自然の中にはいっぱいの不思議がある。
人は目に見えていることでしか認識しないけど、すべてのものにすべての物語がある。
森へ行こう(心とからだと子育てと)さんのブログより
*転載はじめ*
「花と出会う、石ころと出会う」
「出会う」というのは本当に難しいです。
人はいつも「幸せ」を探していますが、もしかしたらズーット探し続けてきた「幸せ」は、いつもあなたの傍にあったのかもしれません。
でも、それに気づき、それに出会える人はあまりいません。
道端の花は、「永遠の真理」と「絶体の美」を示していますが、私たちは「高いお金を出して買ったもの」の方に美と価値を求めようとしています。
毎日子どもと一緒に暮らしているのに、子どもの笑顔や悲しみに気づかない人もいっぱいいます。
そういうことはみんな「当たり前」のことだからです。
私たちは全員、常に「重力」に引っ張られているのに、滅多なことがない限りその「重力」には気づきません。
それと同じです。
でも、幼い子どもたちはまだその「当たり前」が当たり前ではありません。
だから、「そのこと」と出会い、不思議を感じ、「なぜ?」「どうして?」と聞いてくるのです。
でも、知識と常識で世界を見ている大人達には、子ども達が出会う「そのこと」が見えません。
だから、「不思議」の感覚を共有することなく、単に大人の知識と価値観で、その「なぜ?」「どうして?」を説明しようとします。
そして、その知識と価値観を理解できない子どもを「無知」と断定してしまいます。
そんな時、子どもと一緒に、その視点と感覚を共有できれば、大人でも、長い間忘れていた「そのこと」と出会うことが出来るのですが、なかなかそういうことが出来る人はいません。
道端の石ころを拾ってきて、手の上に載せ、転がし、色や形を見、重さを感じ、その石の歴史を想像してみて下さい。
道端の一輪の花の傍らに座って、色を楽しみ、形を楽しみ、匂いを楽しみ、その花を支えている天の働き、地の働き、宇宙の働き、生命の働きを想像してみて下さい。
ちなみに、土はミミズや細菌が作っています。
ミミズや細菌がいなければ、土は存在せず、植物も存在せず、動物も存在しません。
名前もわからない目の前の一輪の花でさえ、天の働き、地の働き、宇宙の働き、自然の働き、生命の働きがお互いに助け合い、支え合うことで咲いているのです。
それが「不思議」なんです。
DNAの仕組みが分かっても、その「不思議」の答えにはならないのです。
「一つのもの」と出会うことが出来ると、その「一つのもの」を支えている「多くのもの」とも出会うことが出来ます。
春になったら、それまでは枯れ木のように見えた木々や、枯れ野原などが、一面、緑や花々に覆われます。
これって不思議ですよね。
私は大人で、しかも理工系ですから、もちろん知識では原理を知っています。
でも、春になるたびに「不思議」を感じるのです。
世の中には知識では説明できない「なぜ?」「どうして?」もあるのです。
そして、子どもたちが感じている「なぜ?」「どうして?」も知識では満たされないのです。
*転載おわり*
なんだか意味もわからないつかみようもないことには大人は不安を感じます。
だから名前や理由づけや知識を結びつけて納得します。
そうしないとインプットできないからです。
インプットすれば、いつでもそれを引き出すことができますから。
どけど子供はただ「なぜ?」「どうして?」なんですよね。
ただ純粋に。
人は目に見えていることでしか認識しないけど、すべてのものにすべての物語がある。
森へ行こう(心とからだと子育てと)さんのブログより
*転載はじめ*
「花と出会う、石ころと出会う」
「出会う」というのは本当に難しいです。
人はいつも「幸せ」を探していますが、もしかしたらズーット探し続けてきた「幸せ」は、いつもあなたの傍にあったのかもしれません。
でも、それに気づき、それに出会える人はあまりいません。
道端の花は、「永遠の真理」と「絶体の美」を示していますが、私たちは「高いお金を出して買ったもの」の方に美と価値を求めようとしています。
毎日子どもと一緒に暮らしているのに、子どもの笑顔や悲しみに気づかない人もいっぱいいます。
そういうことはみんな「当たり前」のことだからです。
私たちは全員、常に「重力」に引っ張られているのに、滅多なことがない限りその「重力」には気づきません。
それと同じです。
でも、幼い子どもたちはまだその「当たり前」が当たり前ではありません。
だから、「そのこと」と出会い、不思議を感じ、「なぜ?」「どうして?」と聞いてくるのです。
でも、知識と常識で世界を見ている大人達には、子ども達が出会う「そのこと」が見えません。
だから、「不思議」の感覚を共有することなく、単に大人の知識と価値観で、その「なぜ?」「どうして?」を説明しようとします。
そして、その知識と価値観を理解できない子どもを「無知」と断定してしまいます。
そんな時、子どもと一緒に、その視点と感覚を共有できれば、大人でも、長い間忘れていた「そのこと」と出会うことが出来るのですが、なかなかそういうことが出来る人はいません。
道端の石ころを拾ってきて、手の上に載せ、転がし、色や形を見、重さを感じ、その石の歴史を想像してみて下さい。
道端の一輪の花の傍らに座って、色を楽しみ、形を楽しみ、匂いを楽しみ、その花を支えている天の働き、地の働き、宇宙の働き、生命の働きを想像してみて下さい。
ちなみに、土はミミズや細菌が作っています。
ミミズや細菌がいなければ、土は存在せず、植物も存在せず、動物も存在しません。
名前もわからない目の前の一輪の花でさえ、天の働き、地の働き、宇宙の働き、自然の働き、生命の働きがお互いに助け合い、支え合うことで咲いているのです。
それが「不思議」なんです。
DNAの仕組みが分かっても、その「不思議」の答えにはならないのです。
「一つのもの」と出会うことが出来ると、その「一つのもの」を支えている「多くのもの」とも出会うことが出来ます。
春になったら、それまでは枯れ木のように見えた木々や、枯れ野原などが、一面、緑や花々に覆われます。
これって不思議ですよね。
私は大人で、しかも理工系ですから、もちろん知識では原理を知っています。
でも、春になるたびに「不思議」を感じるのです。
世の中には知識では説明できない「なぜ?」「どうして?」もあるのです。
そして、子どもたちが感じている「なぜ?」「どうして?」も知識では満たされないのです。
*転載おわり*
なんだか意味もわからないつかみようもないことには大人は不安を感じます。
だから名前や理由づけや知識を結びつけて納得します。
そうしないとインプットできないからです。
インプットすれば、いつでもそれを引き出すことができますから。
どけど子供はただ「なぜ?」「どうして?」なんですよね。
ただ純粋に。