岡林信康のことなど僕が書いていいのだろうかとずっと迷っていた。反戦フォークの全盛期を知らない僕達の世代が。
高石ともやについては、ずっと深夜ラジオ(ズバリク)のリスナーであったから、親しみも深く書いてもかまわないだろうと思った。しかし岡林信康については、僕らの世代では手をつけてはいけない「聖域」のような気さえしていた。「神」と呼ばれた人なのだから。
ということで、念のためにWikipediaでプロフを確認しようとして驚いた。彼の人は1946年生まれである。当年60歳。これで、もう還暦か、と思って驚いたのではない。僕はもっと年上だと思っていたのである。高石さんは今年65歳になる。それより、還暦だと言うことは吉田拓郎と同い年ということである。そうだったのか。神は、ずいぶん若いときから神だったということになる。吉田拓郎のような新興勢力があとから商業ベースで売り出したことに戸惑い怒るファンの話を聞いたことがあるが、その彼と同い年だったとは。とにかく若い頃から重いものを背負いすぎた人ではなかったのだろうか。
60年代の後半から70年代の初め。安保闘争とともに、フォークソングが一大ブームとなっていた。アングラ。反戦ソング。新宿フォークゲリラ。岡林はその中心に存在する「神」であったと僕らは聞いていた。「友よ」「山谷ブルース」「くそくらえ節」「ガイコツの唄」「私たちの望むものは」等々。いくつもの名作そしてプロテスト・ソングを歌い、ムーブメントの頂点に君臨していたと聞く。
僕はもちろんこの時代は子供過ぎて知らない。だがこれらの歌は伝説だった。
僕はずっと遅く、80年代に高校時代をおくったのだが、学園祭で一度だけステージに上がったことがある(秋の気配は代役でちゃんと上がったとは言えない。その翌年のこと)。血気盛んな頃である。その時はフォークソング部の部長と2人で相談し、岡林信康の「チューリップのアップリケ」「手紙」をやった。こんな歌もあるということを知って欲しかった。
この2曲は、もちろん被差別を歌った問題作である。
うちがなんぼ早よ起きても お父ちゃんはもう靴トントン叩いてはる
あんまりうちのこと構もてくれはらへん うちのお母ちゃん何処へ行ってしもうたのん
(チューリップのアップリケ)
「手紙」になるともっと悲しい、結婚差別の現状が歌われる。こんな歌はもちろん放送禁止であって誰も知らなかった。僕らも若かったと思う。
さて、時間を戻す。
「神」として君臨した岡林信康は、押しも押されもせぬカリスマであったが、その絶頂期に「おいら一抜けた」と、田舎に引っ込んでしまった。気持ちはわかる。約5年間岐阜、京都で山村に閉じこもった。その空白の間、岡林という人の伝説、神話が出来上がったのかもしれない。
空白と言っても、レコードは随時出ていた。その音楽も、反戦フォーク、プロテストソングから、ボブ・ディランを意識したロックサウンド(バックをはっぴぃえんどが務めていた)、そして難解な歌詞の時代。方向性を模索していたのだと思う。時代は安保から高度成長へ、そしてオイルショックとどんどん移り変わっていく。
岡林は78年、アルバム「セレナーデ」を発表する。この78年というのは、僕が深夜ラジオを最も集中して聞いていた頃。ラジオのCMでは収録曲「ミッドナイトトレイン」が繰り返し流れ、「ついに沈黙を破る」などのコピーが叫ばれていた。伝説の岡林信康を初めてリアルタイムで体感できたLPだった。
このアルバムは酷評される。「ふざけて作ったアルバム」と呼ばれた。曲は歌謡曲、流行歌路線。収録曲「新説SOS」などはあの鶴光師匠がカバーしたほどである。熱狂的岡林ファンはもちろん嘆いたと聞く。
しかし、当時中学一年の僕は、そんなに悪いLPだとは思わなかった。子供だったからかもしれないが、「神」をリアルタイムで知らない、伝説だけを聞いてビビっていた世代の僕達からしてみれば、なんだか風穴が開いたような気がした。岡林信康だって気軽に聴いていいんだよな。
翌年発表されたLP「街はステキなカーニバル」。シングルとなった「Good Bye My Darling」をはじめライトなサウンド。その中に「君に捧げるラブ・ソング」が収録されていた。
悲しみにうなだれる君を前にして そうさ何も出来ないでいるのがとてもつらい
せめて君の為に歌を書きたいけど もどかしい思いはうまく歌にならない
とても素直な、衒いのない歌。かつての反戦フォークの旗頭が歌うとはとても思えない、優しい、静かな心情の吐露。
もともと優しい、柔らかい感性の人だったのかもしれない。ようやく辿りついたこの世界の中で、ゆっくりとたゆたいながら歌ってくれる。
後に、この歌はただのラヴ・ソングではなかったことを知る。親友のドキュメンタリー写真家であり岡林の写真をずっと撮り続けた人が、病に倒れ余命幾ばくかとなったとき、岡林はこの曲を彼の人のために作り捧げたという。それだけに想いが入っている。
何も出来はしない そんなもどかしさと逃れずに歩むさ それがせめてもの証し
今 書き留めたい歌 君に捧げるラブ・ソング
とにかく胸に沁みるいい曲。僕は今でも、ギターを手に持つと高石ともやの「想い出の赤いヤッケ」かこの「君に捧げるラブ・ソング」かどちらかが口をつく。安らかな気持ちになれる。
その後、僕は岡林信康を積極的に聴くことはしていない。
聞くところによると、かつてのカリスマはまたさらに試行錯誤を続け、日本の根幹にあるリズム「エンヤトット」にたどり着いたとか。そして90年代から今に至って、エンヤトット、そして韓国のサムルノリのリズムを大切にしてライブ活動を続けていると聞く。
僕はそういう岡林信康の姿は見たことがないが、先日両親がコンサートに行ってきたらしい。知り合いに誘われたと聞く。
「エンヤトットの岡林はどうやった?」
「いやぁ凄い迫力やったで。完全に岡林さんがキリストに見えたわ」
反戦フォークのかつてのカリスマであることなどほとんど知らないおかんが、その姿を見て「神々しい」と言う。やはり「オーラ」が常人と違うのかもしれない。
高石ともやについては、ずっと深夜ラジオ(ズバリク)のリスナーであったから、親しみも深く書いてもかまわないだろうと思った。しかし岡林信康については、僕らの世代では手をつけてはいけない「聖域」のような気さえしていた。「神」と呼ばれた人なのだから。
ということで、念のためにWikipediaでプロフを確認しようとして驚いた。彼の人は1946年生まれである。当年60歳。これで、もう還暦か、と思って驚いたのではない。僕はもっと年上だと思っていたのである。高石さんは今年65歳になる。それより、還暦だと言うことは吉田拓郎と同い年ということである。そうだったのか。神は、ずいぶん若いときから神だったということになる。吉田拓郎のような新興勢力があとから商業ベースで売り出したことに戸惑い怒るファンの話を聞いたことがあるが、その彼と同い年だったとは。とにかく若い頃から重いものを背負いすぎた人ではなかったのだろうか。
60年代の後半から70年代の初め。安保闘争とともに、フォークソングが一大ブームとなっていた。アングラ。反戦ソング。新宿フォークゲリラ。岡林はその中心に存在する「神」であったと僕らは聞いていた。「友よ」「山谷ブルース」「くそくらえ節」「ガイコツの唄」「私たちの望むものは」等々。いくつもの名作そしてプロテスト・ソングを歌い、ムーブメントの頂点に君臨していたと聞く。
僕はもちろんこの時代は子供過ぎて知らない。だがこれらの歌は伝説だった。
僕はずっと遅く、80年代に高校時代をおくったのだが、学園祭で一度だけステージに上がったことがある(秋の気配は代役でちゃんと上がったとは言えない。その翌年のこと)。血気盛んな頃である。その時はフォークソング部の部長と2人で相談し、岡林信康の「チューリップのアップリケ」「手紙」をやった。こんな歌もあるということを知って欲しかった。
この2曲は、もちろん被差別を歌った問題作である。
うちがなんぼ早よ起きても お父ちゃんはもう靴トントン叩いてはる
あんまりうちのこと構もてくれはらへん うちのお母ちゃん何処へ行ってしもうたのん
(チューリップのアップリケ)
「手紙」になるともっと悲しい、結婚差別の現状が歌われる。こんな歌はもちろん放送禁止であって誰も知らなかった。僕らも若かったと思う。
さて、時間を戻す。
「神」として君臨した岡林信康は、押しも押されもせぬカリスマであったが、その絶頂期に「おいら一抜けた」と、田舎に引っ込んでしまった。気持ちはわかる。約5年間岐阜、京都で山村に閉じこもった。その空白の間、岡林という人の伝説、神話が出来上がったのかもしれない。
空白と言っても、レコードは随時出ていた。その音楽も、反戦フォーク、プロテストソングから、ボブ・ディランを意識したロックサウンド(バックをはっぴぃえんどが務めていた)、そして難解な歌詞の時代。方向性を模索していたのだと思う。時代は安保から高度成長へ、そしてオイルショックとどんどん移り変わっていく。
岡林は78年、アルバム「セレナーデ」を発表する。この78年というのは、僕が深夜ラジオを最も集中して聞いていた頃。ラジオのCMでは収録曲「ミッドナイトトレイン」が繰り返し流れ、「ついに沈黙を破る」などのコピーが叫ばれていた。伝説の岡林信康を初めてリアルタイムで体感できたLPだった。
このアルバムは酷評される。「ふざけて作ったアルバム」と呼ばれた。曲は歌謡曲、流行歌路線。収録曲「新説SOS」などはあの鶴光師匠がカバーしたほどである。熱狂的岡林ファンはもちろん嘆いたと聞く。
しかし、当時中学一年の僕は、そんなに悪いLPだとは思わなかった。子供だったからかもしれないが、「神」をリアルタイムで知らない、伝説だけを聞いてビビっていた世代の僕達からしてみれば、なんだか風穴が開いたような気がした。岡林信康だって気軽に聴いていいんだよな。
翌年発表されたLP「街はステキなカーニバル」。シングルとなった「Good Bye My Darling」をはじめライトなサウンド。その中に「君に捧げるラブ・ソング」が収録されていた。
悲しみにうなだれる君を前にして そうさ何も出来ないでいるのがとてもつらい
せめて君の為に歌を書きたいけど もどかしい思いはうまく歌にならない
とても素直な、衒いのない歌。かつての反戦フォークの旗頭が歌うとはとても思えない、優しい、静かな心情の吐露。
もともと優しい、柔らかい感性の人だったのかもしれない。ようやく辿りついたこの世界の中で、ゆっくりとたゆたいながら歌ってくれる。
後に、この歌はただのラヴ・ソングではなかったことを知る。親友のドキュメンタリー写真家であり岡林の写真をずっと撮り続けた人が、病に倒れ余命幾ばくかとなったとき、岡林はこの曲を彼の人のために作り捧げたという。それだけに想いが入っている。
何も出来はしない そんなもどかしさと逃れずに歩むさ それがせめてもの証し
今 書き留めたい歌 君に捧げるラブ・ソング
とにかく胸に沁みるいい曲。僕は今でも、ギターを手に持つと高石ともやの「想い出の赤いヤッケ」かこの「君に捧げるラブ・ソング」かどちらかが口をつく。安らかな気持ちになれる。
その後、僕は岡林信康を積極的に聴くことはしていない。
聞くところによると、かつてのカリスマはまたさらに試行錯誤を続け、日本の根幹にあるリズム「エンヤトット」にたどり着いたとか。そして90年代から今に至って、エンヤトット、そして韓国のサムルノリのリズムを大切にしてライブ活動を続けていると聞く。
僕はそういう岡林信康の姿は見たことがないが、先日両親がコンサートに行ってきたらしい。知り合いに誘われたと聞く。
「エンヤトットの岡林はどうやった?」
「いやぁ凄い迫力やったで。完全に岡林さんがキリストに見えたわ」
反戦フォークのかつてのカリスマであることなどほとんど知らないおかんが、その姿を見て「神々しい」と言う。やはり「オーラ」が常人と違うのかもしれない。
いや~ん省吾だわぁ~と甘い声を出していました
(笑)
あぁ勘違いでした。
フォークの神様と呼ばれた
彼のことを知らない私ならではの間違いでしょうか?ね?ジョ~さん(と勝手にふってみました)
組長さんがコメントで「凛太郎さんならご存知かも!」って書いてらっしゃいましたが「あたり!」ですね
しかし、私は岡林さん反戦歌ってつづれ織りに書いたインドネシアに行っちゃった人が教えてくれたのですが彼は私より3歳上なんですよ。
何で私より随分下の凛太郎さんが岡林さんをこんなに語れるのって不思議です。
こう書くとアラレさんは怒っちゃうかもしれないけどなぁ…。でも心が広い方だと信じて(汗)。
アラレさんが思ったのと逆のことを僕も何度か思ったことがあります。いや~ん○○だわぁ~と(笑)。
「悲しみは雪のように」というタイトルを聞いたとき、「これは大塚博堂リスペクトなのかなぁ」と一瞬喜んで、違うと知ったときにはがっかりしました。「BLOOD LINE」も、あれ、喜納昌吉? と思いました(笑)。
浜省の「君に捧げるlove song」はやっぱりえっ、と驚きました。もちろん普遍的な言葉ですしカブるのはしょうがありません。浜省のもいい曲だとは思います。まあ岡林のは20年以上前の作品ですからね。しかしながら、ご趣味に合うかどうかわかりませんが、僕にとってはとてもとても大切な曲なのです(涙)。
もっとも、「愛奴」が拓郎のバックを務めていたことを知らず「イメージの詩」を浜省オリジナルだと思っている若いファンの存在を知るに至り、時代がかわっていることを痛感せざるを得ない現状ではありますが(笑)。
夜明けはぁ近い~♪
本文中にも書きましたが、確かに僕は世代じゃないですね(笑)。
なんで知っているのかと言われればそれはフォークソングが好きだから、ということがもちろんありますが、思い出に繋がるというのは、やっぱりその頃僕達はせいいっぱい背伸びをしていたのですね…。生意気ですよね(笑)。
政治的であるとか、そういうことはとりあえず置いて。
若者の溢れ出るものの表現ということでは共通項があるとも言えますけれどもね。でもよくわかりません。
これまた、レアな曲ですよね!?「君に捧げるラブソング」結構古いし・・・
この曲は今でも僕は「フォーク酒場」(ご存知ですか?)へ行くと演っています。(先述の哀しみのバラードもですが)
オリジナルですか?なんて店主に聞かれたことさえありますよ。
「手紙」「チューリップのアップリケ」良くご存知ですね!?
なんて書いている僕も1964年生まれですので、凛太郎様とは1つしか違わないのですがね。
因みに1浪しているので、大学での学年は同じようですね!
「新説SOS」これまた懐かしい!
同級生の小原君と教室で大声で歌ってて、当時深夜放送を聞いていない同級生はポカンとしてましたっけ!
今でもソラで歌えますよ!
浜田省吾を知らないといいつつ「風を感じて」の一説を持ってくるなんてなかなかですね!
僕は「愛奴」に関しては浜田省吾がドラムを担当していたバンドで、拓郎のバックバンドで1985年のつま恋ではドラムでの参加だった
というたった1行程度しか知りませんけれど・・・
「手紙」は当時(今でも?)放送禁止歌の代表作だったようです。
因みに放送禁止歌ってのは、テレビラジオ局が勝手に決めた取り決めであって、放送したからといって別に処罰されるようなものではないそうですと書いてあった記憶があります。(森達也「放送禁止歌」受け売り)
しかしながら、拓郎が「ペニーレーンでバーボン」の一節「つんぼ桟敷」を「蚊帳の外で」と歌ったのには少々がっかりでしたネ。
脱線しながら色々書いてしまいました。
申し訳ありません。
逆に岡林信康が農村に入って一度消える以前の曲というのは、なんか当時から伝説化していたこともあって、大変ないにしえのうたのように感じてしまうんです。アップリケとかはそうですね。リアルタイムではなく後から聴いたからだと思っています。この感じ、理解してもらいにくいのですが、さくぞうさんなら同世代なので雰囲気がわかってもらえるかもしれません。
でも「新説SOS」となれば相当に懐かしいですね。ラブソングがその後も、例えばラジオや有線で流れたりすることがあるのに対しSOSは以後全く封印されているようなものですから。もちろん僕もソラで歌えます。
森達也氏の著作は僕も読みました。僕からすれば新説SOSこそ放送していいのか、と思ってしまいますね(笑)。
最近はフォーク酒場というものがあちこちにあるようですね。ネット上の友人が時々出入りしている様子をレポしてくれてまして、なんとなしに雰囲気は知っているつもりです。我々より年長のフォーク世代が集う印象を持っていました。でも「君に捧げるラブ・ソング」をご存じないとは、結構若い方が店をやってらっしゃるのかな。或いは「昭和40年代より新しい歌はフォークと認めない」というフォークゲリラの生き残りのような頑固親父なのか(笑)。
僕の住む近所にもあるようなんですが、歌とギターに全く自信がないので行ったことがありません。
P.S. もう、凛太郎「様」は止めてもらえませんか(汗)。僕の方が年下でもありますし。
うーむ、スゴイ共通だ
大好きな歌に「哀しみのバラード」「君に捧げるラブソング」「松山隆弘さんの歌」作者には少々失礼ですが、'ヒット'した曲ではないですよね!
むしろ、隠れた名曲と表現するのが相応しい曲ですよね!
それに、拓郎、かぐや姫が好きで「旅人」で…
森達也氏の著作までも読んでおられる!
狭い日本といえども、ここまで共通する人がこの世に居るとは!!!
…って思いませんかぁ?
>凛太郎「様」は止めてもらえませんか
うーん、では、今後は「さん」にしますね!
ね、凛太朗さん!
ただ、これらのうたもヒットしたかしなかったかはともかく、いいものであるには間違いないわけでして、普遍性はあるのでしょうねー。
お互いに見る目はあるということで(笑)。
森達也氏の本は、どっかで触れたな。赤い鳥のとこだったかな。
ちょっと話がそれますが、「哀しみのバラード」にいただいたコメントにつきましては、さくぞうさんのあぶちゃん様へのレスポンスと解釈できますので、僕がそこに書き込むと屋上屋を架すことになりますので止めます。ということで失礼します。
ネットで書いていますと、時々あのように詳細をご存知の方や当事者の方、さらにはご本人が書き込みをされることがあります。緊張しますね。