そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、
花婿を迎えに出ていくのに似ている。
その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
思慮の浅い者たちはあかりを持っていたが、油を用意して
いなかった。しかし、思慮深いものたちは、自分のあかりと
一緒に、入れ物の中に油を用意していた。
(マタイによる福音書 第25章 1節~4節 )
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フツーのクリスチャンであるわたしは特にこのエピソードが大好きだ。
ほかのどのエピソードよりも、この自分に警告として主イエス・キリストが与えてくださったと全身全霊で信じている。
上記に引用した聖書の本文の中で、「あかり」とはいったい何をさしているのだろうか?
わたしは、この「あかり」を「主イエス・キリストへの信仰」と解釈している。しかし、それだけでは「思慮の浅い者」になってしまうという、大分恐ろしい警告である。
では、「思慮深い者」になるためには何が必要なのだろうか?
「油」である。
わたしはフツーのクリスチャンとして、この「油」を忘れないように気をつけて日常生活を送っている。
この「油」とはすなわち「お祈り」である。
主イエス・キリストへ向かってのお祈りがなければ、わたしのすべては空しいものだとさえ思って、わたしはお祈りを欠かさない。「お祈り」が主イエス・キリストから与えられるのを全身全霊を持って感謝している。
主イエス・キリストへの「お祈り」こそ、フツーのクリスチャンのわたしの源泉である。
わたしは「お祈り」が与えられることによって、主イエス・キリストからの「真の命」が与えられていることを確信している。
主に感謝。
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