喜納昌吉という人を最初に知ったのは中学校くらいの時だったかと思う。もちろん、「ハイサイおじさん」のヒットによってである。
記憶違いだったら申し訳ないが、当時喜納昌吉&チャンプルーズはハイサイおじさんを引っさげ、確かドリフの番組にも出ていたような記憶がある。売り出し中だったのだろうか。後に志村けんが「ヘンなおじさん」という替え歌を作ってこのメロディーをさらに浸透させたが、この時の記憶が志村さんにあったのかどうか。
ハイサイおじさん 昨夜ぬ三合ビン小 残とんな 残とら我んに 分きらんな
ありあり童 いぇー童 三合ビンぬあたいし我んにんかい 残とんで言ゅんな いぇー童
当時はおきなわの言葉など全く分からない(今もヒアリングは難しい)。ただ楽しいので丸暗記して意味も分からず歌った。後に読んだ喜納昌吉自伝「泣きなさい笑いなさい(リヨン社)」によれば、このうたには相当に哀しい背景があったのだが、無論そんなことは子供には分からない。また、今でも分からなくてもいいと思っている。そんな背景など吹き飛ばすくらいにこのうたは広がってしまった。
このうたは、喜納昌吉が17歳の時に作り(原案は中学生の時らしい)、そして彼が服役中に沖縄のコザで火が付き、長い時間をかけて本土上陸したということも彼岸のことのように思えるほど人口に膾炙している。おきなわのうたの代表曲だろう。全ての先駆であったと言えるのではないだろうか。このうたがもしもなかったならば、後の「ウチナー・ポップ」と呼ばれる一群の音楽の様相はずいぶん違ったものになっていたかもしれない。
僕はと言えば、20歳の時に初めて沖縄に旅に出た時から、沖縄旋律に夢中になってしまった。マルフクレコードで沖縄民謡のカセットを買い、熱病のように繰り返し聴いていた。もちろんその中には「ハイサイおじさん」も入っている。
むろんそれだけでは飽き足らなくなり、さらに喜納昌吉を聴くべく1stアルバム「喜納昌吉&チャンプルーズ」そして2ndアルバム「BLOOD LINE」を入手した。1986年のこと。
1stアルバムには矢野誠、矢野顕子、林立夫らも参加し、日本のベストロックアルバム100にも選出された名盤である。そして「BLOOD LINE」はライ・クーダーが参加、細野晴巨やチト河内、久保田真琴らとともにものすごいサウンドを作り上げている。そして、このアルバムの中に「すべての人の心に花を」が収録されていた。喜納昌吉30歳のときの作品と言われる。
花は流れてどこどこ行くの 人も流れてどこどこ行くの
ボーカルは喜納昌吉ではない。当時の奥さんだった友子さんである。どこまでも高く響く、おきなわの人ならではの透明なうたごえは本当に美しかった。心にしみいる旋律とともに。
だが、僕は告白しておかなければならない。この曲を初めて聴いた当時、現在ほどのこの曲に対する思い入れは持ちえてはいなかったことを。
不明を恥じるばかりだけれども、あの時は、同じアルバム「BLOOD LINE」の中でも、「じんじん」や「アキサミヨー」「イヤーホイ」などのもっと沖縄色の濃い曲に耳が行き、「すべての人の心に花を」が、そこまでの曲であるとは正直思わなかった。ロックミュージシャンがアルバムによく一曲入れるバラードである、という位置づけにしか受け取ってはいなかったのだ。
うたの心が分かるのには人生経験も必要なのだなと今あらためて思う。
「BLOOD LINE」を聴いてから約2年後、僕はなんだかもみくちゃになっていた。旅ばかりを繰り返していた青春時代を過ぎ、既に僕は社会人となっていた。ノルマに追われる生活。ひっきりなしの催促。焦燥。数多くの失敗。自己の未熟さ加減への悔恨。罵倒や裏切り。好きだった人も遠い存在になり、安らぎを失い、酒に逃げ荒んでいた。人ってこんなに冷たい存在だったのか。何かが違う。何かが…。
そんな時に、ふと喜納昌吉のライブアルバムを買った。「THE CELEBRATIONS LIVE」。何かに逃げ込みたかったのかもしれない。
そのアルバムの終わりに、「すべての人の心に花を」が収録されていた。今度は喜納昌吉が歌っている。タイトルは「花」に変わっていた。
その時僕は、顔をくしゃくしゃにして泣いてしまったのだ。
泣きなさい 笑いなさい いつの日か いつの日か 花をさかそうよ
今でこそ年をくって涙もろい僕だが、当時は涙などほとんど流すことなど無かった頃。自分で泣いていることに狼狽したことを憶えている。
「BLOOD LINE」も取り出して、「すべての人の心に花を」をまた聴いてみた。圧倒的な友子さんの声とライ・クーダーのスライドギターにやっぱり涙が出た。そうか。そういうことか。「泣きなさい 笑いなさい」ということは。生きていくことってこういうことを越えていくんだ。みんなそうなんだ。
「すべての人の心に花を」改め「花」は、その後CMソングとしておおたか静流が歌い、一気に世の中に広まっていく。辛い思いを抱えている人が多いのだろう。昌吉は紅白にも出場し、また石嶺聡子によるカバーがヒットしてもうこの曲を知らない人はいなくなったと言っていいだろう。
この曲をカバーした歌手は50名を数え、実は実数が掌握しにくいらしい。この歌だけを集めたコンピレーションアルバムもある由。本当なのかどうかは確認していないが、Wikipediaによると昌吉はこのうたの著作権を放棄したと書かれている。「自分は忘れられてもこのうただけは後世に残ってくれればいい」という発言をどこかで聞いた記憶もある。上記リンクによれば、このうたは世界60か国以上でカバーされ、3000万枚を売り上げたという。もの凄い数字だ。シングルとしては、現在「ホワイトクリスマス」の記録を塗り替えたエルトンジョンの「風の中のキャンドル(ダイアナ妃の追悼歌)」が世界で一番売れたと言われているが、「花」もいい線いくのではないのか。いまや「上を向いて歩こう」と共に、日本を代表する曲になったと言っていいと思う。
喜納昌吉も還暦を迎え、今や議員さんである。そして、このうたの位置付けも少しづつ変わってきたように思う。このうたはピースソングとして「すべての武器を楽器に/すべての基地を花園に」を合言葉に平和を希求するうたとして歩み始めた。確かにこの曲は、ジョンレノンの「イマジン」になれる可能性は十分に持っていると僕も思う。
ただ、このうたを聴いて涙を流した日のことを僕は忘れない。いついつまでも、心の安穏を求める人々の底辺で流れていて欲しい。どこか遠くで上の方から聴こえて来るうたであっては欲しくない。
今日もどこかの街で、どこかの国で、「すべての人の心に花を」を耳にして涙を流している人がいるはずである。そんな人たちのために、いついつまでも存在していて欲しいうたである。
記憶違いだったら申し訳ないが、当時喜納昌吉&チャンプルーズはハイサイおじさんを引っさげ、確かドリフの番組にも出ていたような記憶がある。売り出し中だったのだろうか。後に志村けんが「ヘンなおじさん」という替え歌を作ってこのメロディーをさらに浸透させたが、この時の記憶が志村さんにあったのかどうか。
ハイサイおじさん 昨夜ぬ三合ビン小 残とんな 残とら我んに 分きらんな
ありあり童 いぇー童 三合ビンぬあたいし我んにんかい 残とんで言ゅんな いぇー童
当時はおきなわの言葉など全く分からない(今もヒアリングは難しい)。ただ楽しいので丸暗記して意味も分からず歌った。後に読んだ喜納昌吉自伝「泣きなさい笑いなさい(リヨン社)」によれば、このうたには相当に哀しい背景があったのだが、無論そんなことは子供には分からない。また、今でも分からなくてもいいと思っている。そんな背景など吹き飛ばすくらいにこのうたは広がってしまった。
このうたは、喜納昌吉が17歳の時に作り(原案は中学生の時らしい)、そして彼が服役中に沖縄のコザで火が付き、長い時間をかけて本土上陸したということも彼岸のことのように思えるほど人口に膾炙している。おきなわのうたの代表曲だろう。全ての先駆であったと言えるのではないだろうか。このうたがもしもなかったならば、後の「ウチナー・ポップ」と呼ばれる一群の音楽の様相はずいぶん違ったものになっていたかもしれない。
僕はと言えば、20歳の時に初めて沖縄に旅に出た時から、沖縄旋律に夢中になってしまった。マルフクレコードで沖縄民謡のカセットを買い、熱病のように繰り返し聴いていた。もちろんその中には「ハイサイおじさん」も入っている。
むろんそれだけでは飽き足らなくなり、さらに喜納昌吉を聴くべく1stアルバム「喜納昌吉&チャンプルーズ」そして2ndアルバム「BLOOD LINE」を入手した。1986年のこと。
1stアルバムには矢野誠、矢野顕子、林立夫らも参加し、日本のベストロックアルバム100にも選出された名盤である。そして「BLOOD LINE」はライ・クーダーが参加、細野晴巨やチト河内、久保田真琴らとともにものすごいサウンドを作り上げている。そして、このアルバムの中に「すべての人の心に花を」が収録されていた。喜納昌吉30歳のときの作品と言われる。
花は流れてどこどこ行くの 人も流れてどこどこ行くの
ボーカルは喜納昌吉ではない。当時の奥さんだった友子さんである。どこまでも高く響く、おきなわの人ならではの透明なうたごえは本当に美しかった。心にしみいる旋律とともに。
だが、僕は告白しておかなければならない。この曲を初めて聴いた当時、現在ほどのこの曲に対する思い入れは持ちえてはいなかったことを。
不明を恥じるばかりだけれども、あの時は、同じアルバム「BLOOD LINE」の中でも、「じんじん」や「アキサミヨー」「イヤーホイ」などのもっと沖縄色の濃い曲に耳が行き、「すべての人の心に花を」が、そこまでの曲であるとは正直思わなかった。ロックミュージシャンがアルバムによく一曲入れるバラードである、という位置づけにしか受け取ってはいなかったのだ。
うたの心が分かるのには人生経験も必要なのだなと今あらためて思う。
「BLOOD LINE」を聴いてから約2年後、僕はなんだかもみくちゃになっていた。旅ばかりを繰り返していた青春時代を過ぎ、既に僕は社会人となっていた。ノルマに追われる生活。ひっきりなしの催促。焦燥。数多くの失敗。自己の未熟さ加減への悔恨。罵倒や裏切り。好きだった人も遠い存在になり、安らぎを失い、酒に逃げ荒んでいた。人ってこんなに冷たい存在だったのか。何かが違う。何かが…。
そんな時に、ふと喜納昌吉のライブアルバムを買った。「THE CELEBRATIONS LIVE」。何かに逃げ込みたかったのかもしれない。
そのアルバムの終わりに、「すべての人の心に花を」が収録されていた。今度は喜納昌吉が歌っている。タイトルは「花」に変わっていた。
その時僕は、顔をくしゃくしゃにして泣いてしまったのだ。
泣きなさい 笑いなさい いつの日か いつの日か 花をさかそうよ
今でこそ年をくって涙もろい僕だが、当時は涙などほとんど流すことなど無かった頃。自分で泣いていることに狼狽したことを憶えている。
「BLOOD LINE」も取り出して、「すべての人の心に花を」をまた聴いてみた。圧倒的な友子さんの声とライ・クーダーのスライドギターにやっぱり涙が出た。そうか。そういうことか。「泣きなさい 笑いなさい」ということは。生きていくことってこういうことを越えていくんだ。みんなそうなんだ。
「すべての人の心に花を」改め「花」は、その後CMソングとしておおたか静流が歌い、一気に世の中に広まっていく。辛い思いを抱えている人が多いのだろう。昌吉は紅白にも出場し、また石嶺聡子によるカバーがヒットしてもうこの曲を知らない人はいなくなったと言っていいだろう。
この曲をカバーした歌手は50名を数え、実は実数が掌握しにくいらしい。この歌だけを集めたコンピレーションアルバムもある由。本当なのかどうかは確認していないが、Wikipediaによると昌吉はこのうたの著作権を放棄したと書かれている。「自分は忘れられてもこのうただけは後世に残ってくれればいい」という発言をどこかで聞いた記憶もある。上記リンクによれば、このうたは世界60か国以上でカバーされ、3000万枚を売り上げたという。もの凄い数字だ。シングルとしては、現在「ホワイトクリスマス」の記録を塗り替えたエルトンジョンの「風の中のキャンドル(ダイアナ妃の追悼歌)」が世界で一番売れたと言われているが、「花」もいい線いくのではないのか。いまや「上を向いて歩こう」と共に、日本を代表する曲になったと言っていいと思う。
喜納昌吉も還暦を迎え、今や議員さんである。そして、このうたの位置付けも少しづつ変わってきたように思う。このうたはピースソングとして「すべての武器を楽器に/すべての基地を花園に」を合言葉に平和を希求するうたとして歩み始めた。確かにこの曲は、ジョンレノンの「イマジン」になれる可能性は十分に持っていると僕も思う。
ただ、このうたを聴いて涙を流した日のことを僕は忘れない。いついつまでも、心の安穏を求める人々の底辺で流れていて欲しい。どこか遠くで上の方から聴こえて来るうたであっては欲しくない。
今日もどこかの街で、どこかの国で、「すべての人の心に花を」を耳にして涙を流している人がいるはずである。そんな人たちのために、いついつまでも存在していて欲しいうたである。
凛太郎さんと同じように沖縄の曲の旋律に魅せられ、その人は趣味が高じ三線を買って歌っているようで^^(エイサーのボランティア愛好会まで立ち上げたんですよね)
イマジンにも匹敵するかも、確かにそのとおりです。この曲が世界中の人に歌い継がれる歌になったら少し世の中が明るくなるような気がします。
このうたは、沖縄音階と申しますか沖縄の旋律はあまり色濃くはないんですね。それがアジアに広まっていくには丁度良かったのかもしれません。ただ、沖縄でしか生まれ得なかった曲だとは思いますけれども。
近年このうたはメッセージソングとしての位置づけですけれども、平和への願いが込められているというより、やっぱり僕にとってはひとりひとりの心の安寧を唄ううただと思うのですね。政争の道具にだけはなって欲しくないような、そんな気もしています。ただボーダーレスに歌い継がれていって欲しいと。
不思議な力が宿ってるような気がします。
でも、このうたは何かを超えている。
永遠性は確かに感じますね~。
琉球ポップスの旋律は、1980年当時は
新しかったのでは?
主観をあたりまえのことのように書いてはいけませんね。すみません。
ただ、僕が初めてこれを聴いたときは'86年だったのですが、それほど新しさを感じなかったのは事実です。
新しさを感じる基準には、ひとそれぞれいろいろあるとは思うのですが。
これはどう客観視しようとしても主観が混じるのは致し方ないと思いますので、感じたまま書きます。
沖縄の民謡は、もちろん伝統音楽であり連綿とした歴史があります。ただそれをあまり身近に感じてこなかった当時の僕などは、それを織り込んでポップス的に編曲されたものを聴き「新しい」と感じてしまいます。
>琉球ポップスの旋律は、1980年当時は
新しかったのでは?
そうです。だからハイサイおじさんにびっくりしたわけです。
ただ「すべての人の心に花を」となると、これは琉球音階の枠内でつくられているわけでもなく、アルバム「BLOOD LINE」の中でも飛びぬけたものを感じなかった。これは、本文に書いたとおりです。不明を恥じつつ、ですが。
ですけれども、この琉球音階に拘らずつくられているということが「すべての人の心に花を」を恒久的なものにした、とも言えるのではないか。そんなふうにも思っています。
旋律的には純粋な琉球メロディーとは言えない「すべての人の心に花を」なのですが、しかしそれでも「おきなわ」を色濃く感じます。旋律を超えるものがあるのだと思います。
あの有名な安里屋ユンタはヨナ抜き音階だそうです。他には
涙そうそうや島唄もそのようです。