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俳句雑記帳

俳句についてのあれこれ。特に現代俳句の鑑賞。

クリスマス

2011年12月23日 | 俳句

 12月25日がクリスマスでキリストの誕生を祝う日である。キリストが生まれたのは夜で、その年月日は確かではないという。いつの頃からかローマ教会が12月25日を降誕の祝日としたようだ。キリスト教国ではないわが国でも、一般家庭でクリスマスの行事が行われるようになった。ただ日本におけるクリスマスは宗教行事というよりは、にぎやかに人々の交歓する日となっている。

    クリスマス馬小屋ありて馬が住む  西東三鬼(さいとう・さんき)

 馬小屋があるのだから、馬が住んでいるのは当り前であるが、それが何故クリスマスなのだろう。話は簡単なことである。キリストは馬小屋で生まれたというから、キリストの誕生日に馬小屋のことを思い出したのである。
 今の馬小屋は当り前のように馬が住んでいるだけだが、キリストが生まれるときはマリアが馬小屋にいたのである。その崇高とも言える光景は、今の馬とは関係がないのだが、まるでここで生まれたかのような錯覚に陥るのである。なぜマリアが馬小屋にいたかと言うと、ベツレヘムの宿が全て満員だったからだと言う。
 しかし、この手法はやや古いとも言える。キリストが馬小屋で生まれたということを単純にクリスマスと結び付けているだけである。遊びの作とも言えるだろう。人の忌日などではこの手の句ができやすいから注意が必要である。

    ジングルベル星を小出しに夜の雲  三好潤子(みよし・じゅんこ)

 今日はクリスマスイヴである。街は賑わっているのだろうが私は部屋にいてラジオを聴いている。ジングルベルの歌が流れてくる。橇遊びのアメリカ民謡なのになぜかクリスマスに歌われるようになったそうだ。
 窓から外を眺めると、雲が覆っていて星はわずかしか見えない。雲の動きにつれて凍星も少しずつ現れては消えて行く。まるで魔法の大きな手が星を小出しにしているようだ。


枯野(かれの)

2011年12月18日 | 俳句

 私的なことであるがfacebookを始めたのだが使い方がよくわからない。俳句の添削などには使えそうだが。興味があればfacebookの中で勢力海平を検索されたい。
 枯野は草木の枯れた荒涼とした野のことである。芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」がよく知られ、枯野のイメージを代表しているとも言えるが、西行の「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞ見る」(新古今集)が有名なようだ。

    遠山に日の当りたる枯野かな  高浜虚子(たかはま・きょし)

 説明の必要のないほどよく知られた句である。明治33年の作であるが、虚子独自の句境をこの句によって確立した記念碑的な一句であると言われる。
 荒涼とした枯野の果てにある遠山に日が当たってなんとも言えない懐かしい風景である。日本人が持っている原風景と言ってもよいだろう。注意したいのは「日の当りたる」であることである。さきほど遠山に日が当って今もその状態が続いているという時間経過がはっきりと示されている。
 かつて上田五千石が提唱した「いま、ここ、われ」が明確に現れている。客観写生でありながら、しっかりと自分を表出しているのである。

    犬の舌枯野に垂れて真紅なり  野見山朱鳥(のみやま・あすか)

 一匹の犬が枯野にやって来た。作者が連れて来たのではあるまい、どこかからやって来たのだ。山口誓子に「土堤を外れ枯野の犬となりゆけり」という句があるが、これはその続きのような句である。
 犬の舌がピンクなのはよく知られた事実であり、青や紫になっては病気であろう。誓子の犬が枯野をさ迷い歩いて朱鳥のところへやって来たというわけではないが、なんとなくそんなことを思わせる句である。


師走(しはす)

2011年12月09日 | 俳句

 師走というと12月のことであるが、12月は新暦も旧暦も12月である。本来なら旧暦の12月は太陽暦では1月のはずなのに12月だけは例外と言える。一年の最後の月であるから歳の瀬という感じが強い。12月というと時間的、気候的な意味合いが強いのでドライな感じである。極月、師走というと人生的な意味合いが出てくる。「師走」と書くので俗説に、師匠の僧がお経をあげるために東西を馳せる月というので「師馳す」から「師走」となったと言うのがあるが、あくまでも俗説であって語源は不詳ということである。

    女を見連れの男を見て師走  高浜虚子(たかはま・きょし)

 どういう情景だろう。日向ぼこでもしているのであろうか。そこへ二人連れの男女が通った。まず女を観察する。若くはないがなかなかの美人である。小料理屋でもやっていそうな感じである。次に連れの男を見ると、どうも旦那ではないようだ。かと言って不倫の相手でもなさそうだ。雇い人かもしれない。師走だから仕入れにでも行くのだろう。
 などと勘ぐっているうちに二人は目の前から消えていった。世間ではなんとなく慌しい師走ではあるが、そこにぽっかりと空いた時間と空間があるものである。

    雲水の素足や師走人の中  五十嵐播水(いがらし・ばんすい)

 雲水(うんすい)とは、空行く雲や流れる水のように行方の定まらない、諸国を行脚して修行する僧のことである。ここでは托鉢僧のことを言っているのであろう。師走の街は行き交う人も多い。混雑する人々の中に雲水が何人か混じっている。
 彼らは経文を唱えながら師走の街を行くのだが、一般の人々とは歩調が違うようだ。雲水は素足なのである。素足だから歩調が違うと言うわけではないが、慌しく行き交う人とは違う歩き方である。その素足が寒さを象徴しているようでもあり、身の引き締まる思いで見ているのだ。あわただしさの中の緊張感である。