「受けるよりは与える方が幸い」
(使徒行伝第20章35節 )
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これは主イエス・キリストが誰か弟子たちにおっしゃった言葉だと使徒パウロは言う。わたしはフツーのクリスチャンだがこの言葉ほど自分の心と魂にグサリと突き刺さる主の言葉はない。なぜならわたしは「理解することより理解されること」を好む心のクセがどうしても治らないからだ。だから他者に対していつも「ねえねえ、わたしを理解して! 」という感じになってしまう。しかし、この自分自身の悪いクセを「自覚」させていただける主イエス・キリストの「受けるより与える方が幸い」という言葉はわたしを生かすいのちの言葉となっている。
それからこのみ言葉は現代社会の大きな問題となっている「持っている人と持っていない人」、いわゆる金とモノをたくさん持っている人が何か偉いように優遇され、金とモノを持っていない貧乏な人が侮辱され差別されて当然とい風潮があるという、主イエス・キリストの目から見たなら「全くのマチガエ」、愛とは関係のない風潮だ。フツーのクリスチャンのわたしは、だから自分の衣食住が貪欲なものにならないようにいつも警戒をすることを主イエス・キリストに向かって祈り求めている。1本ボールペンを買うことにもいつも主イエス・キリストのみ言葉を心の中に置く。つまり主イエス・キリストの目と耳と口をいつも何をするにも意識させていただく。
フツーのクリスチャンのわたしにとってこれが「キリスト者の自由」である。金とモノ、そして権力への貪欲さほど人間を破壊し人間でも動物でもないヘンチクリンなモノにしてしまうことはない。主はわたしに「わたし自身がヘンチクリンな貪欲世界をぶっ叩いて、主であるわたしが創造したもとの人間世界に再創造する。わたしは癒す」と言われる。
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これは主イエス・キリストが誰か弟子たちにおっしゃった言葉だと使徒パウロは言う。わたしはフツーのクリスチャンだがこの言葉ほど自分の心と魂にグサリと突き刺さる主の言葉はない。なぜならわたしは「理解することより理解されること」を好む心のクセがどうしても治らないからだ。だから他者に対していつも「ねえねえ、わたしを理解して! 」という感じになってしまう。しかし、この自分自身の悪いクセを「自覚」させていただける主イエス・キリストの「受けるより与える方が幸い」という言葉はわたしを生かすいのちの言葉となっている。
それからこのみ言葉は現代社会の大きな問題となっている「持っている人と持っていない人」、いわゆる金とモノをたくさん持っている人が何か偉いように優遇され、金とモノを持っていない貧乏な人が侮辱され差別されて当然とい風潮があるという、主イエス・キリストの目から見たなら「全くのマチガエ」、愛とは関係のない風潮だ。フツーのクリスチャンのわたしは、だから自分の衣食住が貪欲なものにならないようにいつも警戒をすることを主イエス・キリストに向かって祈り求めている。1本ボールペンを買うことにもいつも主イエス・キリストのみ言葉を心の中に置く。つまり主イエス・キリストの目と耳と口をいつも何をするにも意識させていただく。
フツーのクリスチャンのわたしにとってこれが「キリスト者の自由」である。金とモノ、そして権力への貪欲さほど人間を破壊し人間でも動物でもないヘンチクリンなモノにしてしまうことはない。主はわたしに「わたし自身がヘンチクリンな貪欲世界をぶっ叩いて、主であるわたしが創造したもとの人間世界に再創造する。わたしは癒す」と言われる。
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