたねぇ(それしか感想がないのかい!)。
 関西を拠点としているとどうしても薄くなってしまう。そちら方面に行くとどうしても出歩くのは東京、神奈川が中心になってしまうのだ。うーむ…。

 足を踏み入れた回数だけは多い。仕事の話を書くのはイヤだが東京本社でひと月ほど居ざるを得なかったときは宿舎が浦和(当時)にあってずっと拠点にしていた。寝るために埼玉に居たようなものだったがウナギをよく食べたことが印象に残っている。
 また、昔好きになった人が埼玉在住で、しばしば行ったがデートはもっぱら東京でほとんどそのときの印象はない。その後しばらくして今の嫁サンと付き合うようになって、またその嫁が埼玉在住だったために再び埼玉通いが始まったのだが、やはり遊び場は東京が多かった。埼玉に失礼な話だな。

 しかし、埼玉に全然いなかったわけではない。当時北陸に住んでいた僕は、夜行急行「能登」で日曜日の夜に大宮から乗り込んで帰るのが定番になっていた。ギリギリまで居たわけですね。月曜の朝はそのまま出勤していたから…若かったなぁ。全然疲れを知らなかった。約5年くらい付き合っていたので、ずいぶん大宮の夜を経験したことになる。そのため、大宮の飲み屋街だけは結構詳しい。

 と…詳しいと思っていたのだが、繁華街というものは様変わりが早い。
 一年前に妹夫婦が埼玉に転勤して、大宮に居を構えた。あら懐かしや大宮、ということで甥っ子たちの顔も見がてら訪れてみたのだが、10年の歳月は街を変える。考えてみれば結婚してからこのかた大宮には全然行ってなかった。
 あれ、昔よく行った居酒屋は? 寿司屋は? みーんな無くなっている。エキュート大宮ってなんだ? あれ、こんなところにLoftなんてあったっけ? 大宮レックス? おや、ラーメンの青葉が入ってるじゃないか、食べなければ。

 浦島太郎である。そういえばもう大宮市ではなくさいたま市なのであった。

 旅行をしていると街がどんどん変わっていくのによく気がつかされる。久し振りに行くから余計なのだろう。考えてみれば今僕が住んでいる街だってかなりの変貌を遂げている。しかし住んでいると流れるように少しづつ変わっていくのでその変貌を当たり前のように受け止めているのだろう。
 まあしかし、また埼玉に拠点が出来たので、訪れる機会もあるだろう。
 「今度またうちに泊ってディズニーランドに行けばええやん」
 と妹は言う。うーん。ディズニーランドは埼玉と違うじゃないか。それだとまた同じことの繰り返しだ。埼玉県を歩かないと…。

僕の旅 群馬県 

2005年03月30日 | 都道府県見て歩き
 群馬県に初めて行ったのは、まだ学生の時だった。
 旅先で知り合った人が群馬県在住の人で、冬に北海道に行こうとしていた僕に、
「途中で一日寄って行きなさいよ」と言われたのでノコノコと向かった。
 その人は年上のOLさんだったのだが、休みをとってくれて一日群馬を案内してもらった。助手席に乗せられて、赤城山や榛名山を巡った。真冬のこととて「上州のカラっ風」が吹きすさぶ中の、冬枯れで寂しい、けれども力強い風景を今も憶えている。

 さて、もう20年も前の淡い想い出はさておき、その後は一応一人で、もしくは妻と群馬県は何度か訪れた。
 群馬県は風光明媚なところだ。関東圏の方々なら何かにつけて群馬は行かれるのではないか? スキー場はあるし、尾瀬や谷川、浅間等の景勝はもちろんのこと、岩宿遺跡、多胡碑から富岡製糸工場に至るまで歴史的遺物も多い。萩原朔太郎は月に吠え、水沢うどんと舞茸天ぷらの絶妙のコンビネーションはたまらなく胃袋を誘う。これだけでも群馬は繰り返し訪れる価値があるが、もうひとつ重要な事柄がある。
 それはもちろん「温泉」である。

 旅に出れば、出来るだけ温泉には入りたいと思っている。旅先で熱いお湯に浸り、手足を伸ばせばそれだけで身体中の悪いものが全部出て、悩みもストレスも全て毛穴から抜けていくような気がする。なにより気持ちがいい。賛同してくれる人は多いと思う。
 以前今までの旅行についてあれこれまとめていた時期があって、温泉についても集計したことがある。全部で160ヶ所ほど入湯経験があった。そりゃ、温泉のHPを立ち上げている人たちは1000ヶ所入湯は当たり前の世界であり、それに比べれば微々たるものではあるが、毎日違う温泉に入ったって半年弱かかる数である。マニアックに周っていないからこの数でしかないが(温泉マニアは一日4~5湯は入ったりする。大変だわ)、つたないながらも温泉の好みとかは出てくる。
 数的には北海道が圧倒的に多く、ついで長野、そしてかつて住んでいた石川県と現在住む兵庫県の数が多いが、好みから言えば、群馬県が好きだ。群馬の温泉で今まで外れたことはない。実に気持ちのいいお湯ばかりだ。僕がもし関東の北寄りに住んでいたとしたら週末は必ず群馬の温泉に入りに行くだろう。
 最近温泉にも不当表示の波が押し寄せ、伊香保なんかもちょっとニセ温泉を出来心で出しちゃったりして誠に困ったことではあるが、ウソ温泉の先駆であった白骨温泉は「草津の湯」の湯の花を使って白濁させていたとも言う。それもまた群馬の温泉の実力の一端ではないのか。

 楽しい温泉もある。尻焼温泉は川の中だ。川底から温泉が湧いていて、うまくちょうどいい温度のところを狙って入る。春に雪解けで水かさが増すと温度が下がって入れなかったりする。もちろん無料だ。群馬にはまた高雄温泉や山口露天、聖天様露天風呂など無料開放の温泉も多い。
 法師温泉はフルムーンで有名だし、伊香保温泉もミソをつけたもののまだまだ健在。水上温泉や沢渡温泉など有名どころは多いが、やはり代表的なのは万座温泉や四万温泉、川原湯温泉などだろう。そのトップが前述した草津温泉だ。
 時々、「今までで一番良かった温泉は?」という質問をされることがある。そういうとき僕は躊躇せずに「草津温泉」と答える。え、歓楽温泉じゃない、と相手は怪訝そうな顔をしたりするので困るのだが。例えば知床のカムイワッカ湯の滝とか屋久島の平内海中温泉とか答えると相手は満足するのだろうけれど、ロケーションはともかく草津はお湯の実力が違う。いくら俗化していようとも温泉の値打ちはあくまで泉質。僕の経験上では間違いなく日本一である。入ればわかる。
 草津は楽しいことに共同浴場が充実している。18ヵ所が点在していて全て無料。日帰りで来てもいいのである。渋温泉のように共同浴場は泊りの客に限る、などとは言わない(渋温泉の悪口じゃないですよ。そういうのが当たり前なのです)。草津はお湯が溢れているのだ。街のシンボル湯畑を見ればわかる。
 この18ヵ所の共同浴場の中でも、源泉を持つ白旗の湯、煮川の湯、地蔵の湯などに入ってみればいい。身体中から悪いものをみんな剥ぎ取っていく。むろん知られるとおり高温で長時間入るわけにはいかないし、何度も入浴すると湯当たりを起こす危険性があるのだが、それだけお湯が強烈だという証明でもある。効能云々を超えた実力があるようにも思える。なんせ恋の病以外はみんな治るらしいし。
 ゆっくりひと月くらい湯治で滞在したいなぁ…と夢想するのである。どうもあちこち身体に綻びが見えてきているゆえに。