富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

おもしろ画像 ー 狛犬の影

2015年12月31日 | おもしろ画像

 2015.12.26.9:38 柏原市玉手町 式内社 伯太彦神社

 「あれれ、狛犬の影がなんでか明るい?」なんでやろ?

 

 「ほ~ら、影が明るい(白い)でしょう?」

 

 柏原市玉手町にある伯太彦神社です。

 建年代は不詳ですが、由緒ある式内社です。

書かれてある「縁起」を要約すると、『伯太彦命は、田邊史の祖で崇神天皇の子孫であるようです。田邊史一族として安宿郡の資母郷に居を構えたとの伝承があります。

白鳳から奈良時代にかけて栄えた藤原氏に仕えた田邊史一族がこの地に勢力を持っており、なかでも田邊史大隈は藤原(中臣)鎌足の資人(与えられた従者)として活躍』したとのことです。

 

 伯太彦神社の鳥居

 右:伯太彦神社、左:玉手山古墳群、大阪夏の陣 古戦場、玉手山公園東口方面、まっすぐ:安福寺、安福寺横穴方面

 

 安福寺

柏原市玉手町にある浄土宗知恩院派の仏教寺院。山号は玉手山。寺伝によれば奈良時代に行基によって建立される。中世には荒れ果ててしまい、小堂がただ一棟あるのみであったと言います。

寛文年間(1661~1672)に浄土宗の僧 珂億上人がこの地を訪れ、安福寺を再建します。

尾張大納言徳川光友(徳川御三家筆頭尾張第二代徳川光友公(家康の孫))は珂億上人の学徳に深く帰依し、安福寺に寺田を寄付するなど、明治維新に至るまで歴代尾張徳川家により援助を受けた。光友が寄進した『山水蒔絵硯箱』『牡丹蒔絵硯箱』『菩提樹蒔絵香筥』は寺宝であり、国の重要文化財に指定されています。

また、ここの本堂は富田林市新堂大工町の大工さんが建てたとあります。聖徳太子式珂憶造りと呼ばれ、本堂の丸みを持った屋根などが特徴。

4つ目の門を過ぎ、一番奥まで行くと、徳川光友公夫妻と子の御廟があります。尾張徳川家御縁のお寺です。また、御廟の下にはお寺の墓地があり、元禄や延宝、正徳などの江戸前期の五輪塔やいろんな形状のお墓があります。

 

 安福寺横穴群

 ボコッボコッと谷の両側がこのように開いています。ここ以外にも複数横穴群があるそうです。

 これら横穴群は、谷間の凝灰岩が露出しているところに掘られており、参道南側、北側に各16基、計32基確認されているということです。ざっと見渡したところ、そのうち10基程度が確認できます。古墳時代後期、6~7世紀の横穴墓であることがわかっています。

いきなり出てきてびっくりします。これらの横穴は高井田横穴と同種のもので、大阪府下では柏原市にのみ存在しています。

 

 玉手山古墳群

 4世紀の前方後円墳で、尾根沿いにあります。50~150mの10基のすべて前方後円墳でありましたが、宅地造成などでうち4基が消滅しました。現在も4つの古墳は、形をとどめており、墳丘部に立入れる古墳もあり貴重です。4世紀後半からの古市古墳群との関係を考える上で重要な古墳であるといえます。

玉手山古墳群には、5世紀以降の古墳はなく、短期間に集中して作られた古墳であると言えます。

 

 古墳と重なる場所に、大阪夏の陣 古戦場があります。

 小松山の戦いといわれ、玉手山の市立老人福祉センター「やすらぎ圓」付近で、豊臣方、後藤又兵衛基次と幕府方が交戦しました。

6時間もの激闘の末、又兵衛が戦死した古戦場です。この付近は高低差がきつく、山の尾根の玉手山(小松山)と東側の国分地区の幕府方諸将が激戦を展開したところです。

2015.12月31日 (HN:アブラコウモリH)

 

 


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