origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

亀山郁夫『ドストエフスキー 謎とちから』(文春新書)

2008-09-28 21:58:05 | Weblog
ドストエフスキーを「堕落した父」「二枚舌」「正教からの分離派」「異端派」(「鞭身派」「去勢派」)といったキーワードを通じて読み直した本である。江川卓の『謎とき』シリーズを意識して書かれているが、「スメルジャコフの本当の父親は誰か」など江川と異なった著者独自の見解もふんだんに盛り込まれている。著者は当時のロシアで流行っていたキリスト教の異端派の「去勢派」に目をつけ、イエスやその弟子たちは全て去勢されていたと説くこの派からドストエフスキーが影響を受けていたということを論じる。清らかさを重んじる『カラマーゾフの兄弟』を去勢派のイデオロギーとの関連の中で読み直す箇所はスリリングである。スメルジャコフの思考に去勢派からの影響が見受けられることを論じた箇所は説得力があった。もしかすると、アリョーシャ・カラマーゾフが理想としていたのは、性欲が消え、男女が兄と妹のように暮らすことのできる、去勢派の楽園のようなものだったのかもしれない。
去勢派と並んで当時のロシアで人気を集めた、自らを痛めつけることを信心の証とする鞭身派からの影響も気になった。『罪と罰』のリザヴェータは鞭身派だったのではないかと著者は論じている。
著者は象徴層・歴史層・自伝層・物語層の4つの層から5大小説を読み直そうとする。4つの層を複眼的に見る視点から、書かれることのなかったカラマーゾフの続編について著者は考察を繰り広げている。アリョーシャはやがて「堕落した父」である皇帝を暗殺することになるのではないか、という論が何人かの学者の間で支持されているようだが、著者はその説を取ってはいない。もしロシアの社会の転覆が企画されるのだとしたら、不幸な人生を送ることを定められたコーリャ・クラソートキンが首謀者となるだろう。私もムイシュキンのようなアリョーシャが皇帝暗殺の首謀者になるという展開はさすがに無理があるように思う。