夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

裁判員制度導入への懸念

2004年10月12日 | profession
一、はじめに
裁判員制度を導入する法案が3月はじめに閣議決定された。
これは、司法制度改革の一環として、大きな意義を持った制度だと考える。第一に、現在一般市民生活から隔絶されているような印象のある司法過程への市民の参加を可能にする。第二に、検察官が有罪率を確保することに組織の存在意義をかけ、被告人の「無罪の推定」という建前とはかけ離れている刑事裁判実務を是正することができる可能性がある。
しかし、裁判員制度は両刃の剣である。法の素人である市民が判決に参加することに伴う、素人であるが故の良い点ばかりでなく、悪い点の影響も考慮する必要がある。つまり、素人が被告人の人生(時には生死まで)を決定することから生じうる問題をミニマイズできるような環境が整備されていなければ、却って裁判への信頼を損なう結果になりかねない。その観点からは、残念ながら現状の環境はあまりにも不備であると言わざるをえない。本稿では、市民の裁判への参加という点で最も進んでいる(弊害も進んでいる)アメリカの制度と比較しながら、裁判員制度導入に不可欠な環境が現状ではいかに欠けているかについて論じる。

二、日本の問題点
第一に、裁判員の予断を排除する制度の不足である。素人である裁判員に予断や偏見を抱かせないようにするためには、ミスリーディングな証拠を証拠調べから完全に排除しなければならない。それらが少しでも裁判員の目に触れたり耳に入ったりしただけでも危険である。そこで、アメリカでは、日本よりもはるかに詳細な証拠法則が発展しており、証拠法則上、様々な証拠・証言(たとえば、責任保険、事件後の修繕・改善、示談交渉等)が「証明力よりも予断や偏見を陪審に与えるという弊害の方が重大」と判断されて定型的に排除されている。それに対して、日本の証拠法は、法廷に素人の判断者がいないため、証拠法はさほど細かく規定されていない。予断を抱かせるような証拠だとして反対当事者が異議をのべ、裁判官の判断で異議を認めるかどうかが判断されるケースが多いが、その状態で裁判員を法廷に入れると、そうした悠長なやりとりを裁判員が逐一見ていることになり、たとえ排除されてもその証拠の印象を拭うことは難しいであろう。
第二に、争点の整理を可能にする制度の欠如である。アメリカでは、陪審の拘束を最小限にとどめるため、disclosure制度が徹底されており、当事者が事前に証拠や証言の整理や打ち合わせを入念に行っているが、日本の現行刑事訴訟法ではそれは難しいであろう。
第三に、犯罪の構成要件が米国ほど細分化されていない。アメリカでは公判により論点が可能な限り整理され、裁判官が陪審に何を判断すればいいか説示する際には、単純な事実認定の問題に絞られているのだが、それも、日本なら、たとえば殺人罪第199条という一つの条文が適用され、情状による量刑については裁判官に広範な裁量が与えられている行為について、多くの類型が刑法上規定されているから可能なことである。たとえば、ニューヨーク州刑法では、第1級謀殺だけで9つの類型があり、他にも第2級謀殺、第1級殺人、第2級殺人等、全部で10種類以上の異なる構成要件が存在するので、陪審が判断することも単純化されているのである。
第四に、犯罪報道の問題がある。典型的に予断や偏見を抱かせる証拠として米国ではもちろん日本でさえも、原則として排除されているものに「悪性格の証明」があるが、日本では、犯罪が起こると、報道機関が犯人の近所の人に「彼(女)は日頃どんな人でしたか?」と聞いて回る様子がTV映像で毎日垂れ流されている。不法行為上の名誉毀損が日本よりはるかに成立しやすい米国にはそれほどないことである。報道規制は表現の自由との関係でしないことになったため、裁判員はこうした予断・偏見情報に常に晒されることになる。
第五に、裁判官が合議に加わるという点である。日本人はどうしても専門家の意見を重んじるという考え方をする傾向がある。先日、筆者の契約法講義の受講生にアンケートをしたところ、裁判員になりたいか否かについては、「なりたい」、「どちらかといえばなりたい」が計22%に対して、「どちらかといえばなりたくない」、「なりたくない」と回答した者は78%おり、その理由の主なものは、「知識もないのに他人の一生を左右するのは責任が重過ぎる」ということであった。そして、「あなたが刑事被告人になったら(選べるなら)裁判員の参加による判決を望むか、それとも裁判官だけに判決を出してほしいか」という質問については、裁判員を望むのが34%、望まない者が66%となり、その理由としては、「法律知識や経験のない人に裁かれたくない」というのが一番多かった。これでは、合議において、裁判員が裁判官の意見をご尤もと受け入れてしまう可能性が高いと思われる。
そのような状況で、裁判官は、裁判員がプロである自分に意見に引きずられることなく公平な議論ができるようリードしなければならないが、そうした技能は裁判官が従来の司法研修所で受ける教育では養成できるものではない。
第五に、現実に裁判員を務める層の偏りである。会社員の場合、裁判員のための休暇を認めなかったり休暇をとったために不利益を課す会社には罰則が科されるが、会社と従業員の関係ほど本音と建前が乖離したものはなく(例:有休休暇の消化不能やサービス残業)、結局、会社員等のフルタイム・ワーカー以外の層ばかりが裁判員を務める事態が予想され、誤解を恐れずに敢えていえばそういう層こそ前記の偏見報道により多く晒されている人たちなのではないのか。
第六に、裁判で実現される正義は、男女差別関係の訴訟のように、世の中の大勢より一歩進んだものであるべきこともあるが、裁判員制度ではそれが不可能になるおそれがある。特に、強姦被害者による加害者殺害の正当防衛の成否を争う事件で「本当に貞操観念があれば逃げられたはず」等の伝統的な女性観をもつ裁判員が大勢を占める場合にどうなるか。
裁判員制度を推進している日弁連からして、残念ながらこの点では疑問視される点がある。というのも、日弁連製作の裁判員宣伝ドラマ「決めるのはあなた」の中で、議論が煮詰まってきたので、「休憩してお茶でも飲みましょう」という場面があったのだが、驚いたことに、女性裁判員(しかも、「私は結構です」といって飲まなかった女性看護師を除く女性全員)だけがコーヒーを淹れに立ち上がり、男性裁判員はただの一人も手伝おうとしないのであった。男女共同参画社会基本法が施行されて久しく、しかも裁判員制度に関する啓蒙ドラマなのにこのようなシーンを作ってしまう日弁連の見識を大いに疑うが、このことからも、裁判員による判決がジェンダーが争点になっている事件で必ずしも公正なものにならないことは、容易に想像されることなのである。
これらの多くの問題が2009年の実施までに解決できるのか、残念ながら疑問視せざるをえず、制度導入に懸念を抱かざるをえないのである。


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