茨城県のときにも書いたけれども、僕は旅先としては北関東そして千葉県は弱い。つまりあんまり行っていないのです。
栃木県も、ちゃんと足を踏み入れたのは一度だけ(通っただけっていうのならしばしばあるが)。そんでどこへ行ったかと言うと、それは日光周辺である。
栃木県は、関東在住の人にとっては実に行きやすいところで(当たり前だが)、ポイントも那須高原や鬼怒川温泉、足尾銅山や足利学校など様々な見どころがある。そういうところへ全然行っていないというのはなんとも寂しいことだが、将来の楽しみにとっておこう。
でも、なんとか日光観光だけはやった。日光は修学旅行でも訪れるところで「日光を見ずして結構と言うなかれ」(つまり日本版「ナポリを見て死ね」)と言われるくらいのところであるから、これは行っておかないと話題に取り残される、てな感覚でセカセカと出かけたのだった。
今市の杉並木を見て(ここは花粉症の元祖みたいなところで今の季節は絶対に近寄りたくない)、その後もちろん東照宮に参拝した。
まだ世界遺産となる前だったのだが、そりゃ「きらきらし」かった。京都や奈良の寺社を見慣れている人から見れば、実に派手だ。「陽明門」「眠り猫」「三猿」などそれはもう見どころ満載で、確かに飽きないが、これは趣味の問題もあろう。美術的眼力のない僕からすれば、目にチラチラしすぎて大変だった。「侘び」的な感じはなかったような気がする。
しかしそういう美的感覚からの視点はともかく、これを「歴史的視野」から眺めればそれはもう実に興味深い建造物であって、語ればキリがないので止めるが、家康の霊廟として秀忠が建てたものを、何故に家光はこれほど絢爛豪華な社殿に仕立て変えたのか、それを考えるだけでも様々な想像の世界へと飛べる。「二世権現、二世将軍」とはいったいどういうことなのか?
えっと、歴史について書く記事ではなかったのでこのへんにして、東照宮に詣でた後、車を借りていろは坂を上り(やっぱり渋滞しました)、華厳ノ滝、中禅寺湖、戦場ガ原へと観光して周った。休日のこととて混雑していたがそりゃ結構でした。
さて、その華厳の滝で、僕は旅の教訓を一つ得ることになる。
この旅行は、24、5歳くらいのときに行った。ということは、平成になってまだ何年も経っていない頃だったと思う。
日光はいつ来ても素晴らしい、紅葉の時期は更にいいが、そうでなくてもまた結構なもの、と謳われてはいたものの、一つだけ以前と変わってしまった風景があった。
華厳の滝は、中禅寺湖から流れ落ちるその落ち口の岩盤が、かなり大規模な崖崩れを起こしたことがある。それは昭和61年のことで、滝口が約10mも後退してしまったらしい。
そのせいで、滝が完全に滝壺に落下せず、奥の岩肌に水流が当たるような感じになってしまって、以前の迫力が失われたらしい。誠に残念なことである。
観光旅行をするときの教訓がこれだ。つまり、「思い立ったら直ぐ行け」「とにかく早く行くに越したことはない」ということ。風景だって変わるのだ。
僕の父親は未だに言う。「ああ、金閣寺を見ておけばよかった」と。
父は東京生まれだが、戦前に既に京都に引っ越してきており、金閣寺など行こうと思えばすぐに行けたのである。ところが、何時でも行けると思うとなかなか行かないもの。まあ戦中戦後のこととて、もう少し落ち着いたらちゃんといろんな所へ行こう、と思っていたらしい。然るに、昭和25年の放火による炎上。応仁の乱もくぐり抜けた国宝は全焼した。父は地団駄を踏んだらしい。
こういうことはしばしばあるもの。現状がそのまま残っていくとは限らない。時を置いて2回目に訪れたところが、これほどまでに様変わりしたとは、と驚いた経験は結構みんな持っているのではないか? 例えばあの鄙びた風景を必死になって街ぐるみで残してきた明日香村でさえ、今はかなりの変貌を遂げている。札幌時計台はビルの谷間に埋もれ、青森駅の隣に並んでいた市場は無くなる。上高地の大正池に立ち枯れの木はなくなり、北海道野付半島のトドワラもほぼ消滅した。北海道三大秘湖のひとつ東雲湖は高層湿原化しつつあり湖でなくなってしまう。
見たいものがあれば躊躇するな。いつまでも不変のものなんてないのだ。最初に書いた「将来の楽しみにとっておこう」なーんてのは失敗の元である。また栃木県から話がそれてしまったけれど、僕はやっぱり華厳の滝の全盛期が見られなかったことが実に残念なのである。
栃木県も、ちゃんと足を踏み入れたのは一度だけ(通っただけっていうのならしばしばあるが)。そんでどこへ行ったかと言うと、それは日光周辺である。
栃木県は、関東在住の人にとっては実に行きやすいところで(当たり前だが)、ポイントも那須高原や鬼怒川温泉、足尾銅山や足利学校など様々な見どころがある。そういうところへ全然行っていないというのはなんとも寂しいことだが、将来の楽しみにとっておこう。
でも、なんとか日光観光だけはやった。日光は修学旅行でも訪れるところで「日光を見ずして結構と言うなかれ」(つまり日本版「ナポリを見て死ね」)と言われるくらいのところであるから、これは行っておかないと話題に取り残される、てな感覚でセカセカと出かけたのだった。
今市の杉並木を見て(ここは花粉症の元祖みたいなところで今の季節は絶対に近寄りたくない)、その後もちろん東照宮に参拝した。
まだ世界遺産となる前だったのだが、そりゃ「きらきらし」かった。京都や奈良の寺社を見慣れている人から見れば、実に派手だ。「陽明門」「眠り猫」「三猿」などそれはもう見どころ満載で、確かに飽きないが、これは趣味の問題もあろう。美術的眼力のない僕からすれば、目にチラチラしすぎて大変だった。「侘び」的な感じはなかったような気がする。
しかしそういう美的感覚からの視点はともかく、これを「歴史的視野」から眺めればそれはもう実に興味深い建造物であって、語ればキリがないので止めるが、家康の霊廟として秀忠が建てたものを、何故に家光はこれほど絢爛豪華な社殿に仕立て変えたのか、それを考えるだけでも様々な想像の世界へと飛べる。「二世権現、二世将軍」とはいったいどういうことなのか?
えっと、歴史について書く記事ではなかったのでこのへんにして、東照宮に詣でた後、車を借りていろは坂を上り(やっぱり渋滞しました)、華厳ノ滝、中禅寺湖、戦場ガ原へと観光して周った。休日のこととて混雑していたがそりゃ結構でした。
さて、その華厳の滝で、僕は旅の教訓を一つ得ることになる。
この旅行は、24、5歳くらいのときに行った。ということは、平成になってまだ何年も経っていない頃だったと思う。
日光はいつ来ても素晴らしい、紅葉の時期は更にいいが、そうでなくてもまた結構なもの、と謳われてはいたものの、一つだけ以前と変わってしまった風景があった。
華厳の滝は、中禅寺湖から流れ落ちるその落ち口の岩盤が、かなり大規模な崖崩れを起こしたことがある。それは昭和61年のことで、滝口が約10mも後退してしまったらしい。
そのせいで、滝が完全に滝壺に落下せず、奥の岩肌に水流が当たるような感じになってしまって、以前の迫力が失われたらしい。誠に残念なことである。
観光旅行をするときの教訓がこれだ。つまり、「思い立ったら直ぐ行け」「とにかく早く行くに越したことはない」ということ。風景だって変わるのだ。
僕の父親は未だに言う。「ああ、金閣寺を見ておけばよかった」と。
父は東京生まれだが、戦前に既に京都に引っ越してきており、金閣寺など行こうと思えばすぐに行けたのである。ところが、何時でも行けると思うとなかなか行かないもの。まあ戦中戦後のこととて、もう少し落ち着いたらちゃんといろんな所へ行こう、と思っていたらしい。然るに、昭和25年の放火による炎上。応仁の乱もくぐり抜けた国宝は全焼した。父は地団駄を踏んだらしい。
こういうことはしばしばあるもの。現状がそのまま残っていくとは限らない。時を置いて2回目に訪れたところが、これほどまでに様変わりしたとは、と驚いた経験は結構みんな持っているのではないか? 例えばあの鄙びた風景を必死になって街ぐるみで残してきた明日香村でさえ、今はかなりの変貌を遂げている。札幌時計台はビルの谷間に埋もれ、青森駅の隣に並んでいた市場は無くなる。上高地の大正池に立ち枯れの木はなくなり、北海道野付半島のトドワラもほぼ消滅した。北海道三大秘湖のひとつ東雲湖は高層湿原化しつつあり湖でなくなってしまう。
見たいものがあれば躊躇するな。いつまでも不変のものなんてないのだ。最初に書いた「将来の楽しみにとっておこう」なーんてのは失敗の元である。また栃木県から話がそれてしまったけれど、僕はやっぱり華厳の滝の全盛期が見られなかったことが実に残念なのである。