当日は、ハワイアンが聞こえてくるトロピカルな雰囲気の中、
参加者12名(講師を含み、男5・女7)で始まりました。
前回の『マチネの終わりに』に引用されている本作品は、
“マチネ”を理解するための1冊であり、
文章構成を比較(平野が意識しているであろうことから)して、
読んでもらことからのご推薦だそうです。
参加者の感想は、読みはしたがよくわからない、
日本語を読んでいるのに原文が透けて見えるようだ、
文章(翻訳)がなっていない!女性に対する態度がひどすぎる。
その一方、情景描写のすばらしさ、
馬の村、から犬の村へと視点が下がっていく描写の美しさ、
意識の流れ、生命の根源をいかに表現するかのすばらしさが絶賛されていました。
読みにくいながらもわかりやすい作品という点では、
参加者の同意を得られていたようです。
南米文学には、幻想と妄想に世界観があり、
それらをいかに広げて読むことができるかが、作品を楽しめるポイントの一つとなる。
また、20世紀イデオロギーに対抗しているとか、
内戦、大戦に接した作家が作り上げた作品の意味など大切なことをご講義いただきましたが、
すっかり流れてしまいました。
講師からも解説者からも秀逸さを評された第Ⅲ部9章、
第九シンフォニーの回想の件のために『交響曲第九』をご参考までに。
日本語訳もあります。
【レポへのコメントから】
課題本じゃなかったら決して読まなかった、
でも、読み終わってみれば今年の課題本で私的ベスト3に入る作品でした。
岩波文庫版と1994年刊行の集英社文庫版の両方を読んだのですが、
集英社文庫は柳原孝敦という人の解説です。
そのごく一部分ですが、
カルペンティエルはアレゴリーの手法を多用している、としていて
ムーシュというフランス語で蠅を意味する女性が、
主人公の決意を妨害するというその機能において、
サルトルの戯曲『蠅』からの引用になっていること、
夫の帰りを待つ妻ルースの名は聖書のルツ記に由来すること、など
サルトル読んでないし、聖書の知識は浅いし、
「はあーそうですか」とうなづくしかないことがいろいろ書かれていて
カルペンティエルのトリビアの泉だったら70へえくらいは行きそうでした。(Aさん)
古典、神話、キリスト教等々Aさんも指摘している通り
引用、なぞり、比喩などが多用されており、読みにくいことは確かです。
こういう作品の唯一の対応はクイズと思って読み解いていくことだと思います。
特に人物相関図は主人公をめぐるパズルです。
相当意図的なものになっています。女性像が生きたものになっていないのはそのためです。
という余計訳の分からなくなるようなコメントになってしまいました。 (K講師)
某会員からのコメントを許可をいただいたので、追記します。
この読書会に参加して良かったと思う根拠のひとつとなる作品でした。
課題本でなければ読まなかったし、僕の場合、今年のベスト1とも言っても良い気がします。
例会では、参加する女性たちからの反感が怖くて言えなかったことがあります。
主人公は関わる女性たちにひどすぎるという意見が出ましたが、
これはこの作品の本質からしてやむを得ないと思ったのでした。
作者の求める原始の男は女性のそばにいるだけで発情するものであり、
結婚やモラルによって縛られない社会で、男はそばにいる女に対して自然に性的行動を起こす。
一方で原初の女とは、その時にそばにいて自分と子供を守る男を必要とする。
作者の、もしくは主人公の原始への憧れは、作品の初期に語られます。
「擬音‐魔術‐リズム」という原理に基づく音楽の起源に関する私の結論。
その存在理由は生命の発生と終焉と結びつき、命の営みに重要な狩猟、農耕と関り、
天候への祈り、自然との深いかかわりに結びつく。
現在の<わたし>と、いつかはそうなりたいと願っていた<わたし>とのあいだに、
失われた年月が暗い亀裂を深めていた。
作者はしがらみだらけの現代社会から抜け出して原始社会にたどり着きたいと願い、
結局はたどり着けない無為なあがきの中に生きている。
解読困難な描写の多くは人間生活そのものであり、
この作品が古さを感じさせないのは、作者がとことん物事の本質に戻ろうとし、
人間の本質、そして人間として生きることの本質、もしくは生命の本質まで遡ろうとしているからだと思う。
「考えてはならないのだ。なによりもまず、感じ、そして見なければならないのだ」と言う。
久々に偉大なる書物に出会ったように思えました。
そして、
「生存は愉快でないおおくのことを必要としたのである。
出産‐陣痛、毒蛇‐腕の切断、腐植土‐堆肥、
すべての生殖は老廃物の近くで行われるという法則にもとづいていた」
「果物がひとつ夜の中に落ちた」
なんともかっこいい表現!
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