人が全世界をもうけても自分の命を失ったら
何の得になろうか。
(マタイによる福音書16章26節 )
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
この聖句を聴いてあなたはいったいどのように思うだろうか?
ここで主がおっしゃっている「自分の命」とはあなたにとって何を意味するだろうか?
少なくともわたしたちフツーのクリスチャンにとっては日毎にいただく主よりの命の糧である。いわば主よりの霊肉の糧である。たとえ人が巨万の富を得たとしても、主の御前ではそんなことは問題とならないのである。
少なくともわたしたちフツーのクリスチャンにとっては衣食住に真に必要な糧を主よりいただくことがとても大切な重大事である。この意味でフツーのクリスチャンのわたしたちにとって主よりいただく日毎の霊肉の糧は「主の聖餐」と言える。わたしが毎朝食べる朝食の野菜ジュースは「野菜のいのちを犠牲にした、つまり主よりの聖餐」である。
この意味でわたしは心底魂の底から野菜のいのちに感謝すると共に主の御体の一つの小さな細胞をいただくことなのだから、野菜を創造してくださった主ご自身にも魂の底から感謝いていただく(受肉してくださった主は被造物全体をつまり人間を含めた全宇宙を着てくださったのである)。
これこそ「わたしの命」を支え、育み、強め、導き、助けてくださる主の聖餐、主ご自身の霊肉の糧である。
だからこの霊肉の糧を失ったら何のために何によってあなたはわたしの御前で生きているのか、と主は言われるのだ。
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★