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凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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僕の旅 栃木県 

2005年03月17日 | 都道府県見て歩き
 茨城県のときにも書いたけれども、僕は旅先としては北関東そして千葉県は弱い。つまりあんまり行っていないのです。
 栃木県も、ちゃんと足を踏み入れたのは一度だけ(通っただけっていうのならしばしばあるが)。そんでどこへ行ったかと言うと、それは日光周辺である。
 栃木県は、関東在住の人にとっては実に行きやすいところで(当たり前だが)、ポイントも那須高原や鬼怒川温泉、足尾銅山や足利学校など様々な見どころがある。そういうところへ全然行っていないというのはなんとも寂しいことだが、将来の楽しみにとっておこう。
 でも、なんとか日光観光だけはやった。日光は修学旅行でも訪れるところで「日光を見ずして結構と言うなかれ」(つまり日本版「ナポリを見て死ね」)と言われるくらいのところであるから、これは行っておかないと話題に取り残される、てな感覚でセカセカと出かけたのだった。

 今市の杉並木を見て(ここは花粉症の元祖みたいなところで今の季節は絶対に近寄りたくない)、その後もちろん東照宮に参拝した。
 まだ世界遺産となる前だったのだが、そりゃ「きらきらし」かった。京都や奈良の寺社を見慣れている人から見れば、実に派手だ。「陽明門」「眠り猫」「三猿」などそれはもう見どころ満載で、確かに飽きないが、これは趣味の問題もあろう。美術的眼力のない僕からすれば、目にチラチラしすぎて大変だった。「侘び」的な感じはなかったような気がする。
 しかしそういう美的感覚からの視点はともかく、これを「歴史的視野」から眺めればそれはもう実に興味深い建造物であって、語ればキリがないので止めるが、家康の霊廟として秀忠が建てたものを、何故に家光はこれほど絢爛豪華な社殿に仕立て変えたのか、それを考えるだけでも様々な想像の世界へと飛べる。「二世権現、二世将軍」とはいったいどういうことなのか?

 えっと、歴史について書く記事ではなかったのでこのへんにして、東照宮に詣でた後、車を借りていろは坂を上り(やっぱり渋滞しました)、華厳ノ滝、中禅寺湖、戦場ガ原へと観光して周った。休日のこととて混雑していたがそりゃ結構でした。

 さて、その華厳の滝で、僕は旅の教訓を一つ得ることになる。
 この旅行は、24、5歳くらいのときに行った。ということは、平成になってまだ何年も経っていない頃だったと思う。
 日光はいつ来ても素晴らしい、紅葉の時期は更にいいが、そうでなくてもまた結構なもの、と謳われてはいたものの、一つだけ以前と変わってしまった風景があった。
 華厳の滝は、中禅寺湖から流れ落ちるその落ち口の岩盤が、かなり大規模な崖崩れを起こしたことがある。それは昭和61年のことで、滝口が約10mも後退してしまったらしい。
 そのせいで、滝が完全に滝壺に落下せず、奥の岩肌に水流が当たるような感じになってしまって、以前の迫力が失われたらしい。誠に残念なことである。

 観光旅行をするときの教訓がこれだ。つまり、「思い立ったら直ぐ行け」「とにかく早く行くに越したことはない」ということ。風景だって変わるのだ。
 僕の父親は未だに言う。「ああ、金閣寺を見ておけばよかった」と。
 父は東京生まれだが、戦前に既に京都に引っ越してきており、金閣寺など行こうと思えばすぐに行けたのである。ところが、何時でも行けると思うとなかなか行かないもの。まあ戦中戦後のこととて、もう少し落ち着いたらちゃんといろんな所へ行こう、と思っていたらしい。然るに、昭和25年の放火による炎上。応仁の乱もくぐり抜けた国宝は全焼した。父は地団駄を踏んだらしい。
 こういうことはしばしばあるもの。現状がそのまま残っていくとは限らない。時を置いて2回目に訪れたところが、これほどまでに様変わりしたとは、と驚いた経験は結構みんな持っているのではないか? 例えばあの鄙びた風景を必死になって街ぐるみで残してきた明日香村でさえ、今はかなりの変貌を遂げている。札幌時計台はビルの谷間に埋もれ、青森駅の隣に並んでいた市場は無くなる。上高地の大正池に立ち枯れの木はなくなり、北海道野付半島のトドワラもほぼ消滅した。北海道三大秘湖のひとつ東雲湖は高層湿原化しつつあり湖でなくなってしまう。

 見たいものがあれば躊躇するな。いつまでも不変のものなんてないのだ。最初に書いた「将来の楽しみにとっておこう」なーんてのは失敗の元である。また栃木県から話がそれてしまったけれど、僕はやっぱり華厳の滝の全盛期が見られなかったことが実に残念なのである。


僕の旅 茨城県 

2005年03月03日 | 都道府県見て歩き
 カテゴリ「都道府県見て歩き」も東北を終え、関東に話を移したいのだけれど、ちょっとネタに欠けるかもしれない。
 まず茨城から始めたいのだけれど、茨城と聞いて思い出すのは…。水戸光圀、つくば学園都市、納豆、アンコウ…。月並みを恥じる。
 というのは、あんまり茨城県で観光らしい観光をしていないからだ。

 関西に住む人にとって、北関東は案外足が遠い。僕も群馬、栃木、茨城そして千葉(北関東じゃないけど)に足を踏み入れたのは旅行好きになって随分経ってからだった。茨城の水戸に初めて下り立ったのは22歳くらいだったと思うけれども、それまでに北海道にも沖縄にも行っていた。
 そのうちに「全都道府県に宿泊」ということを考え、20代半ばだったと思うけれども土浦に一泊したことがある。そうやって無理やりに茨城に来たのだけれど、初めて見る霞ヶ浦は広く、なかなかにいいところだなぁと思った。やはり来て見なければわからない。
 それからしばらく経って、偕楽園にも訪れる機会を得た。もちろん金沢の兼六園、岡山の後楽園とならぶ日本の三大公園であるのだが、前記二公園が完全な観光施設であり料金もそこそこなのに対し、偕楽園はもっと本来の公園らしい、憩いの場を提供していると思った。料金も、好文亭などの文化施設を除いては無料で開放されていて行きやすくなっている。
 そしてここは梅の名所として名高い。約3000本の梅が季節には咲き乱れる。

 おっと…書くことが尽きてしまった。茨城の方には失礼な話である。

 では、もうひとつ思い出話をひとつ。雛祭りっぽい話になればいいのですが。

 やはり20代半ばの頃だったが、早春に東京に行く機会があったので、ちょっと足を伸ばして観梅をこころみた。当時付き合っていた女性が埼玉に住んでいたので、誘い出してとある休日にのこのこと、以前一度訪れたことのある偕楽園へとやってきた。
 梅は満開、しかも晴天で気分がよかった。偕楽園は他のいろいろな梅の名所よりも、例えば和歌山の南部や京都の北野天神などと違って、ゆったりとしたスペースがある。そのため、ちょうど桜の花見と同じように、様々な人がシートを広げて寛ぎ楽しんでいた。
 僕たちもぼんやりと梅を見ていた。晴れた空、まだ少し冷たい風、幸せそうな人たち、宴会のおじさんたち、家族連れと走り回る子供、そんな風景の中で、なんとなしに満ち足りた幸せな気分になっていった。

 「結婚しようか」

 その時に僕は言ったらしい。梅林の香りが気分を高揚させたのかどうかはわからないけれど、春ののどやかな広がりと暖かな幸せが永遠に未来に繋がっていくと、そのとき確信したのかもしれない。

 というわけで、水戸偕楽園は僕たち夫婦にとって結構思い出深い場所となっている。茨城県には詳しくないけれども、偕楽園と聞くと未だにふんわりとした気持ちに還ってしまう。

 あれからずいぶんと時が流れました。



僕の旅 福島県 

2005年02月25日 | 都道府県見て歩き
 直接福島の旅とはかかわりあいがない話だけれど、旅に出ていて面白いのはその土地の天気予報を見たり聞いたりするときだ。
 旅の途中のドライブ中は、やはり気になるのでラジオの天気予報を聞く。そうすると、聞きなれないブロック区分が出てきたりするのも旅のひとつの面白さだ。
 地元兵庫県だと、「北部」「南部」だけ。ちょっと味気ない。しかし例えば熊本だとまず「熊本地方」「阿蘇地方」と出てくる。ふんふん。「球磨地方」うーん、人吉の方か。「芦北地方」ん? そういう地名は聞いたことがないな…。
 こういうささいなことで旅はまた膨らんでくる。
 北海道だと支庁名だ。宗谷、網走、根室…なんかは耳馴染みがあるが、胆振、渡島、檜山とくると、一瞬どこかわからなくなる。それが頭に浮かぶ頃、北海道の旅も慣れてくる。
 青森だと、「津軽」「下北」ときて「三八上北」だ。これはよそ者にはわからない。他にも、山形の「置賜」、福井の「嶺北」「嶺南」などは、その地方の人でないと判らないだろう。

 福島県は、「会津」「中通り」「浜通り」の3区分。面白いなぁと思う。よく「列」という漢字に例えられたりするが、阿武隈高地や飯豊山地、越後山地を見ていると確かにそんな感じである。それぞれ風土や歴史が違うこともよくわかる。
観光客の僕は、東京の人と違って日本海側からアプローチすることが多いためにどうしても「会津」に足を運んだ回数が多い。
 会津藩の悲運を伝える会津若松鶴ヶ城。歴史好き、幕末好きには絶対外せないポイントである。語り出すと長くなってしまうので割愛しますが。また、自然も素晴らしい。尾瀬も福島にかかる。また磐梯山や桧原湖。僕は結構湖沼マニアでもあるので、五色沼の景観は忘れられない。猪苗代湖や安達太良山と、ポイントが集中しているようにも思う。

 そう言うと中通り、浜通りの方々に怒られそうなのだけれども、あちらにはあまり行った事がないのだ。浜通りは、常磐線に乗って平で乗り換えたくらいなのですね。中通りは、郡山で一杯やったことはあるが…。福島でも呑んだか。おっと三春へは行った事があるな。僕は旅先で土産を買うことは滅多にないのだけれど、「三春人形」にはちょっと一目惚れしてしまい、買って帰ったことがある。まだ飾ってある。白河の関を見たいと思っているのだがまだ果たしていない。行くところはまだまだあるなぁ。

 えーっと、忘れてはいけないのが「喜多方ラーメン」だ。喜多方は蔵の町まちとしても高名だけれど、今ではラーメンの街と行った方が通りがいい。
 もちろん美味いのだけれど、ここの良さは、「朝が早い」ことだ。
 関西、北陸方面からなら、新潟行きの夜行に乗って、早暁磐越西線に乗り継ぎ真っ先に喜多方へ向かう。有名な「まこと食堂」や「坂内食堂」は朝の7時くらいからやっている。とりあえず駅に着いたらまずラーメン、蔵のまちを散策してまた昼にもラーメンが食べられる。頑張れば一日で3~4杯は可能だ。名店が多いので「あそこも行きたいここも行きたい」状態になるのだが、これならある程度満足がいく(僕はどうしても食べ歩く習癖があります)。時間が有効に使えて結構なのである。 うーむ、また行きたくなりますねぇ…。


僕の旅 宮城県 

2005年02月15日 | 都道府県見て歩き
 旅の思い出というと、仙台に集中してしまう。

 杜の都仙台。青葉城と広瀬川の仙台。初めて訪れたのは18、9年くらい前だったのだけれど、とにかく居心地のいい街という印象。街の規模が適切なんだろうな。東北の中心都市であってなんでも揃っているのだけれど、過度に混雑していない。落ち着く。品がいい。そして広い(僕は盆地京都出身なので余計にそう思う)。乾いた空気と美味い食べ物。なんかベタ褒めだけど、住みたいなぁと思った。

 結局住むにはもちろん至ってないのだけれど、それからは幾度も訪れることになる。とくに年末年始が多い。居心地のいい定宿も出来て、何度も仙台で正月を迎えることとなる。
 年の暮れ、仙台の街は日本一のイルミネーションで彩られる。「光のページェント」は本当に美しい。定禅寺通りの欅並木に数十万個の電球が灯る。イルミネーションで飾られた街路は正に光の洪水だ。
 札幌のホワイトイルミネーション、神戸のルミナリエももちろん素晴らしいが、仙台の光のページェントには、何と言うか…素朴な美しさがあるのだ。迫力もあるしね。言ってみれば並木に電飾をとりつけただけでさほどの演出があるわけではないけれども、これがホントいいのだよなぁ。

 大晦日は、輪王寺や北山五山に除夜の鐘を求めて行くのもいい(温かいものも食べられたりして楽しい)。年が明ければ、松島に初日の出を見に行くもよし、青葉神社や大崎八幡に初詣に行くもよし。次の日は初売りだ。
 仙台の初売りは全国に知れ渡っているが本当に凄い。以前僕は旅先ながら、ウォークマンが壊れたので初売りで買ったことがあった。結構いいものが廉価で売っていたので購入すると、コーヒーメーカーが付いてきたことがあった。どういうことだ? いったい(笑)。旧式のものだったが、こんなことがあってもいいのか。おまけに福引券もついていて、やると日本酒一升(グラス6個付き)が当たった。どういうことだ? いったい(爆笑)。おまけの方が絶対に値が張っているぞ。酒は呑んでしまったが、かなり重い荷物を抱えて帰ることになったのだ。まあこれは昔の話で、今は公正取引委員会の査察が入って(ウワサですよ)少しおとなしくなったとは聞くが、それでも仙台初売りの名前は全国に轟いている。

 夜行バスが通じていた場所に住んでいた頃は、心が疲弊するとついフラリと仙台を訪れて、何をすることもなく喫茶店に入ったり本屋で立ち読みをしたりしながら、徐々に気持ちを解凍していったことが何回かあった。春先の花ほころぶ仙台、夏祭りの仙台、木枯らしの仙台、雪の舞い散る仙台、それぞれの街の表情が浮かぶ。切ない思い出やほろ苦い思い出もあったけれども、繰り返し訪れたい街であることに違いはない。

 仙台だけで終わってもいけないので、もうひとつ。
 地元の人ととあることで知り合った僕は、「宮城は仙台だけじゃない」と言われ、その人の生まれた街に連れて行ってもらった。場所は岩出山。伊達政宗の本拠地だ。車に乗せてもらってしばし、彼の故郷に着いた。
 車が川を渡ったとき、彼は北の方を指差して言った。

 「ここは僕が死ぬほど愛した風景です」

 12月のこととて冬枯れの木々が川沿いに並び(桜なのだが)、その向こうに栗駒山が威風堂々と聳えている。川はあくまでも清涼だ。その澄んだ美しさはまさに「日本の正しいふるさと」だった。彼の思いも強く伝わって、印象に残る風景となった。旅をしていると、こういう風景にときたま出会うことがある。決して観光地ではないが、心にしみいる山河に出逢えるのは旅の至福とも言える。
 宮城県はいいところだ。



僕の旅 山形県 

2005年02月08日 | 都道府県見て歩き
 山形へは久しく行っていないなぁ。

 山形での思い出。あるとき僕は最上川に沿って自転車を走らせていた。「五月雨を集めて早し最上川」で知られる最上川は堂々の大河であるが芭蕉が言うように流れが早く見えた。ちょうどGWで5月、旧暦の五月雨には早かったけど、とにかく風が強くて水も押し流されていたのかもしれない。
 久々の追い風で楽しいサイクリングだったはずなのだが、何かを踏んづけちゃったのだろうか、タイヤがバーストしてしまった。パンクである。舌打ちしながら僕は修理を始めた。タイヤを外して…とゴソゴソやっているうちに、折からの強風で工具が風で吹っ飛んでしまった。おいおい! と追いかけている隙に、外したタイヤがまた風でカラカラと河川敷に落ちた。そのタイヤをとりに川原に向かうと、今度は自転車本体が風で倒れガッシャーんと音を立てて…。泣きたくなったことを思い出す。修理にいつもの3倍の時間がかかり、疲れ果てて鶴岡まで走ってチャリを畳んで列車に乗って帰路についた。最上川をナメてはいけない。

 まあそんなことだけ書いていたら山形の人に怒られるので、もう少し書く。
 山形には出羽三山がある。山伏の本拠地でもあり、山岳信仰にロマンを感じる僕はやはり訪れないわけにはいかない。湯殿山などは素人がそうそう足を踏み入れてはいけないところなのだが、羽黒山には比較的たやすく行ける。
 ここには僕が思うところの日本一の五重塔がある。いろんな寺にあちこち行ったが、この羽黒山国宝五重塔は白眉だ。そりゃ奈良の法隆寺や興福寺、京都の東寺、山口の瑠璃光寺など名塔は多いけれども、立地条件が凄い。山の中、巨木の杉々に囲まれて幽玄に建つ姿は、ちょっと他の追随を許さない。室生寺もロケーションはいいがこちらの方が上。だいいち大きい。室生寺の倍(30mくらい)ある。東寺や興福寺は50mオーバーだが、山の杉木立の中に聳えるその姿は例えようが無い。ちょっと驚きますよ。

 「岩に染み入る蝉の声」の山寺も山形県。夏にも冬にも行ったけれども、独特の清浄感がある。こういう神仏習合的な、いかにも修験者が出てきそうな奥深い信仰が大切に守られているのは山形の良さであり、風土なのかもしれない。そういえば、即身仏(ミイラ)の数も日本一なのだそうな。
 山なら、美しい鳥海山、またお釜で有名な蔵王もある。あのお釜の雄大な眺めは思わず声が出る。

 歩いて見て周るのも楽しい。酒田の北前船の寄港地としての歴史、鶴岡のハイカラな建物群。また将棋の天童、上杉城下町の米沢。見どころが多くて困る。斉藤茂吉ファンなら上山は外せない。

 食べ物も美味い。なんと言っても米沢牛が有名だが、残念ながら駅弁でしか食べたことがない。一度豪勢にやってみたいものだ。東北で有名な「芋煮」もここでは牛肉という話。コンニャクも美味いし、舌が疼く。
 麺好きの僕にはたまらないことにここは蕎麦が美味い。有名な村山の「あらきそば」の板蕎麦(板に盛ってある)は香りがたまらないが、量も凄い。信州上田の「刀屋」と双璧だ。
 また、山形は一人当たりのラーメン消費量が日本一でも知られる。名店も多いが、ここには珍しい「冷やしラーメン」がある。北海道では冷やし中華を冷やしラーメンと呼ぶが、山形は文字通り冷たいラーメンなのだ。見た目は普通のラーメンなのだが湯気が立っていない。氷も入っている。そんなの美味いのか? と問われるがこれが美味いからしかたがない。よほど丁寧に油脂を取って作らないとああは出来ない。さすが夏の日本最高気温を記録した山形だけのことはある。

 関西に越してちょっと足が遠のいているのが残念だ。

僕の旅 岩手県 

2005年01月31日 | 都道府県見て歩き
 岩手県は広い。日本一大きな県だ。四国4県に匹敵するとよく言われる(実際はもう少し小さいが)。旅をするとその広大さがよくわかる。どこまで行っても岩手県だ。そんなわけで、東北に行くと何かにつけて岩手県には立ち寄る。何度訪れたかは数えられないが、いまだ未踏の地を多く残している。

 景勝地は多い。北山崎に代表されるリアス式海岸の美しさ。宮古の浄土が浜で日の出を見に立ち入り禁止の場所に入って怒られたことも今はいい思い出だ。また山々も素晴らしい。八幡平のアスピーテラインは夏に訪れれば爽快で気持ちがいい。また、鍾乳洞の代表格ともいえる竜泉洞の限りなく透明な水も忘れ難い。広々とした小岩井農場も涼やかで気持ちがいい。

 もちろん自然の美しさだけでは岩手は語れない。南からアプローチすると、まず行くべきは平泉だ。奥州の黄金王国の址は、まさしく「つわものどもが夢のあと」であり、義経ファンの聖地であるとともに栄耀栄華の痕跡をまざまざと見せつけられる。歴史好きにはたまらない場所だ。それ以外にも、かつて大和朝廷と対立した俘囚たちの足跡を辿ると、歴史の見方が変わってくる。

 松尾芭蕉も後世に残る句をいくつも残したように、岩手は詩人を育む風土があるのだろう。
 石川啄木も岩手の人。渋民へ行ってみよう。駅からしばらく歩いて啄木記念館へ。啄木の歌の調べはどうしても感傷的になってしまう。北上川の歌碑は「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」胸が突かれる。岩手山、そして姫神山はいつも美しく映じている。そして盛岡の不来方城へ行くと、啄木の歌そのままに本当に空に吸われそうになる。岩手には透明感のある空気が満ちている。
 透明感といえば宮沢賢治。「イーハトーブ」は正に岩手県そのもの。花巻で佇めば、純粋無垢な賢治の思いが少しはわかるような気がする。
 そして遠野。民話の故郷であるこの地はゆっくり歩いた方がいい。僕は冬枯れの時期に訪れたことがあるが本当に印象深い。早池峰山は美しく、晴れ渡る空に映えている。あてもないように歩く。かっぱ淵、鳥居跡、水車小屋、オシラサマ、コンセイサマ…。コンセイサマの社では上がりこむうちにうつらうつらと…。
 もう2時半を過ぎると、盆地である遠野は日が傾く。その斜光線の中に映る冬枯れの美しさはどうだろうか。様々な川と水路、黄金色に輝く刈り終わった田畑、澄んだ空。故郷とはかくあるべきものだという典型がそこにあったような気がした…。むろん田んぼに水が入ったばかりの遠野もいい。
 岩手に行けば、詩を書いてみるなり、スケッチをしてみるなりするのも一興だと思う。

 そんな気取ったことを考えずとも、岩手は食べ物も美味い。もちろん三陸の新鮮な魚や前沢牛が有名だが、麺マニアの僕はやはり盛岡の3大麺をついつい食べる。
 「わんこそば」は一度だけチャレンジしたことがある。早食い大食いの面ばかりが強調されがちだけれども、実は食べて旨いものだということを認識した。そりゃ旨くなければあんなに沢山食べられないわな。100杯食べて大満足したが、ぜひもう一度機会を持ちたいと企んでいる。
 盛岡冷麺はもはや全国区。盛岡は平壌と緯度が同じらしく冷麺が旨く作れるらしい。真偽はともかく確かに旨い。元祖の「食道園」、駅前の「盛楼閣」、流行の「ぴょんぴょん舎」いずれで食べても満足する。
 もうひとつの盛岡名物、じゃじゃ麺。麺の上に、きざんだキュウリと長ネギ、肉味噌。やはり「白龍」でいただいたが、なんとなしにクセになる味。最後にいただく卵スープ 「鶏卵湯(チータンタン)」も旨い。こうしていると矢も立てもたまらなくなる。

 岩手県は広い。奥深さは天下一品。またじっくりと歩きたくなってしまう。

僕の旅 秋田県 

2004年12月30日 | 都道府県見て歩き
 北海道、青森と感傷的に書きすぎたので普通に書く。

 秋田はなんとなしによく足を運んでいるがいつも「旅の途中」が多くちゃんと集中して周ったことは少ない。しかし風光明媚で食べ物も美味く、いつも楽しい思いをしている。
 秋田と言えば「秋田美人」であり、そのレベルの高さに驚いたことがある。県内で鈍行列車に乗っている時、女子高生が大挙して乗車してきたことがあったがみんな美人だった。一説によるとコーカソイドの血が入っているからだと言われるが(そんなことはあるまいが)確かに目鼻立ちが整った人が多い。
 余談だが、ものの本で「日本海側美人県ひとつおき説」というのを読んだことがある。すなわち北から北海道、秋田、新潟、石川(金沢)、京都、兵庫(ここだけはひとつ飛ばしではない)、島根、福岡(博多)、長崎…というのであるが、同居人が青森人の僕は納得すると怒られるので紹介に留めておく。

 見どころは多いが、田沢湖は水深日本一の湖であり冬でも凍らないことで知られる。辰子姫伝説で知られるが、有名な湖畔に浮かぶブロンズの像以外に、3体の辰子姫が居る。自転車で一周すると探せるのでそれぞれの表情の違いを見てみるのもいい。
 男鹿半島は実に雄大な眺めであり、入道崎からは厳しい日本海を眼下にし、寒風山の展望台からは八郎潟や鳥海山も遠望出来て素晴らしい。じっくりと周るのがいい。
 角館は実に美しい街だ。桜が有名だが、まだその時期には訪れたことがないのだけれども値打ちはあった。よく「小京都」という括りで紹介されるけれども、京都出身の僕としてはどうもそういう言い方は角館その他の綺麗な街並みを残しているところに対して失礼な気がしてならない。まあおそらく観光効果を狙ってのことだと思うが、多くは城下町であり独自の街並みを形成していて、ちょっと京都とは空気が違う。「京都みたい」ではなくて独自のPRは出来ないものだろうか? 京都風の町は、まあせいぜい高知の中村ぐらいで、あとはリトル京都ではないのだから、一考あってもいいと思う。

 イベントも多いのだが、僕は夏の竿燈祭りにしか行った事が無い。この祭りは山ほどの提灯をつけた竿を連ね、その50㎏もの竿をバランスを取りながら曲芸的に持ち上げるところが見どころだが、迫力があって凄い。一見の価値がある。
 他に、「なまはげ」や「かまくら」など楽しそうなイベントが多いのだがまだ訪れたことがない。行ってみたいなぁ。「泣く子はいねぇかぁぁ! !」と叫ぶナマハゲを生で見てみたい。

 食べ物も美味い。有名な「きりたんぽ」は比内地鶏のコクが最高。鍋料理ではあまり酒がすすまない僕だけれどもついついこれは呑みすぎる。冬に秋田に滞在する機会が多かったのだけれど、居酒屋に入るとつい呑みすぎてしまう。酒に合う料理が多いせいもあるだろう。ハタハタは禁漁期間を経て、大ぶりのものをいただいたことがあるがそれは美味だった。しょっつるなども有名。
 外せないのは稲庭うどん。文句無く美味い。

 これからもちょくちょく秋田に寄っては一泊して美味い酒を呑む機会を作っていこうと思う。今から既に楽しみだ。



僕の旅 青森県

2004年12月17日 | 都道府県見て歩き
 青森に初めて足を踏み入れたのもやっぱり19歳だった。京都から自転車で9日目だったか。ちょうど「ねぶた祭り」の真っ最中だった。巨大な山車、派手な囃子と華やかに踊り跳ねる人たちを見て興奮し、眩暈をおこしそうになり、振舞い酒をかっくらい踊りの連の中に入っていったことを思い出す。北国の夏に弾けるパワーに完全にのまれてしまい、必ず再訪しようと誓って北海道へ渡った。

 2年後、僕は自転車を家に置いて列車で青森を訪れた。このときは弘前の「ねぷた祭り」に主眼をおいていた。青森の巨大な人型の山車と違い、こちらは扇形の山車。掛け声も「ラッセラーラッセラー」と囃し立てる青森に対し「ヤーヤードー」と叫ぶ重厚なもの。地元の方の好意で何度も山車を引っ張らせてもらい、打ち上げの飲み会にも参加させてもらった。津軽の人たちの人情と酒の強さに圧倒された経験だった。
 ねぶたにすっかり心奪われた僕は、黒石や深浦の地元でささやかにやっているねぶたにも足を運び、「祭り」というものの開放感と盛り上がりに魅せられてしまった。僕の生まれた京都の祭りといえば、祇園祭に代表されるような華麗かつ神聖な「儀式」的なものであり、有職故実を理解して見て楽しむもの。参加型の祭りを体験できたのは貴重だった。
 そうして、僕は青森を細やかに観光して歩いた。十二湖の静けさ、岩木山の流麗さ、奥入瀬の日本画的な美しさ、十和田湖の壮大さ。下北半島はさらに印象深く、恐山の不気味なまでに美しい透明感はちょっと忘れられない。尻屋崎は最果ての情感を漂わせ、大間崎は本州最北端だが明るく広がった感触をうけた。北海道とはちょっと違う「日本」らしい風景は更に青森の奥深さを感じさせた。

 更に、冬寒い青森にも訪れた。前回訪ねられなかった竜飛岬に、太宰治の「津軽」を片手に立ったときは寂寞感がじんわりとわいて来た。「ここは本州のどんづまり」あとは海に転げ落ちるしかない情景は旅情がありましたねぇ。また、津軽鉄道の「ストーブ列車」に乗って斜陽館を訪れたのも印象深い。年末の旅とて斜陽館の喫茶室で年賀状を書きながら、なんとも言えない充足感に満ちた気分になったものだった。
 しかし、金木駅で列車を待つ間、地元の人の話を横耳でずっと聞いていたのだけれども、意味が全くわからない。日本で最も難解と言われる津軽弁の調べに、ここでは絶対に暮らせないなぁとぼんやり考えていたのもまた事実だった…。

 その後、僕はしばらくして別の旅先で一人の津軽出身の女性と出会い、5年後にはその人と結婚する運びとなって、毎年「帰省」ということで青森を訪れることになろうとはその時は全くのところ予想していなかったのです。夢にも思わんかったな。
 そういうわけで青森は「第二の故郷」になってしまい旅先ではなくなってしまったのだ。

 青森の人の情けは以前感じたように、いやそれよりも更に深く、それにやはり酒豪が多く毎年僕はタジタジになっている。冬は寒いが本当に良いところだ。ただ言葉の面はまだまだ克服されていなくて、ずいぶん慣れたもののまだ妻の通訳(?)を必要とする場面が多い。いつか完全に馴染むことを目標として頑張っているわけである。

僕の旅 北海道3

2004年12月09日 | 都道府県見て歩き
 思い出話をひとつ。僕には出逢った忘れられない光景がある。

 最初に北海道に行った19歳の夏のこと。僕は住んでいた京都からただひたすら日本最北端を目指して自転車で走っていた。
 自分の力で果たして北の果てまで行けるのだろうか。最初はそんな自分への挑戦気分が支配していた。今にしてみれば笑止なことかもしれないが、経験も積んでいない、まだ少年に毛が生えた程度の僕にとってそれは「冒険」だったのだ。
 走り続ければいつかは着く。旅に出て約20日間が過ぎ、もう稚内、宗谷岬の標識が道に現れていた。僕は音威子府という小さな町を最後の宿泊地として、早暁、進路を北にとり走り出した。この町から、まず天塩川に沿って道路は続く。天気は快晴、旅のひとつの目的地がもう手の届くところまで来て、僕は多少感傷的になっていた。それまでの道程を振り返り、万感胸に迫る思いでぺダルを踏んだ。

 自転車という乗り物は風に左右される。強い風はエンジンを持たない自転車には脚の負荷に直結する。全く向かい風は、どんな峠越えよりも厳しい。ここしばらくは風向きが悪くて苦労していた。
 ところが不思議なことにその日は、前日まで悩まされ続けた風の負荷を感じない。何故か脚も軽く、爽やかな空気の中を浮き立つように走ることが出来た。ペダルが軽いと気分も軽やかになる
 道の隣を大河、天塩川が壮大に蛇行して流れている。その情景は自然そのものであり、街育ちの僕には天地創造を連想させるほど美しく映えている。人里離れているせいか、車は道に殆ど姿を見せない。静寂が支配している。迫り来る山々、そして天塩の清らかな水が僕を高揚させていた。もうすぐ北の果てに着く。その興奮に胸を躍らせつつまたペダルを踏んだ。

 ふと前方を見やると、真っ直ぐな道の彼方に、何か「白い靄」のようなものが見える。道の真ん中に白く立ち上る湯気のような、いや違う、細やかな白いものが瞬きを繰り返すような姿に見える。
 ペダルを踏むごとにだんだんと僕はその「白い靄」に近づいていった。そして、なんだろうと訝しむ間もなく、靄のようなものは目前に迫り、僕はその漂う白いものの中に静かに突入するかたちになった。

 そして、僕は目を見張った。遠めには靄としか見えなかったものの正体は、白い蝶々の群れだったのだ。 

 何百何千か数も判らない白いたおやかな蝶々たちは、カーテンを広げるように僕と自転車の周りに空間を作り、そして静かに包み込んだ。それらは、紙吹雪のように見えた。ひらひらと舞い輝きながら、周りを浮かぶように翔んでいた。

 これは祝福だ。僕は直感的にそう思った。北海道は、遥か遠くからやってきたまだ頑是ない初めての一人旅の僕に、旅が成就することを祝って、大きなくす玉を割ってくれたのに違いない。
 感動的な光景だった。胸に迫る感情が抑えきれない。僕はしばらく佇み動けなくなった。

 やがて蝶々も去った。
 再び走り出した僕は、いつもと違うペダルを漕ぐ脚の軽さに気づいた。いったい何故。
 その原因は周りの風景を見ればわかった。辺りの草や木は強い風に押され、折れんばかりに撓っている。しかし、風は僕に負荷をかけてこない。
 つまり、強い追い風が吹きはじめたのだ。そして風と僕の方向とスピードが全く同じになったのだ。その瞬間、僕は完全に風と同化していた。
 偶然の産物だろう。しかし僕はその時は確信していた。向かい風に悩まされ続けていた僕に北海道は、「あと少しだから頑張れよ」と言うかのように後押しをしてくれているのだろう、と。
 よく、ライダーの人達が言う。「バイクは風になれるのさ」と。実に格好いい言葉で僕とて異論はないけれども、僕が実感した事は、本当に風とひとつになると、共に過ぎ行く風は、自分の身体にはぶつかってなんてこないものだということ。風は切り裂くもんじゃない。風に包まれ風に守られ、風と共に走る幸せを享受する。その自然との一体感は他に替え難い。風になるってのはこういうことなんだな。幸せなんだ。
 僕は、そんなふうに祝福を受け励まされながら最終ゴールへ向けてペダルを更に踏み続けた。


 約20年前の思い出話で恐縮なのだけれど、このひとときは僕の旅の中の最高の一瞬だっただろうと思う。特に絶景を見たわけではないのだけれども、僕の中では神話になっている。
 こういう場面に出会えるのは旅の大きな喜びと言える。こんなことを10代に経験してしまったので、その後僕はどんどん旅に出ることにのめりこんでいったのかもしれない。

 旅の思い出は尽きることがない。特に北海道は青春の追憶が詰まっている。
 その後も僕は北の大地に何度も足を運んだ。不思議なことに思い出は色褪せることがない。心の中でどんどん絵の具を塗り足す作業を怠らないからだろう。だから旅はやめられないのだ。

 読んでくれた人に感謝。北海道編を終わります。



僕の旅 北海道2

2004年12月08日 | 都道府県見て歩き
 僕は繰り返し何度も北海道に旅行に出かけているわけだけれども、一度も飛行機で行った事がない。
 こう言うと「何で?」と訝しがられるが別に飛行機が怖いわけではない。学生の頃は当然金銭的都合で飛行機には乗れなかった。そして社会に出てからは長く北陸金沢に住んでいたので、飛行機は一日一便で昼発しかない。翌日それに乗るよりは、大阪発の夜行列車に途中から乗り込んだ方が時間の都合的に有効だっただけのこと。翌日まで待つより、一刻も早く旅に出たかった。仕事が終わってその日に旅立つ方がそれだけ長く旅をしていられるからというに過ぎない。その他、車を持ち込むためフェリーを利用したりとかの様々な理由があり、飛行機に乗る機会を逸しているに過ぎず、別段怖いわけではない。沖縄には何度も飛行機で行っている。

 さて、北海道内の交通機関だけれども、現在列車は廃線の嵐で壊滅状態になっている。かつては細かく網羅していたのだが。なので、昔のようにザックを背負って汽車で旅をする人は居なくなってしまった。不便なのである。だから、自分の交通手段を持って旅をする人が多数派となった。僕は初期の頃は自転車を利用した。自転車は今や少なくなったが、今でもオートバイで旅する人は多い。最近は若者も懐が温かいのか自家用車やレンタカーを使う。僕も現在は夏は自家用車を持ち込んでいる。
 僕の若い頃は「周遊券」というものがあった。20日間道内列車乗り放題。もう過去の遺物だがこれは便利なものだった。冬はそうやって北海道を旅行して、道内を走る夜行列車を何度も往復して(乗り放題なので)宿泊代を浮かしたものだ。しかし、現在は周遊券も廃止され、路線も激減して列車での細やかな旅はほぼ不可能というところにまで追い込まれている。
 あの頃は天北線も美幸線も羽幌線も湧網線も標津線も在った。青函連絡船で北海道に行った、と話すと今では残念なことに若い人から骨董品扱いされてしまう。
 他にも交通手段はある、と言われそうだが、バスは便数も少なく不便である。僕もしばしば利用したが、冬に寒風吹きすさぶ中でいつ来るかもしれないバスを待ち続けるのは本当に辛いものだ。

 北海道の冬の旅は楽しい。道内の方には申し訳ないが、旅が非日常の経験だとすれば、西日本生まれの僕にとってこれほど非日常的空間はない。普段こんなに雪を見ることはないのだから。睫毛まで凍る厳寒の中をゆくと「ああ旅しているなぁ」と実感する。白一色の風景は比類なく美しい。そして白鳥や丹頂鶴。流氷がやって来て、うまくいけばダイヤモンドダストまで見られる。もちろん寒いが非日常であるので楽しい。
 冬に北海道、と言うと「スキーですか?」と問われるが僕はスキーは全くやらない。これはパウダースノーの北海道に旅するのにはもったいない話らしいのだが、やらないものはしょうがない。正確に言えば「ゲレンデスキー」はやらない。つまり、ノルディックスキーはレンタルしてよくやった。いわゆるクロスカントリースキー。これはカンジキと同じで、夏だと這松で覆われて足を踏み込めないところまで行ける。これは冬の醍醐味。僕はこのスキーで美瑛の丘を歩き、冬の摩周湖を見に行き、凍結したサロマ湖を横断した。民宿やユースホステルで廉価でレンタルしている。
 それに、冬は食べ物と酒が美味いではないか。寒い冬の街を彷徨い、入った居酒屋の一杯の燗酒と新鮮な魚は最高である。
 夏の北海道は異常に混雑する。宿泊施設の予約も容易ではない。僕はキャンプが多いがキャンプ場だって混む。ここはひとつ、オフシーズンに出かけるのも一つの手段である。道内の方はよく「夏のいい季節だけ来ていては北海道の真髄はわからない」とおっしゃる。もっともかもしれない。「寒い地方には寒い季節に」行くのは確かに理解が深まるかもしれない。

 さらに次回に続く。少し追憶も語りたい。


僕の旅 北海道1

2004年12月07日 | 都道府県見て歩き
 北海道にはよくお邪魔している。20回以上だと思うけど正確なところは記録引っ張りださないとよくわからない。

 初めて足を踏み入れたのは19歳。この時は、自転車で住んでいた京都から走って行った。長距離の自転車旅はこの時初めてだったので感覚も掴めず、いつになれば北海道に着けるのか全くの手探りだった。結局10日で函館に上陸したが、真面目に走れば一週間程度で行けるのではないか。自力で行くと結構充足感がある。
 その後大きな旅行は2年後にフェリーに自転車を積んでいって北海道だけをひと月間。また翌年の冬に約ひと月、また翌年の冬に約ひと月。社会人になってからは、わりに夏は休暇が取れたので10日ほどの日程で毎年北海道へ。自転車の時もあれば車の時も。冬もちょくちょく訪れ、結婚してからは妻の実家が青森ということもあり正月の帰省の前後には札幌くらいまではよく足を伸ばしている。

 なんせ北海道は広い。道内に飛行機路線があり夜行列車が走っているくらいで、一度の旅行では回りきれるわけがない。つい「北海道」として考えるのでひと括りにしがちだが、国土の約2割強、九州の2倍ある。
 だから、例えば一週間の休みが取れれば知床なら知床と地域限定して観光するのが良い。よく「今日登別温泉、明日摩周湖」などという予定で回っている人が居るが、移動ばかりとなり非常に疲れ、また非効率的なので避けたほうが無難。初めての旅行だと欲張りになりがちなのはわかるけれども、例えば九州の人が本州旅行だと言って、「今日は京都、明日日光」と日程を立てるようなもの。移動でヘトヘトになる。出来れば一点集中の方が良いし、それが出来なくてもせめて道央、道東などといった括りで計画した方がいい。旅の印象が薄くなってしまう。
 例えば、知床に足を踏み入れたと仮定する。ウトロ側から行ったとして、まず普通の観光客が訪れるポイント、オシンコシンの滝や知床五湖、カムイワッカの滝、乙女の涙などの景勝地めぐりで一日、知床岬をまわる観光船に乗って一日、さらに羅臼岳に登って国後島を眼下に見下ろして一日、まだ余裕があれば秘境「羅臼湖」に足を踏み入れて一日(この羅臼湖は最近とうとうガイドブックに載りだしたが、未だに入口に標識が立ってないらしい。いいことである。秋は熊が出るが絶景と言っていい)、そして知床峠を越えて羅臼側へ向かいヒカリゴケや間欠泉などの観光地を回って一日、さらにセセキや相泊などの温泉まで視野に入れると日数はもっとかかる。忙しく観光しても一週間の日程なら知床だけで終わってしまう。
 割り切って、集中した方が思い出は濃くなる。

 北海道は見どころが多い。
 函館や小樽での楽しい街歩き。摩周湖や屈斜路湖をはじめとする美しい湖沼群。知床の未だ残っている手付かずの自然。富良野や美瑛のパッチワークのような農地の広がり。釧路湿原の雄大に蛇行する川の流れ。大雪山系の広大な眺め。オホーツクに押し寄せる流氷の荘厳さ。どこまでも続く道と内地に居ては見られない地平線。咲き乱れる花々。吹き渡る風。
 その中でも僕は道北と呼ばれる北の風景が好きだ。旭川より北、美深や音威子府を過ぎると畑より牧草地が目立ち、どこまでも続くなだらかな丘陵の景色が意識を大きくさせてくれる。浜頓別や猿払あたりの丘に立つと、本当にいつまでも佇んで居たくなる。サロベツ原野の広がる大地も然り。荒涼としてはいるのだが生命の息吹きは強く、いつも僕は圧倒される。その先にある利尻、礼文の島。海抜ゼロメートルからそびえる利尻岳は本当に登る価値のある山だ。何度訪れてもこのあたりは素晴らしい。若いときからずいぶん通い、今も痛切な思い出とともに僕の心に在る。

 次回に続く。

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 旅の移動手段その3周遊券

 


旅心さそわれて

2004年12月03日 | 都道府県見て歩き
 旅の話を少しづつ書いていこうかと思う。

 そもそも、旅行のHPを作りたいが為にタグなんぞを勉強したはずだったのだが、スキャナを買って過去の画像を取り込もうと画策しているうちにヘルニアを発症してしまって、作業を伴うHPづくりは無期限延期の状況になっている。
 旅ネタがダブるのは良くないので、別HPが出来るまでは、ここの親HPであるlintaro's barのBOYAKI(現在閉鎖)でも旅の話はなるべく避けてきた。しかし僕の「書きたい欲求」はどうにもしがたく、しょうがないのでブログ開設をキッカケに少しづつ書いていこうと思う。旅行というのは非日常の出来事であるからして、「ねぇ聞いて聞いて」という感情は誰しも生まれてくるでしょう? まあそんな感じなのである。

 別HPは一応、時系列的に扱うことにしており、随想的な各論とセットにしようと思っているので、ここでは都道府県別に扱おうと思う。ネタは無限と言っていいほどあり、都道府県別と考えるだけで連載50回は考えられるので、週一回アップしたとしても一年はかかってしまう。ちょっと気が遠くなるが、やりたくてやっているので苦にはならない。全部見てくれる方がいるとは予想できないのでやはり虚空に向かって叫ぶことになるけれども、好きでやること、自己満足とは言え愉悦である。

 旅を始めたのは自転車がキッカケである。チャリンコ好きで、人力移動に憧れ高校時代から友人を誘っては日帰りないしは3~4日の旅に出ていた。大学に行く頃になるとみんな呆れて一緒に行ってくれなくなり、一人自転車旅を始めた。最初は19歳の時の、住んでいた京都から日本最北端北海道宗谷岬まで走ろうという当時としては冒険的旅行だった。
 しかし実際やってみると冒険どころか実に楽しい旅であって、味をしめた僕は翌年は最南端鹿児島佐多岬を目指し、それが終わるとさらに行ってない土地にも自転車を走らせたくなり、また道が続いていない沖縄の島々などにも足を伸ばし、そうしているうちに自転車にこだわらなくなってきて冬の北海道などにも行ってみたくなり、列車の旅もおもしろそうなのでしたくなり、そうこうしているうちにあらゆるところに行きたくなり、社会に出ても時間があればすぐ夜行列車に乗り、どんどん深みにはまっていったのが実情。
 既に学生の頃に全都道府県に足を踏み入れてはいたが、そのうち全都道府県で宿泊経験も持ち、旅先で「呑む」ことも覚え、歴史散策、文学散歩、スタンプラリー、あらゆることに手を染めていった。海外には出ず日本ばかりだったが、日本の深みにどっぷりつかり、所帯を持ってからも嫁さんが同じ趣味の人間であり(旅先で知り合ったのだから当然だが)、さらに拍車がかかるようにあちこち出かけるのを常とした。

 趣味欄には「読書と旅行」と常に書く。実に平凡な人間だといつも思われる。かまうものか。本当のことなのだから。

 うーむ。今回はどうも、「前書き」のようになってしまった。次回からは「都道府県見て歩き」を始めよう。自分でもどうなるのか予測がつかないのですが。


※追記 別HPなど彼岸のことになってしまい、ブログの更新もやっとの状況。時系列的に旅の話を書くことも難しくなりました。まあこんなのは60歳過ぎたらやることにします。書きたい内容はこの「見て歩き」を充実させて、県別に分類できない話は別カテゴリ「旅のアングル」を始めたのでそこで書きます。うーむ。