話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が
近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが
わからなかった。
(ルカによる福音書第24章 15・16節)
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上記引用聖句の二人のようにわたしたちの目は常にと言ってよいほど
さえぎられていて主イエスがそばに近づくまで来てくださってもわからない。
「あっ、あれは聖霊のお導きだったのだ」としっかりわかるには日ごろから
聖書を読み(たとえ5分でもよいから)お祈りの習慣をもち、宣教していなければ
ならない。少なくとも少しでもよいから聖書を読みお祈りをする習慣が毎日あれば
よいと思う。意外に教会ではこの習慣(大切なのに)指導しない。だから教会で
習ったことが実生活の中で生かされない。たとえ教会で指導されなくても自分で
世評にたえた聖書辞典など片手に聖書を毎日読みお祈りの習慣をつけよう。
ひどいことに教会で「食前感謝」のお祈りも教えない。
教会は教会、実生活は実生活とことさらに分けたがる教会がほとんどである。
なんのための教会なのか、何のための主の教えなのか、何のためのキリスト教なのか
とわたしは叫びたい。
とにかく聖書を読もう、そしてできれば宣教しよう。友達に、主イエスのことを話す
だけでもよい。
父と子と聖霊の御名によって。
主イエス・キリストの御名によって。
アーメン。
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