『そこが空洞なのに気づいてはっとなった。頼りないほどに、なにもない、のである』
この言葉は作家小川洋子が、文楽人形を始めて近くで見た時の感想を書いた文の一部のようです。人形の神聖なまでのたたずまいに気後れしていた小川氏が衣装の隙間から手を入れさせてもらった時の感想とのこと。
そんな見事な表現で語る能力は、私にはないけれど、文楽の思い出があります。遠い昔のことですが。
山口県の片田舎で私は確か中学生だったと思います。戦後、世の中は少しずつ復興の兆しは見えていたのでしょうけれど、そんな中学校に何故名前の通った文楽の一行が来て下さったものか、、今考えると不思議なことです。思い出をたどりながら勝手に膨らませた思いを書いてみると、こんな事情だったのかもしれないと思うのです。
進駐軍が支配した世の中、日本の歴史も、伝統芸能も否定されていたのではないか。文楽に携わる人達は、上演する場もなく、生活にも困窮したのでは。その稼ぎ方法として、いわばどさ回りをしたのではないかと思うのです。教師の中に何らかの関係のある人がいて、生徒には貴重な日本文化を味わわせ、なにがしかの報酬を支払ったのかもしれない。
兎に角生徒は体育館に集まりました。風格のある年配の方は裃を付けていたかなあ。あと、助手的な人が二人、三人で人形を操ると説明受けた覚えがあります。その当時田舎でこうしたものを見る機会などなかったと思います。我々生徒たちは、どういう態度を取るべきかもわからないままただ見ていたというのが事実でしょう。「傾城阿波の鳴門」だったのだと後に分かりましたが。
簡単な舞台装置に三人の、お爺さんとおじさん、人形芝居だってよ‥と真剣みもなく見ていたと思います。ところが、少し時間が経つと、大夫も二人の助手(何と呼ぶのでしょう)が消えたのです。舞台では、操られる人形の素晴らしい動きです。たるんでいた姿勢をシャキッと立て直されたような気がしました。人形が命を得ます。
今でもその時の自分の体・心の動きがはっきり思い出されます。
これぞ伝統芸の力だと思いました。
あの片田舎で、あんな立派な芸に出会ったこと、私の財産です。
小中学校だった頃は意外に そういう催しがあったように
思うのです。ラジオの録音で観客まで協力したというのか
参加したというべきか歌の練習などした記憶があります。
私もお能なども学校で観た記憶はあります。
そう言えば片田舎の体育館で、宇野重吉や谷林谷栄を見せてもらいました。