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俳句雑記帳

俳句についてのあれこれ。特に現代俳句の鑑賞。

石鹸玉(しゃぼんだま)

2011年04月27日 | 俳句
 石鹸水をストローの先につけて吹くと美しい玉ができる。静かに吹くと大玉に、強く吹くと小玉が多くなって空中に浮かぶ。これが石鹸玉(しゃぼんだま)である。子供の遊びであるが春らしいのどかな景物である。江戸時代には無患子(むくろじ)の実を煎じた液を用いたという。日の光の中に虹色に浮かぶ球体は見ているだけで楽しいものである。

     大小は自在に吹けて石鹸玉  稲畑汀子(いなはた・ていこ)

 句集『さゆらぎ』より。
 「自在に」というのは大人の言葉であるから、これは子供達が石鹸玉遊びをしているのを見ている場面であろう。子供達の中に自分の子が混じって遊んでいるのを母親の眼で見ているのである。このごろは大きいのも小さいのも自在に吹けるようになったねと言っているのである。思い出の場面であるが、作者にとっては「今」なのである。

     しやぼん玉奏でるやうに吹きにけり  山崎 杏(やまざき・あんず)

 句集『童画館』(ふらんす堂)より。
 この句も子供の石鹸玉遊びを見ている場面のようである。ただ「吹きにけり」と言っているので自分のことのようでもある。とすれば子供時代の思い出となるだろう。兼題とか席題で「石鹸玉」が出たのであろうか。「奏でるように」とは上手い表現だが、言われてみれば石鹸玉にふさわしいと思える。音は出ないが、いかにも笛を吹くような仕草となる。空中に散らばる大小の玉はまるで楽譜が飛んでいるようでもある。

桜貝(さくらがい)

2011年04月20日 | 俳句
 遠浅の砂浜に打ち上げられる貝殻の中に、色も形も桜の花びらに似た貝殻を見かけることがある。これが桜貝である。殻はうすく光沢があり美しい。大きさは2㎝前後であろうか。もろくて壊れやすいが貝細工にされたりする。鎌倉の由比ヶ浜、紀伊の和歌の浦、石川の増穂浦は日本小貝の三大名所と言われている。
 桜貝と言えば貝殻しか見たことがない。果たして生きている桜貝はどこにいるのかと思えば、潮が引いたときに浜の砂(泥)を30cmくらい掘ると見つかるそうである。どういうわけか九州には桜貝は見られないそうである。関門海峡を渡れなかったのだろう。

     砂も亦美しきかな桜貝  高浜虚子(たかはま・きょし)

     ひく波の跡美しや桜貝  松本たかし(まつもと・たかし)

 桜貝そのものを言わなかったところは良いと思うが、虚子にしてもたかしにしても「美し」という形容詞を使って逃げている。「美しとしか言いようがなかった」と言うのだろうが、それは言い訳にしか聞こえない。「美し」で済ませられるなら俳句は楽である。しかし、それでは読み手は驚かない。形容詞を使わずに具体的に表現すべきであろう。このごろ「美し」という言葉を使う句を見かけるが、手垢のついた安易な表現はいただけない。「虚子も使っている」という言い訳は通じないのである。虚子は優れた俳人だからすばらしい句が多いが、駄句も多いのである。常にいい句ばかり作れるならば、それはもはや文学とは言えないだろう。

     さびしさに桜貝舐め紅濃くす  山口青邨(やまぐち・せいそん)

 桜貝を舐めるとは驚かされる。舐めたら濃くなったのであろうが、それを目的のように描写したところが優れている。舐めると濃くなるだろうと思えるから読み手は納得するのである。誰が舐めているかと言えば、子供であろう。一人で遊んでいる子供が、ふと桜貝を舐めた。それを「さびしさに」と捉えたのは作者の目である。「さびしさにまた銅鑼打つや鹿火屋守 石鼎」の「さびしさに」に似ている。どちらも作者の感想であって、描かれた人物がそう言ったわけではない。俳句が創作であると言われる所以である。

桜(さくら)

2011年04月15日 | 俳句
 桜は数百万年前から日本列島に存在していると言われる。日本の国花であるが法定ではなく慣習としてそうなっている。とにかく桜は日本人に好まれ愛されてきた。俳句では花と言えば桜のことである。桜はぱっと咲いてぱっと散るので、その潔さが好まれるようだが、その短い花の生涯は人生にもたとえられる。咲き初めから3分咲きとか5部咲きとか咲き進む様子が捉えられ、朝桜、夕桜など一日の中での変化も捉えられる。
 なぜか桜には死のイメージが付きまとうようである。文芸作品にも桜は多く登場するが死と結びつく作品がある。散るときのはかなさが無常感を誘うのであろうか。
 これほど日本人に親しまれる桜だから、名句が多いと想像されるが、意外と少ないように私には思われる。「咲き満ちてこぼるる花もなかりけり」という虚子の句は、私の知る限りこれ以上の名句はないと思われるが、昨年も同じようなことを書いた気がするので鑑賞はやめておく。
 実はこの一週間ほどあちこちへ桜を見に行ってきた。俳句を作る目的で行ったのだが、やはり桜を捉えることは難しいと思い知らされた。

     空をゆく一かたまりの花吹雪  高野素十(たかの・すじゅう)

 花吹雪はばらばらに散ることが多いが、この場合はひとかたまりとなって散ってゆくのである。風の具合であろう。「空をゆく」は何でもないようだが上手い表現だ。

     花筏やぶつて鳰(にお)の顔のぞく  飴山 實(あめやま・みのる)

 水面に浮く花屑の中から鳰が顔を出した。きょとんとした鳰の可愛い顔が目に浮かぶ。花筏という美しいものを「破って」という表現は水中の鳰が見ている情景だろう。

     咲きふゆる花の時間の中にをり  勢力海平(せいりき・かいへい)

 20年ほど前の私の句である。いまだにこれを超える句ができない。 
       

その日

2011年04月12日 | 俳句
 前回の投稿から軽く1ヶ月が過ぎてしまった。gooブログは落し穴があることがわかった。ログインパスワードを忘れたので編集画面へのログインができない。メールアドレスを変更しているのでパスワードの変更はできない。メールアドレス変更という項目はないので変更を知らせることもできない。私は新しく有料のブログを開設して「俳句雑記帳」をそちらへ移し変えようとしたのである。それが失敗の始まりだった。ややこしいので説明は省くが、パスワードを思い出すのにすごく時間がかかってしまった。
 その間に東北地方で大地震があった。3月11日、私はブログのために梅について書き始めていたのである。その時、なんとも妙な気分になった。脳梗塞の再発かと思ったのだが、なんとなく辺りが揺れているようでもある。それも非常にゆっくりなので地震とも思えなかった。しかし、辺りを見回せば電灯の紐が揺れているではないか。やっぱり地震だった。
 テレビで見る光景は現実とは思えなかった。遠い過去の出来事のようでもあるし、ドラマのセットのようでもある。しかし、それは紛れもない現実なのだ。現実だけれど我が事とは思えない。自分は傷もなく正常に呼吸している。
 何時間も経って、じわじわと襲ってくる感覚は限りない無常感である。日本列島は壊れて行くのだと思った。自然の力が自然を壊しているのだ。明日はどこが壊れるのだろう、自分の足元かもしれない。とにかく言葉が出て来ない。完全に私は言葉を失ってしまった。
 震災から1ヶ月が過ぎた.関西では桜が散り始めた。東北地方はこれからが花の季節である。津波をかぶった梅の木も立派に花を咲かせたそうだから、桜もきっと大丈夫だろう。
 俳句は何の力もないが、私は俳句を作るだけである。ただ、震災の句はできないと思う。テレビの映像は、映像でしかないのだ。空気も感じられなければ匂いもない。手で触る感触もないのである。「テレビを見て」作った俳句は、テレビの映像を句にしたものである。映像に感動して作ったとしても、映像と事実は異なるのである。(勢力海平)