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俳句雑記帳

俳句についてのあれこれ。特に現代俳句の鑑賞。

高速道路

2009年07月31日 | 俳句
 私のように車を運転しない者には関係のないことだが「高速道路の無料化」が話題になっている。無料になれば運転者にとってはありがたいことだろうが、まず交通量が増える。増えれば二酸化炭素の排出量は急激に増加するだろう。運転者の中には、「私は料金を払うことで時間を買っている」という人もいるようだ。無料になれば混雑するだろうから、そのメリットは無くなるというのである。何よりも問題なのは、道路会社の負債31兆円を国が負担するという点だろう。つまり税金で負担するというわけである。高速道路が無料になって得をするのは運転者である。運転しない者にまで負担させるというのは不公平ではなかろうか。無料化がいかにも良いことのように言われるが、運転しない者には二酸化炭素と税の負担を強いられるのである。

    このごろや下駄音立てず阿波踊  上崎暮潮(うえさき・ぼちょう)

 阿波踊は400年の歴史を持つという。作者は徳島市の住人だから子供の頃から阿波踊に親しんできたであろう。阿波踊の連(れん)は1000組もあると言われる。期間中の阿波の国は阿波踊で沸騰するのである。女踊りは下駄を履くのが原則である。その下駄の音がこのごろは聞こえないと言うのである。踊り方が変ったのか、作者の耳が遠くなったのかわからないが、いずれにしても時代の流れなのだ。「このごろや」というのは「このごろは」という意味であるが、「や」で切ることで詠嘆の意味が含まれる。時代の変遷をしみじみと感じているのであろう。「や」の使い方として面白い。(勢力海平)

蝉(せみ)

2009年07月29日 | 俳句
 夏になって最もやかましいのが蝉である。日本には32種類が分布するという。羽は透明なものが多く、口は針のように細長くて樹木に差し込んで養分を吸うようにできている。幼虫は地中で樹木の根から養分を吸い、数年から十数年を過ごすという。地中からでて木に登り羽化するが抜け殻は空蝉(うつせみ)である。雄の腹部に発音器があって高い声をだす。雌は鳴かないので唖蝉とも言われる。蝉の句と言えば、

   閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉の声  芭蕉

に代表されるであろう。極めて感覚的・即物的でありながら作者の心象も窺える。

   城山の押し出してくる蝉の声  上崎暮潮(うえさき・ぼちょう)

 城山という地名もあるが、ここでは城のある山、またはあった山ということだろう。住民に親しまれている山であろう。その山の森林では蝉が盛んに鳴いているのだが、作者は山にいるわけではない。だから蝉時雨とは言っていない。蝉の声があまりに激しいので、山がそれを押し出してくるというのである。山が吸収できる容量を超えているのだ。山を生き物のように捉えたところが面白い。蝉の声で満腹になった山がそれを吐き出しているのである。(勢力海平)

夕焼

2009年07月28日 | 俳句
 夕焼は四季を通じて見られるわけだが、殊に夏は壮大で美しい夕焼が見られるということで夏の季語となっている。人の好みや場所によっては秋のほうが美しいという場合もあるだろうが、とにかく夏の季語である。日が沈むとき太陽光が大気中を通過する距離が長くなるので、青色光は散乱して波長の長い赤色光だけが届く現象である。夕焼の翌日は晴れると言われている。

    吉野川火の帯となる夕焼かな  上崎暮潮(うえさき・ぼちょう)

 句集『眉山』(天満書房刊)より。
 吉野川は奈良県にもあるが、これは四国中央部を東西に流れる大河である。東西に流れる川だから夕焼はもろに川に反射する。徳島平野を流れる川は障害物も少なく、広く見渡せるのであろう。まさに「火の帯となる」のである。空の夕焼のことは言わずに川だけを描写して、全体の壮大な景色が描かれている。
(勢力海平)

火蛾(?)

2009年07月27日 | 俳句
 火蛾と書いて何と読むか。多くの歳時記では「かが」と読ませているようである。電子辞書「大辞林」でも「かが」である。旧仮名遣いでは「くわが」となる。私の知る限りでは「日本大歳時記」だけが火蛾(ほが)と振り仮名をつけている。私はこれが正しいと思いたい。火蛾(かが)は重箱読みであってみっともない読み方だという気がする。和語として火蛾(ほが)と読むのがしっくりすると思う。蛾は灯火に集まる習性があるので火蛾とか火取虫などと言われる。

    酌婦くる火取虫より汚きが  高浜虚子

 この句は女性を蔑視していると言って「ホトトギス」から去った人もいたそうである。吟行の帰りにどこかの飲み屋に寄ったようだが、虚子自身が「なんとも汚い女であった」というようなことを書いている。事実はそうであって、虚子自身の実感であったとしても、私にはそうは読めない。そう読んだのではつまらないからである。そのとおりを詠むのが写生の基本とは言うものの、読者の想像を膨らませる要素があってこそ秀句と言える。
 この句を見てまず感じるのは、作者は本当に汚いとは感じていないのではないかということである。たかが一匹の蛾と比較しているに過ぎない。蛾より汚い酌婦と言われても具体的なイメージは浮かんでこない。むしろ酌婦をちょっと揶揄していて、逆に褒めているように取れる。酌婦への賛歌とも言えよう。
 発表された句をどう読み取るかは読み手の自由である。どう読まれようと作者が抗議する意味はない。作者の意図とは違う読み方をされることで秀句となることがある。俳句が文学である所以である。(勢力海平)

助動詞「し」

2009年07月27日 | 俳句
 助動詞「し」は「き」の連体形である。「き」は過去回想の助動詞と言われるが、簡単に過去の助動詞と覚えておけばいいだろう。過去の助動詞であるから「き」には未然形はない。「し」はよく使われるが過去の助動詞という意識のない人が意外に多い。主宰クラスの俳人の句にも多く見られるようである。現在のように使う人が多いのだが、意味が全く違ってしまう。注意して使いたいものである。

   春の月ありしところに梅雨の月  高野素十(たかの・すじゅう)

 「し」の使い方を最も正しく示している代表的な句である。「春の月」は過去の思い出、現在は同じところに「梅雨の月」が出ているのである。したがってこの句は季重なりではない。この一句を覚えておくと「し」の用法を間違えることはない。

   今死ねば一部屋の空く花木槿  亀田虎童子(かめだ・こどうし)

 「死」という厳しくも大きな題材を、淡々と述べた句。私が死ねば、この部屋は空くことになると言うのだが、後は誰が使うとも何とも言っていない。頭で考えたのではなく実感なのであろう。「空く」と言いながら自分が消えることを言っている。病室ではあるまい。自分が普段使っている部屋なのだ。人間は年齢と共に死を考えるようになると思うが、ここまで客観的に死を見られる境地は凄いと感心する。花木槿が窓の外に見えている。(勢力海平)

2009年07月25日 | 俳句
 蚊は夏に多いから夏の季語だが「春の蚊」「秋の蚊」もある。幼虫はボウフラで、孑孑と書くがこれも夏の季語としている。雌の成虫は人畜より吸血してかゆみを与える。昔は蚊取線香が夏の風物詩でもあったが現在は殺虫剤が発達している。殺虫剤のCMは蚊を憎々しげに殺すようなものもあって、いささかやりすぎとも思えることも少なくない。蚊もまた生命の大循環の中の一匹である。蚊が消滅すると大循環の輪はどうなるのだろう。生物学者に聞いてみたい気がする。
    わが宿は蚊のちいさきを馳走也  芭蕉

    二人して一匹の蚊を打ちもらす  亀田虎童子(かめだ・こどうし)

 句集『色鳥』より。
 蚊が一匹だけ部屋にいることがある。飛ぶ音が耳を掠めたりしてうるさいものだが、一人では打ち切れずついに二人がかりで追い始めるのである。二人がかりで大騒ぎをしても打ちもらしてしまった。こういうことはよくあるだろう。だから誰にでもわかる句だ。しかし、このように正直に言った句は見たことがない。二人というのは夫婦であろうが、歳とともに動作が鈍くなって一匹の蚊すら打ち落とせないのである。蚊に笑われているようでもある。小さな出来事なのだが、あの羽音はなんとも気になる。老夫婦の日常の一齣が素直に描写されている。(勢力海平)

有季定型(ゆうきていけい)

2009年07月24日 | 俳句
 有季定型は俳句の基本的な骨格と言える。俳句を始めたころは五七五で季語があること、と習った人が多いはずだ。特に季語の重要性に注目して高浜虚子が俳句を定義したのが「花鳥諷詠」である。四季の循環による自然界の変化を詠むのが俳句であるとした。有季定型と同じことだが、有季には無季という反対語がある。虚子はこれを排除したのである。このごろはネット句会などでは、季語は無くてもいいとか、五七五でなくてもいいというような主張もあるが、これで俳句ファンが増えるだろうか。土俵の無い相撲やベースの無い野球が面白いとは思えない。有季定型という最低の規則があるからこそ俳句は面白いのだと思うが。

   手がありて鉄棒つかむ原爆忌  奥坂まや

 8月6日と9日、広島と長崎に原爆が投下された。一瞬にして30万人の死傷者が出たのである。今までの兵器では考えられない凄惨さであった。全世界が驚いて、核戦争が起これば世界は滅びることを知った。核抑止力という考え方から現在は核廃絶の方向に向かいつつある。原爆投下は自然現象ではないから本来は季語となりえないが、余りにも重大な日であるだけに季語として定着しているのである。しかし、重い季語であるだけに俳句にすることは難しい。
 さてこの句、「手がありて」と言われてぎょっとする人も多いだろう。鉄棒にぶら下がるのだから当り前ではないかという意見もあろう。しかし、「原爆忌」という言葉に到達したとたんに様相は一変する。手があることが当り前では無くなるのだ。鉄棒をつかめることが当り前ではないのである。あの日死んだ人たち、手がちぎれ足がちぎれ、内臓が破裂した人たちを思えば、こうして生きて鉄棒をつかむことができるのは、なんと幸せなことか。過去のこととして片付けられない人間の悲しみが大きくのしかかってくる。原爆忌は重い季語である。
 

踊(り)

2009年07月24日 | 俳句
 人類がまだ言葉を持たなかった頃、伝達手段は手足を動かすことであったに違いない。音声も加わったであろうが。その名残が遺伝子に組み込まれているのであろう。それが踊りとして世界中で行なわれているのだと思われる。音楽や歌に合わせておどることであるが、日本でも田植え踊り、盆踊りなど種類は多い。俳句では特に盆踊りを秋の季語としているので、踊と言えば盆踊りのことである。盆には精霊が帰ってくるというので踊をたむけ、また送り帰すという意味がある。亡者と人間が共に踊り楽しむのである。もちろん娯楽的な意味もあろう。

   山々を見上げて進む踊かな  奥坂まや

 盆踊りは広場や町角に櫓を組んで音頭取が歌う。夜に行なわれるのが普通であるから、周りの山々は暗く黒ずんでいる。「山々を見上げて」というのは、意識的に見上げるということではない。振り付けというか、踊の所作なのである。ちょっと顔を上に向けて、というような所作は「風の盆」の踊にも見られる。覚え込んだ所作を音頭に合せて踊りながら進んで行く。亡者と踊っているという意識はないだろうが無心の境地に入っていくのである。踊の所作の一つを「山々を見上げて」と受け取ったところに発見がある。踊り手は決して見上げてはいないのだ。
(勢力海平)

俳句の著作権

2009年07月23日 | 俳句
 どういうわけか俳句には著作権がないようである。著作権を主張する人が居ないという事もあるが、世間は著作権を認めていないようだ。朝日新聞の「天声人語」などでも俳句はしばしば引用されるが、著作権をどう考えているのかはわからない。引用された人は喜んでいるかもしれないが著作権が問題になったという話は聞かない。著作権が認められない理由もわからないが、このことが俳句の社会的地位を下げていることは事実であろう。一人前でないから俳句は儲からないのだ。儲からないから優れた俳人は育たないとも言える。もっと著作権を主張する作家が現れるべきではないかと思う。その主張ができるほど、真剣に取り組んでいる作家が少ないということか。このブログもまた著作権を無視しているのだが。

   兜虫一滴の雨命中す  奥坂まや

 句集『縄文』より。作者は故藤田湘子氏の愛弟子。平成7年、句集『列柱』により第18回俳人協会新人賞を受賞。新鮮な作品群を筆者も評価した。
 この句は「兜虫に」と読める。夕立であろうか大粒の雨が降ってきた。その一滴が兜虫に命中したというのである。兜虫の背中は雨を吸い込まない。流れていくだけである。作者も雨を避けなければならないが、この瞬間を見届けたのである。兜虫は驚くことも無く木にじっとしているのであろう。「兜虫が」ととれば、兜虫の小便が私に命中したともとれるが、読み手にいくつもの解をあたえるのも俳句の面白さである。
(勢力海平)

日食

2009年07月22日 | 俳句
 7月22日は46年ぶりに日本で皆既日食が見られるというので、かなりの騒ぎとなったようである。とは言うものの皆既日食が見られるのは南方の一部にしか過ぎない。あいにくの天候で悪石島でも屋久島でも観測はできなかったようで残念であった。日食は年に2,3度は地球上のどこかで見られるのだから、さほど騒ぐことはないと思うが、やはり日本で見られるということが大事件だったか。テレビの実況中継をちょっと覗いてみたが、これなら外国の映像でも充分ではないかと思えた。
 日食は季語にはなり得ない。季節と関わらないからである。季語は地球の公転と関わるが、日食は地球と月と太陽の関係であって、季節とは関係がない現象である。

   老いてここに斯く在る不思議唯涼し  高浜虚子

 富士吉田で作られた句のようだが、場所は関係ないだろう。「不思議」というなまの言葉を使わざるを得なかった心境がわかる。なぜここに自分は居るのかという根源的な問いがここにはある。ある時ふと口をついて出るような呟きである。年老いたからというのではない。今の自分がなぜここに居るのかが不思議なのだ。しかも涼しさだけを感ずることができる。存在を証明するのは「涼し」と感じられる自分だけなのだ。不思議である。(勢力海平)