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俳句雑記帳

俳句についてのあれこれ。特に現代俳句の鑑賞。

蚊遣(かやり)

2013年07月31日 | 俳句

 昔は農家では蓬の葉や松葉などを焚いて蚊を燻したようだが、この頃と言うか、かなり以前から蚊取線香が広く普及した。蚊遣の「遣る」は物や人を遠くへ追いやることであるが、最近は噴霧式の殺虫剤で蚊を殺すものもある。遣るは殺る(やる)になっている。

    蚊遣火や闇に下り行く蚊一つ  高浜年尾

 蚊遣の句はどうしても人事句となるようだが、この句は人間の匂いがしない。もちろん近くに人はいるのだが、蚊そのものを見ていることに注目したい。闇に落ち行くかと思ったが、そうではなく「下り行く」である。この闇は何なのだろう。部屋は明るいはずだ。そうすると外の闇ということになる。蚊が蚊遣火を嫌って部屋の外へ出た光景を捉えた。闇へ下り行く蚊と捉えたことで、蚊の哀れさが出ている句となった。

    蚊遣して婆云ふ「うまく老いなされ」 秋元不死男

 蚊取線香に火をつけながら、お婆さんが言ったのであろう「うまく老いなされ」と。見知らぬ婆さんであろう。作者よりもかなり年上の婆さんに違いない。私はこの程度だけれど、若いあなたはうまく老いなされと言うのである。この句がいつごろ作られた句か知らないが、現代にまさにぴったりの句である。高齢化社会と言われる時代だから、人々は老年になったらどうするかを考えなければならない。身につまされる話なのだ。老活という言葉もあるくらいである。俳句なのだから、もっとおかしみを持って読むべきであろうが、どうしても世の中を見てしまう。        


茅の輪(ちのわ)

2013年07月20日 | 俳句

 本来は夏越の祓の傍題の一つであるが、このごろは茅の輪が独立しているようだ。物がはっきりと見えるからであろう。陰暦6月晦日に行われるのが夏越の祓(なごしのはらへ)であるが、このときに立てられるのが茅の輪である。茅(ちがや)を束ねて大きな輪に作ったものである。神社の鳥居の下や拝殿の前などに置かれることが多い。これを潜ることによって禊をしたことになるようである。茅の代わりに菅(すげ)を用いたのを菅抜(すがぬき)と言う。

     見つつ来て茅の輪やまこと今くぐる  星野立子

 茅の輪が立ったよという噂を聞いて神社へやって来た。それは立派な茅の輪である。大きいので遠くからもよく見える。人々が次から次へとくぐっている様子が見える。これが茅の輪なのかと感心しながら茅の輪をくぐる順番が来た。「まこと今くぐる」はそこまでたどりついた心のありようを見事に描写している。

     一円を立てて茅の輪に内外あり  松本たかし

 茅の輪は円形であるから一円と言った。一つの円という意味である。内外は「うちと」と読む。意味は字の通りである。茅の輪は一つの円を立てたようなものだが、立てることによって内と外が生まれるのだ。夏越の祓は」茅の輪をくぐって詣でれば疫病から救われるという信仰である。茅の輪を立てることによって、内側と外側はケとハレの空間となる。ケとは日常でありハレとは祭や儀式である。作者は内と外があると言っているだけのようだが、かなり深い意味が隠されているように思われる。


水馬(みずすまし、あめんぼう)

2013年07月16日 | 俳句

 水馬と書いて関西では「みずすまし」と読むが、関東では「あめんぼう」である。みずすましは「まいまい」のこととなるのでややこしい。池や沼の水面にいて飛び歩いている。体は1.5センチほどであるが三対の長い脚ですいすいと水面を移動する。飴のような匂いがするのであめんぼうの名がある。水蜘蛛とも言う。

     水馬流れんとして飛び返る  正岡子規

 川面にいる水馬は軽いのですぐに流される。まさに流されるという瞬間に飛び返るというのである。水馬の動作をよく観察している。俳句は写生であるとしたのは子規であるが、これはまさしく写生句である。

     水馬決して水に濡れてゐず  後藤比奈夫

 写生句はよく写生ができているということでは終わらない。発見が必要だと思う。発見とは驚きである。作者自身も驚くが読者も共に驚くような発見があれば素晴らしい句となる。この句は昭和57年の作であるから今から30年ちょっと前の作品であるが、この句を見たとき、これこそは発見だと思ったものである。水馬についてはずいぶん観察したつもりであったが、水の上にいるのに濡れていないというのは発見である。見ているのに、私には見えなかったことである。この後、私は水馬の句に挑戦したことはない。


夏帽子(なつぼうし)

2013年07月04日 | 俳句

 夏の暑い日差しをよけるために使用する帽子の総称である。夏帽とも言う。具体的には、パナマ帽、カンカン帽、麦藁帽、経木帽、ヘルメット、登山帽などを指す。注意したいのは、夏帽子、冬帽子は生活の必要から生まれた季語であるが、春帽子や秋帽子は季語とはならないことである。春や秋が付いているから季語だと考えやすいが、春や秋には生活上の必要はない。被るとすればお洒落である。

     火の山の裾に夏帽振る別れ  高浜虚子

 平明な表現にまず感心する。別れと言ってもこれは悲しい別れではないだろう。句会で一緒だった連中との別れというようなことだろう。火の山だから阿蘇かもしれない。夏帽を小道具としてうまく使っている。楽しい別れなのだ。「裾に」という措辞がよく効いている。

     麦藁帽冠り信用金庫出づ  岡部弾丸

 極めて日常的な夏帽子である。信用金庫は庶民の銀行と言えるだろう。農家のおやじとかラーメン屋の主人が麦藁帽を被って信用金庫を出てくるのはいい風景である。現在では、逆に大銀行から麦藁帽が出てくる光景の方がおもしろいと思うが、それは表現が難しいか。


行々子(ぎょうぎょうし)

2013年07月02日 | 俳句

 ヨシキリ(葭切)の異名である。この名前は、ギョギョシ、ギョギョシ、ギョッ、ギョッという鳴き声から来ている。ウグイス科の鳥で躰はそれほど大きくはないが、とにかくやかましく鳴くのである。葭の茎に横どまりする。昼夜を分かたず鳴くので、その鳴き方に注意が行くようだ。

        葭切の上下に揺れる昼の月  中村草田男

 この句は珍しいと思えるほど行々子の鳴き声には触れていない。それは葭切と言うだけで十分にわかるということであろう。葭切が葭の茎を上下することによって昼の月が上下するように見えるというのである。葭切の運動は鳴き声ほど激しくはないが、大きな鳥ではないから葭の茎を上下する鳥の動きが月の上下となるのだ。ここでは「揺れる」と言って上下するとは言っていないが、葭が揺れることで月も揺れるのである。

      何匹もゐると見せかけ行々子  尚山和桜

 これは久米田池へ吟行したときの句である。池の岸辺には一部ではあるが葭原があって行々子が鳴いていた。彼はそれをじっと見ていたのである。とにかく鳴き声があまりにもやかましいので、いったい何羽の行々子がいるのかと思って観察したのである。葭の茎につかまっているのはどう見ても一羽しかいない。その結果こういう句になったのだが、行々子の特徴をよく捉えたと思う。鳥だから何羽という意見もあろうかと思うが、匹という数詞は獣、鳥、魚、虫などを数えるのに用いられるのだ。