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俳句雑記帳

俳句についてのあれこれ。特に現代俳句の鑑賞。

写生(しゃせい)

2009年09月15日 | 俳句
 写生は俳句の最も基本的な手法だと私は考えている。絵画がデッサンから始まるように、俳句も写生が基本になると思う。写生は正岡子規が洋画の「スケッチ」を俳句に移植した手法である。視覚を重点に置き、色彩・物の位置・形状・全体の構図を俳句の中に盛り込む手法である。事物の取捨選択は認めるが加筆は認めないという特色があった。現実の生活者としての、感情世界を切り捨て、一つの風景、状態としての世界を俳句とした。つまり自然を詠むことに重点が置かれた。高浜虚子はこれを発展させて「客観写生」を唱えたが、さらに人間世界を詠むことにも範囲を広げた。自然の中には人間も含まれるという当り前のことを主張したのである。現在では人間に関わる季語も多い。人類の歴史をたどれば、自然と人間は対立するものであったが、地球規模で見れば同一空間に存在するものとしてあるわけだ。自然の中に人間も含まれる。写生のレッスンとしてよく言われるのが「見たままを詠め」ということである。この訓練をせずに感情や批評を述べたり頭で考えた観念を述べようとすると、間違いなく失敗すると思ってよいだろう。

    赤とんぼ夕日の中の父母の墓  黛 執(まゆずみ・しゅう)

 句集『畦の木』より。著者は俳誌「春野」主宰。
赤とんぼと夕日と聞くと誰でも「夕焼小焼けの赤とんぼ」を思い出すであろう。作者はそれを承知の上でこの句を書いているのである。墓場に赤とんぼが飛んでいる。父母の墓の前に行くと、その墓は夕日に染まっているのだ。父母の面影を思い出しながら、作者は子供時代に還っているのだ。家族のこと、友達のこと、学校のことなど、周りの自然と共に鮮やかに蘇ってくるのである。赤とんぼ、夕日、父母の墓、これだけの組み合わせで読者の想像は広がるのである。赤とんぼよありがとうと作者は言っているのだ。(勢力海平)

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