なぜならわれわれは、細胞の中には、われわれがブルイズニ(訳注・ほとばしる―「ブルイズヌーチ」という動詞から作った言葉で、この場合は生物の急激な働き、生命の躍動を意味させている)と呼んでいるような何かがあるなどとは言わずに、『生命』があると言うではないか。
(「人生論」トルストイ著 原卓也訳 新潮文庫 )
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上記に引用したトルストイの「人生論」の一節を読んで、わたしは主イエス・キルストご自身も生物のひとりだなとつくづく思った。
極論すれば「神も生物のひとりになった」ということだ。
人間も生物の一種類である。そして上記のトルストイの一節は創世記で神が特に人間を創造した時にあかされた「いのちの息を吹きいれられた」(創世記:2・7)。
トルストイや少なくともフツーのクリスチャンにとって『生命』とは、『神のいのちに生かされている』存在なのである。人間に限って言えば『神のいのちにいかされていることを自覚させていただけること』ほど『互いに互いのいのちを大切にさせることはない』とわたしは確信している。トルストイのように。(あえて高慢になりつつそのように書く。全宇宙のすべての『生命』あるもののために)。
互いに愛し合うために。
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(「人生論」トルストイ著 原卓也訳 新潮文庫 )
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極論すれば「神も生物のひとりになった」ということだ。
人間も生物の一種類である。そして上記のトルストイの一節は創世記で神が特に人間を創造した時にあかされた「いのちの息を吹きいれられた」(創世記:2・7)。
トルストイや少なくともフツーのクリスチャンにとって『生命』とは、『神のいのちに生かされている』存在なのである。人間に限って言えば『神のいのちにいかされていることを自覚させていただけること』ほど『互いに互いのいのちを大切にさせることはない』とわたしは確信している。トルストイのように。(あえて高慢になりつつそのように書く。全宇宙のすべての『生命』あるもののために)。
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