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俳句雑記帳

俳句についてのあれこれ。特に現代俳句の鑑賞。

老人党(ろうじんとう)

2009年08月31日 | 俳句
 衆議院選挙は民主党の圧勝に終った。これから政治はどうなるのか半分程度の期待はある。どこかで聞いた言葉だが老人党というのを思い出した。テレビドラマだったように思う。要するに老人が集まって政党を作ろうと言うのである。この考え方には一理あると思える。高齢化社会と言われて長い。後期高齢者などと老人を馬鹿にしたような意味不明の言葉もある。老人に前期も後期もあるまい。後期高齢者とは死に近いという意味か。確かに老人は病気になりやすい。しかし元気な老人の力が劣るとは思えない。80歳を越えた政治家も少なくない。老人党だから老人のことばかり考えるというのではない。日本の将来について真剣に知恵を絞れるのではなかろうか。さしずめ俳人には老人が多い。中には政治的資質のある人もいるだろう。老人の人口が増えると言うのなら、老人党が活躍しても不思議ではないと思える。

    はたはたや高々と折る後ろ脚  日原 傳(ひはら・つたえ)

 「はたはた」はバッタ(飛蝗)の異称である。後ろ脚は極端に長く発達して跳躍に適している。体長の数十倍もの距離を跳ぶこともできる。イネ科植物を好み、農林植物に大被害を与えるものもあるが、句材としては好まれるようだ。跳躍のために後ろ脚を折るのだが、関節が長いために「高々と」折ることになる。なんとなく100m競走のスタート姿勢を思い出す。この作者には小動物を見つめて描写した句が多いようだ。俳人は動物派と植物派に分かれるとも言われるが、動物派には若い作者が多いようだ。動くものに目ざとく反応するということかもしれない。(勢力海平)

虫たち

2009年08月29日 | 俳句
 俳句で虫と言えば秋の季語である。鳴く虫を指すが、これにも二種類ある。きりぎりす、うまおい、くつわむしなどのように野趣のある声で鳴く虫。一方で、こおろぎ、すずむし、まつむし、くさひばり、かんたんなど、美しい声で鳴く虫がいる。それぞれの固有名もまた季語となる。鳴くのは雄であって雌は鳴かない。一般に虫と言えば鳴くものだけではない。ノミもシラミもダニもゴキブリも虫である。虫は無数にいると言ってよいが、これらもまた生物の大循環の中で重要な働きをしていることを忘れてはなるまい。季語となるものだけが大切なのではない。

    ががんぼのなかなか去らぬ碁盤かな  日原 傳(ひはら・つたえ)

 句集『此君(しくん)』より。
 ががんぼは蚊を大きくしたような体形で脚が極端に長い。手を触れるともげてしまうことが多い。夏の季語。そのががんぼが碁盤の上に止まって動こうとしないのである。手を触れれば脚がもげて汚れる。と言うよりも可愛そうだ。自分で飛び立つのを待っているのであろう。今から碁を打とうという二人の男はががんぼを横目で見ながら談笑しているのか。やさしい男たちである。(勢力海平)

神楽(かぐら)

2009年08月27日 | 俳句
 「神遊び」とも言う。神を祀るために行なわれる神事芸能。宮中で行なわれるものを御神楽(みかぐら)というが、これが12月であるため民間で行なわれる里神楽も冬の季語となっている。語源は神座(かみくら・かむくら)の転と言われる。神座とは「神の宿るところ」を意味し、神座に神々を降ろし、巫女が集まった人々の汚れを祓ったり、神懸かりとなって神の意志を伝えたり、また人の側からは願望が伝えられるなど、神人一体の宴を催す場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったと考えられている。
 里神楽は民俗芸能研究の第一人者である本田安次(1906-2001)がさらに大きく巫女神楽・出雲流神楽・伊勢流神楽・獅子神楽に分類した。これらの流れを汲んだ神楽が各地に存在する。夜神楽(よかぐら)と言って夜を徹して行なわれることが多いようである。いくつもの物語が夜を徹して舞われるのである。

    神楽果つ人の匂ひの闇残し  植田貞子(うえだ・ていこ)

 夜神楽である。神楽を舞うのは男たちである。神社でお礼を出して巫女に舞ってもらう神楽ではない。登場するのは神々であることが多いようだ。神の物語なのである。人間が神を演じ、その神々が物語を綴って行く神遊びなのである。作者はどこかへ夜神楽を見に行ったのである。神楽に限らず行事を見ると、報告に終ることが多いのは多くの俳人が経験するところである。神楽の一場面を詠んだりする句が多い。それが悪いとは言わないが果たしてそれで真実を切り取ったと言えるであろうか。この句はそこへ切り込んでいると思う。神楽が果てて闇が残っている、ここまでは普通の描写である。眼目は「人の匂ひの」である。見物衆の匂いということもあるが、いままで神となっていた神楽師(演者)たちの匂いでもあるのだ。神々の空間から人間の空間への転換を実感しているのである。神楽の句として衝撃的である。(勢力海平)

象(ぞう)

2009年08月26日 | 俳句
 哺乳綱ゾウ目(長鼻目)に属する動物の総称である。陸棲哺乳類では最大の大きさを誇る。化石で発見される種類は多いが現存するのはアフリカゾウとアジアゾウの2種類だけである。全般にアフリカゾウのほうがアジアゾウよりも大きい。
長い鼻、大きな耳が特徴。首が短く、立ったままでは口を地面につけることが出来ない。膝をついてしゃがむか、むしろ筋肉質の長い鼻を使って食べ物や水などを口に運ぶ。鼻を使って水を体にかけ、水浴をすることもある。この鼻は上唇と鼻に相当する部分が発達したものであり、先端にある指のような突起でピーナッツのような小さな物から、豆腐といった掴みにくい物までを器用に掴むことができる。
 人間には聞こえない低周波音(人間の可聴周波数帯域約20Hzのそれ以下)で会話していると言われ、その鳴き声は最大約112dBもの音圧(自動車のクラクション程度)があり、最長で約10km先まで届いた例もある。加えて、象は足を通して低周波を捕えられることも確認された。
 ゾウの足の裏は非常に繊細であり、そこからの刺激が耳まで伝達される。彼らはこれで30~40km離れたところの音も捕えることができる。この生態領域はまだ研究途中であるが、雷の音や、遠く離れた地域での降雨を認知できるのはこの為ではないかと考えられている。専門の学者によれば、象は世界中の出来事を何でも知っているという。もちろん季語ではない。

    草干すやはるかな音へ象の耳  植田貞子(うえだ・ていこ)

句集『篠笛』(天満書房刊)より
 牛馬の飼料とするために刈り取って干したものが「干草」である。貯蔵して牛馬に与える。動詞ととしては「草干す」となる。雑草は花の頃が栄養分も多く収穫量も多いので花期のころに刈り取りを行なう。夏の季語である。句は動物園の情景なのか外国詠なのかわからないが、草干しの場面と象は同時には見えないであろう。象の近くに来る前に作者は草を干す場面を見てきたのである。象の耳を見ていると何でも聞こえるような気がしてくる。あの遠く離れた草を干すかすかな音も象の耳には届いているのであろうか。心なしか象の耳はその方向に向いているのだ。(勢力海平)

ガイア理論(ガイアりろん)

2009年08月25日 | 俳句
 地球と生物が相互に関係し合い環境を作り上げていることを、ある種の「巨大な生命体」と見なす仮説である。ガイア仮説ともいう。NASAに勤務していた大気学者であり、化学者でもあるジェームズ・ラブロックによって1960年代に仮説が提唱された。地球を、岩石と土壌でできた不活性な球体でなく、惑星とそこに住む生物が相互に依存し、自ら適応し調節する超有機的生物として捉えるというもの。簡単に言えば地球を一つの生命体として捉える考え方である。
 地球上には多くの循環体系が存在する。例えば地上の水分が蒸発して雲となり、雲は雨となって地上に戻る。草の葉をバッタが食べ、そのバッタをカマキリが食べ、そのカマキリを小鳥が食べる。その小鳥を鷹食べる…というように循環して結局は草の葉に戻る。
 これまでの科学では、これらの循環はそれぞれ独立して考えられてきた。しかし人間の生活が豊かになるにつれて発生してきた公害などの環境破壊は、生態系に代表されるように、自然の循環機能が個々別々に存在しているのではなく、かなりの部分で密接に関連していることを現実として認識させた。人間の手でコントロール可能と考えられてきた自然は、実は手に余るしろものだったのである。そこから出てきた1つの仮説が「ガイア理論」。これは、地球上の全ての自然は、人間を含めて1つの大きな生命体である、と考える仮説である。そこでは、いわば海や川、生物などすべては、地球という生物の1つずつの細胞のようなものであり、全ては密接にリンクしているのだ。

    秋草や妻の形見の犬も老い  本井 英(もとい・えい)

 妻が残していった犬。名前は何と言うのだろう。何年か前に妻がもらってきた子犬が今は大きくなっている。もはや老犬と言うべきだが、その老いぶりを見ることもなく妻は死んでしまった。妻の形見となってしまった犬も老いが目立つようになった。秋草の上を駆ける姿もどこか弱々しい。思えば私自身も老いてしまっている。妻を亡くしてから何年になるだろう。自分もまた妻の残した形見なのだ。(勢力海平)

渡り鳥(わたりどり)

2009年08月21日 | 俳句
 食糧や環境などの事情によって長い距離を移動(渡り)する鳥のこと。32000㎞という長距離を渡る鳥もある。俳句では秋になって渡ってくる鳥を「渡り鳥」として秋の季語としている。雁・鴨・鶴・白鳥など種類は多い。体の小さい鳥を一般に小鳥と言うが、俳句で「小鳥」と言えば渡る「小鳥」であるから雀などは季語の「小鳥」とはならない。春・夏に渡ってくる夏鳥は群れをなさないので、大群をなして渡ってくる冬鳥類を「渡り鳥」としている。春になって帰ってゆく鳥を指して「鳥帰る」と言うが「帰り鳥」とは言わない。

    伸びきりてしばらくちぎれ鳥渡る  本井 英(もとい・えい)

 群れをなして渡る鳥を描写した句である。雁の渡る様子を指して「雁の棹」などという使い古された表現もあるが、この句は常套表現を使わずに、いかに的確に描写するかに力を注いでいる。雁の群などはまったく自在に動いているように見える。伸びきったと思えばちぎれてまた合流する。雁に意思があるわけではなかろうが、敵を欺くための本能であろうか、常に飛行形態は変化している。雁に限ったことではない。大群をなして羽音を立てながら大空を飛びすぎていく情景は壮観そのものである。「しばらくちぎれ」によって「鳥渡る」がぐんと生きた。
(勢力海平)

秋の暮

2009年08月20日 | 俳句
 「秋の暮」は古来から問題のある季語と言える。「秋の夕暮」なのか「秋の終り」なのか混同されたまま使われてきたようである。現在では「秋の暮」は秋の夕暮を指すことで定着していると言える。季節の終りは「暮の秋」である。しかし、「夜の秋」と「秋の夜」を混同する人がいるくらいだから、「暮の秋」と言っても「秋の暮」だと思う人もいるかもしれない。規則とまでは言えないことであるから、個人の慣れの問題となろうか。「秋の暮」は侘しさや寂しさを表象する季語として重要である。「もののあはれ」にも通じるものがある。
    此の道や行く人なしに秋の暮  芭蕉
この句はサリンジャーの短編「九つの物語」にも引用されていて英訳がある。
  Along this road goes no one,this autumn eve
「此の道」をroad(道路)と訳したことで芭蕉の意図とは異なるが、完全な風景描写の句に化したようでありながら、「秋の暮」の感じがよく出ている。

   もう誰も帰つてこない秋の暮  本井 英(もとい・えい)

 句集『八月』より。著者は俳誌「夏潮」主宰。
 秋の日も暮れるというのに誰も帰って来ないというのである。「もう」にはいろいろな意味があるであろう。作者は七年ほど前、愛妻を亡くされた。親しい人の死は、ひょっとしてひょっこり戻ってくるのではないかという幻想にさいなまれるものだが、月日が経つにつれて帰ってこないことを認めざるをえなくなるのである。「もう」には深い諦めの心情が感じられる。
 愛妻のことを除外して考えれば、弟子たちはもう十分に勉強し修行を積んできた。もはや誰も帰ってくる必要は無いというようなことになろうか。とは言いながら襲い来る寂しさは耐えられないものがある。まさに秋の夕暮なのだ。
(勢力海平)

河鹿(かじか)

2009年08月18日 | 俳句
 昔の和歌では「かはづ」として登場しその美しい声が愛でられた。体長3.6-6.9cm。オスよりもメスの方が大型になり、オスは体長4cm前後。体は扁平。体色は灰褐色で、不規則な斑紋があり岩の上では保護色になる。山地の渓流や湖、森林等に生息する。オスは水面に出た石の上等に縄張りを持ち、繁殖期の4-8月になると雄はしきりにメイティングコールをあげる。和名の「河鹿」はこの鳴き声が雄鹿に似ていることが由来。鳴き声を聞くことはあっても、保護色のためか姿を見かけることは少ない。分類上は両生類のカジカガエルである。冬は石の下などで冬眠する。

    吊り橋の闇にすくめば河鹿鳴く  清水智子(しみず・ちえこ)

 吊橋にもよるだろうが深い谷に掛かっている場合は昼間でも足がすくむ。できるだけ下を見ずにまっすぐ前を向いて渡るのがコツである。では夜の場合は下が見えないのだから平気で渡れるかと言うとそうもいかないのである。真っ暗闇ではないとしても下から川音が聞こえたり、風で橋が揺れたりする。この句では作者は吊橋を渡ったわけではないだろう。闇に吸い込まれるような気がして足がすくむのだ。綱につかまったまま動けないのである。そもそも闇の中で吊橋を渡る意味はないと思うが、おそらく作者は河鹿を聞きに来たのであろう。ついでに吊橋に足をかけたがすくんで動けない。そのとき河鹿が鳴いたのだ。やっぱり河鹿はいる。その鳴き声に足のすくみも解けるのである。(勢力海平)

帰省(きせい)

2009年08月17日 | 俳句
 本来の意味は「父母を訪ねてご機嫌をうかがう」という程度のことであるが、歳時記では「学生、官吏、会社員などが夏期休暇を利用して生家に帰ること」とある。会社員が実家に帰るのは盆と正月であろう。なぜ夏の季語なのかの根拠は見当たらない。おそらくは墓参りと関係するかと思われる。父母に会うということもあるが、先祖に会うという意味が大きいように思われる。盆休みの帰省ならば秋になるが、なぜか季語としては夏である。このあたりは厳密な区別は必要ないであろう。調査によれば「帰省」という季語は大正中頃の句に初出とある。

    初恋の人の死を知る帰省かな  鈴木智子(すずき・ちえこ)

 久しぶりに実家に帰るといろいろな情報が入ってくる。あの人がどうしたとか、この人が入院中だとか、あるいは誰々が振り込め詐欺に遇ったとか。あの人が死んだという情報の中に初恋の人の名があったのである。初恋だから中学か高校時代の友人であろうか。もちろん自分だけの思いであろうから他人にはわからないことである。その人の名を聞いた途端に思い出が鮮やかに蘇るのである。何年前のことであろう。淡い恋の思い出にこんなときに出遭うとは。初恋の人が死んだことに軽い驚きはあるであろうが悲しいというわけでもない。人は誰でも死ぬのだという事実を淡々と受け入れているのであろう。帰省というアクションが引き起こす一齣であるが、優しい言葉で客観的に述べて時の流れを的確に捉えている。(勢力海平)

総合雑誌

2009年08月16日 | 俳句
 俳句の総合雑誌というのは性格付けが極めて難しい。商業雑誌であるから儲かると考えて発行するわけだが、何十万部も売れたという話は聞かない。朝日新聞社の「俳句朝日」でさえ採算が取れなくて廃刊となった。わが「俳句文芸」も休刊した。果たして俳句の総合雑誌なるものは必要なのかという問いがあるように思う。総合雑誌がなくても誰も困らないという現実があるからである。一方で結社誌の低迷も問題であろう。若い人の参加が少ないと嘆く主宰が多い。俳句人口は確実に減少していると思える。その反面では同人誌が増えているようにも思う。主宰を仰ぐのではなく、自分たちが同格で前進しようという心構えであろう。座の文芸の復権とも言える。こういう状況を考えると、総合誌の生きる道はあるように思えるが如何なものか。

    子のあとを這へば大きな夏座敷  鈴木智子(すずき・ちえこ)

 句集『春筍』より。
 はいはいをする子の後を這いながらついて回っているのである。わが子と戯れながら這い回ってみるとこの座敷のなんと広く大きいことか。大人の視点では見えないものが見えてくる。いわば猫の目と同じ位置で見ているのである。小津安二郎の映画の視点を思い出す。子と一緒に這い回ることで普段見ているこの座敷の大きさを発見したのである。遊びの中ではあるが、写生の基本である「視点を変えてみる」ということを実践しているのだ。必死になって子の後をついて行く母親の姿も微笑ましい。本来の夏座敷の意味ではないが、こういう捉え方もあっていいと思う。(勢力海平)